あとがき愛読党ブログ

本文まで読んでいることを保証するものではありません

あとがき17 歴史学は世界を良くするか:手嶋泰伸『日本海軍と政治』(講談社、2015年)

 

日本海軍と政治 (講談社現代新書)

日本海軍と政治 (講談社現代新書)

 

歴史と歴史学は、似て非なるものだ。少なくとも、私はそう信じている。歴史上の出来事や人物について、気の遠くなるほどの膨大な知識を持つことと、歴史学をするということは、全く別の話だ。歴史学の研究者とは、過去の出来事や人物について、単純にたくさんのことを知っているだけの人なのではなく、歴史を使ってさまざまな思考ができる人のことであると思っている。もちろん、思考をする前提として、歴史的な事実が厳密かつ正確に確定されている必要があり、その基本的な手続きは絶対におろそかにされてはならない。歴史学の研究とは、あくまでも実証的であるべきだ。だが、歴史学が単に新たな事実を発見することだけに目的を置いたものではなく、発見された歴史的事実を用いて思考をし、現代社会にとって意味ある知を生み出すことを使命とする専門技術であるとするならば、その知を社会に少しでも還元していくことで、自らの存在意義を確認したいという思いも、恥ずかしながら持っている。

引用したのは、手嶋泰伸『日本海軍と政治』の「あとがき」の冒頭だ。
本書は、アジア・太平洋戦争に関する海軍善玉・悪玉論争を超えた視点から、官僚組織としての海軍の逆機能を論じたものであり、官僚制通有の教訓が得られる良書だ。

「あとがき」の末尾はこう結ばれている。恥ずかしながら、自分も同じ気持ちを持っている。

海軍について、非難から思考へと関心が移ることで、世界はもう少し良くなりはしないかと、青臭く、大それた淡い期待を捨てきれずにいる。お笑いください。

あとがき16 奥出雲から流出した仏像たち:映画『みんなのアムステルダム国立美術館へ』(2014年、オランダ)

http://image.eiga.k-img.com/images/movie/80692/poster2.jpg?1414464183

この間、劇場で映画『みんなのアムステルダム美術館へ』を観た。


映画 『みんなのアムステルダム国立美術館へ』公式サイト

前作『ようこそアムステルダム国立美術館へ』(2008)に引き続き、美術館の改修工事をめぐるバタバタを描いたドキュメンタリーだ。内輪の話はまとまらず、外野との話し合いは徒労。そんなてんやわんやを淡々と切り取るカメラの意地悪さがたいへん良い。

こんなビターなコメディ調の中で、一服の清涼剤が、仏像男子ことメンノ・フィツキさん(アジア美術学芸員)と、彼が購入してきた日本の仁王像だ。


REALTOKYO | Column | Interview | 114:メンノ・フィツキさん(アムステルダム国立美術館アジア館部長)

https://lh3.ggpht.com/15KsVzHlq7snTSms0auRuMde4cKMZPuXGfmb_iP0v3QkVD_5P6qS5FPT5F6ziF-RG3FCmdadUrJslmg6QN4ojFFlXp0=s293

https://lh6.ggpht.com/MbfT5rz181mb7CB87HJDTDit-Oer0BZ5WuYYwfcoD_aZDAVhCl94o7HuxKaPxQ-XNR3mZBwbMvKfPcQS4yWxqoyugu0=s293

 

パンフレットによれば、これは2007年2月に美術館が購入したもの。2m以上ある優品で、アジア館リニューアルの目玉になる。メンノさんがこれが旧蔵されていた廃れた山寺にはるばる参詣するシーンまで映画では記録されている。

しかし、エンドロール(まさに映画のあとがき)やパンフレットで目を凝らしてみても、その寺の名前は見つからない。
この寺は、島根県の奥出雲にある岩屋寺という。そして実は、この仏像は盗難されたものなのだ。

なぜ奥出雲からアムステルダムまで仏像は伝わったのか?今回は、奥出雲の岩屋寺から流出した文物について、誰でもアクセスできる公開情報をまとめておく。

■仁王像(14世紀?)

・現在、アムステルダム国立美術館に所蔵。

日本語で読める文献は見つけられなかった。ただ、ネット上にはそれなりに信のおける情報があるので、紹介しておく。
まず以下のブログで、地元の方がまとめたレポートが紹介されている。

咲子の奥出雲山里だより - 奥出雲讃菓 松葉屋 奥出雲の宝、発見☆

咲子の奥出雲山里だより - 奥出雲讃菓 松葉屋 『消えた仁王像の追跡』

咲子の奥出雲山里だより - 奥出雲讃菓 松葉屋 「消えた仁王像」の追跡 ①

咲子の奥出雲山里だより - 奥出雲讃菓 松葉屋 「消えた仁王像」の追跡 ②

咲子の奥出雲山里だより - 奥出雲讃菓 松葉屋 「消えた仁王像」の追跡 ③

要点をあげると、
・1973から75年ごろに寺から流出。1980年に売り出される。2004年からアムステルダムが交渉に入り、2007年に購入。
・頭部墨書から暦応年間(1338-42)以前の作であることが分かるため、年代は鎌倉時代にさかのぼる可能性がある。
ということになる。

誤解されないように強調しておくが、寺が売却したわけではなく、ましてやオランダ人が仏像をかっぱらったわけではない。

次いで、アムステルダム在住ライター・フォトグラファー、ユイキヨミ氏のブログpolderpress より。

 この仁王像と開眼式について、学芸員のメノー・フィツキさんによるレクチャーも行われた。
「この美術館で展示している仁王像は14世紀に作られたもので、かつては島根県岩屋寺を守っていました。寺はすでに廃寺になっており、像はアートディラーより購入しました。この像が置かれてた場所を見るために私は岩屋寺を訪れましたが、そこで目にしたのは、”門番”のいない朽ちた寺門でした。仁王像の小屋の側壁には、像を取り出すために開けられた大きな穴が、そのまま口を広げてしました。この光景を見たとき、私は何とも言えないメランコリーを感じました。悲しくもありました。我が美術館にある仁王像は、かつてはここが住処だったのだ。そして芸術品とはなんとも儚く、どんなに素晴らしい作品でも自らを守る術は持ってはいないのだと改めて認識しました」。そんな彼の言葉は、芸術への愛情と、宗教に対する敬意に満ちていた。

 アムステルダムでこの仁王像を見たこのブロガーさんは、そののち奥出雲の岩屋寺を訪ねている。

映画「みんなのアムステルダム国立美術館へ」に登場する仁王像のふるさと | polderpress

名古屋から電車で10時間かかったというから、並大抵ではない。

そこで撮られた写真を見ると、確かに映画に出てきた山門だ。メノウさんの言うとおり、側面がなく仁王像が運び出せるようになっているのがわかる。

■十一面観音坐像(鎌倉時代)

岩屋寺から流出した他の仏像として、十一面観音坐像がある。

この観音像は、2012年の京都国立博物館「大出雲展」(7月28日~9月9日)に出品された。目録には

十一面観音坐像1躯鎌倉時代 嘉元4年(1306)

とだけあり、現所蔵者については明記されていない。

この観音像は、こののち場所を変え、同年開催の島根県立古代出雲歴史博物館「戦国大名尼子氏の興亡」(10月26日~12月24日)でも展示された。

この両展示の図録での解説は参考になる。Web上で読める的野克之「「大出雲展」只今準備中」(『島根県立古代出雲歴史博物館NEWS』2【pdf】、2012)に同様の解説が書いてあるので、以下引用。

次に紹介するのは奥出雲町岩屋寺の旧本尊木造十一面観音坐像です。岩屋寺真言宗の寺院で、創建は古く、武士や庶民それに修験者の信仰も集めるなど勢力を誇っていて、横田八幡宮の神宮寺でもありました。しかし、永正年間(16世紀初頭)に尼子の兵火で焼かれてしまいます。しかし快円という僧が天文年間(16世紀半ば)に復興します。本像は嘉元 4年(1306)に鏡信という恐らく中央の仏師によって岩屋寺の本尊として制作されたことが分かっていて、快円は戦乱で傷んだ本像を修理しています。
しかし戦後、諸事情により岩屋寺は境内の様々な仏像を手放します。
本像は現在関西の個人の方の所有となっていて、その方のご厚意により展示がかないます。先日調査させていただきましたが、坐像で約 1メートルと大きく、しかも十一面観音では珍しい四臂(腕が 4本)の像で、上品な瓜実顔の像でした。
岩屋寺でこの像と一緒に安置されていた四天王像は愛知県のお寺へ、仁王門を守っていた仁王像はアムステルダム国立美術館へ行ってしまいました。仁王様は無理ですが、十一面観音様と四天王様には一度島根県に戻ってきてほしいものです。

この観音像に関しては以下の研究がある。

・伊東 史朗「岩屋寺旧本尊十一面観音坐像」(島根県古代文化センター 編『古代文化研究』14号、2006年)

・淺湫 毅「岩屋寺旧蔵の十一面観音坐像をめぐって」(京都国立博物館, 島根県立古代出雲歴史博物館 編.『大出雲展』島根県立古代出雲歴史博物館、2012年)

■四天王像(戦国時代)

さて、さきほどの観音像に関する引用で、これとともに安置されていた四天王像が「愛知県のお寺」に行ってしまったという記述があった。

これは、愛知県浄蓮寺という寺だ(『日本歴史地名大系』)。この四天王像は1979年に愛知県の文化財指定を受けている。

http://www.pref.aichi.jp/kyoiku/bunka/bunkazainavi/yukei/choukoku/kensitei/img/0398-1.jpg

木造四天王像(もくぞうしてんのうぞう)

高さ持国天83.0cm、増長天85.0cm、広目天85.0cm、多聞天83.5cm。桧材、寄木造(よせぎづくり)、玉眼(ぎょくがん)、彩色。
4躯ともほぼ製作当初の姿を残している。面相に落ち着きがあり、甲冑などの彫り口は確実で古様を示していて、正統仏所の伝統を受けた作風をみることができる。
銘文によると、南北朝時代に出雲守護職を歴任した塩冶(えんや)氏の後裔(こうえい)、泰敏らを檀越(だんおつ)として、天文8年(1539)に京都七条仏所の康秀が島根へ下向して製作したことが知られる。
小像ではあるが室町時代末期の正統仏師による作品で、製作年代と作者が明らかな上に、一具現存しており、修補も殆どなく、製作当初の姿をよく伝えている。当時の基準作例として彫刻史上重要な価値をもっている。

これも、観音像とともに、2012年の島根歴博戦国大名尼子氏の興亡」に出品された。

■行基像(戦国時代)

京博「大出雲展」、出雲歴博「尼子」展両方の図録によれば、上記の四天王像と同じ仏師により同時期に作られた行基像があったという。岩屋寺から流出したのち、カナダ・モントリオール美術館に所蔵されているとされているが、詳細不明。

真言八祖像 (南北朝時代

これも2012年の出雲歴博「尼子」展で他の岩屋寺旧蔵品とともに出品されたもの。その図録によれば、岩屋寺から流出したのち、個人コレクターの手を経て鳥取県立博物館が購入したのだという。

この画像は、鳥取県博のデジタルミュージアムで公開されている。以下のリンクから閲覧可能。

鳥取県立博物館 資料データベース

岩屋寺文書

気になるのが、岩屋寺に所蔵されていたはずの古文書だ。中世文書12点を含む岩屋寺文書は『鎌倉遺文』『南北朝遺文』などでも紹介されているが、その原本はどこにあるのだろうか。

2006年に『東京大学史料編纂所研究紀要』(16)で公表された杉山 巖「光厳院政の展開と出雲国横田荘 : 東京大学史料編纂所所蔵『出雲岩屋寺文書』を中心に」【pdf】によれば、原本の閲覧は現在不可能だという。

岩屋寺文書は近代になって影写本(精巧な写し)が作られているので、それに拠るしかない。

東京大学史料編纂所影写本(架蔵番号3071.73-35)は1894年に影写されたものであり、文書12点を収録する。

島根県立図書館蔵影写本は、明治末から昭和初期の旧『島根県史』編纂事業に際して作成されたもの。『新修島根県史 史料篇 第1 (古代・中世)』で翻刻された岩屋寺の中世文書30点は、これを底本としている。なお島根県立図書館影写本は、東大史料編纂所に写真版が所蔵されている。

※ちなみに、杉山論文で紹介されている東大史料編纂所蔵の『出雲岩屋寺文書』27点(架蔵番号0071-28)は、元は岩屋寺所蔵だったのだろうが、上記のものとは別個に伝来した文書群である。

*******

以上のように、岩屋寺の文物は(それぞれの時期は不明だが)流出し、モントリオールアムステルダムにまで拡散している。これ以外の寺宝、とくに文書の出現が待たれるところだ。

●感想

以下、映画を観た感想。

あの岩屋寺から流出した仏像が出ているとは知っていたので、観る前は多少反感を持っていた。しかし、メンノさんが届いた仏像をキラキラとした目で眺め、いつ美術館が再オープンするのかも分からない中、この仏像の公開のために尽力する真摯な姿をみて、考え方を改めた。

ミュージアムショップでは仁王像の大きなフィギュアが売られており(Webで購入可能。吽形阿形)、この仁王を主人公にした絵本まで作られている。美術館の力の入れよう、仁王像の愛されようが伝わってくる。


bol.com | The Temple Guardians  , Katie Pickwoad | 9789047616412 | Boeken...

特に驚いたのは映画ラスト、美術館再オープンのシーンだ。なんと、美術館はこのために京都から僧を呼び、仁王像の開眼供養をしたのだ。

これは日本でもニュースになったようだ。


仁王像の「新居」はオランダ 国立美術館で開眼供養:朝日新聞デジタル

さきほど述べたユイキヨミ氏のブログでも詳細にレポートされている。

アムステルダムで執り行われた、仁王像の開眼供養 | polderpress

僧たちが恭しく花を捧げ*1、仁王像を荘厳するシーンに、メンノさんおよび美術館が、単なる美術品以上のものとしてかの仏像をとり扱う姿勢を感じ、私は心動かされた。

奥出雲を訪れたユイキヨミ氏は、地元の古老のことばを伝えている。

「2体ともアムステルダムにあるのかい!?」と驚く彼に、国立美術館の目玉のひとつとして、来館者を喜ばせていると伝える。
「仁王堂の中にあった時は、暗かったし、下から大きく見上げるようにしか姿を拝めなかったから、こんなにちゃんと全姿を見たのは初めてだよ。やっぱり立派だねぇ。返して欲しいねぇ。だが、ここに戻ってきても誰も管理はできないから、美術館で大切にされているのが一番いいんだろうねぇ」

もちろん、この古老が地元の意見を代表しているかどうかはわからない。学術的な公開、調査、保存などの観点から見れば、私としては、アムステルダムにあることは幸運だと思うけれども、「誰にとってよいか」を考えると一概に結論は出ない。

ただ、確実に重要だと言えるのは、この仁王像が元来どこにあり、なにと共にあり、どうやってそこから離れるにいたったかという文脈が忘却されないようにすることだろう。そんなささやかな気持ちから、この一文は草された。

 

記事紹介: 「あとがきに見る著者」(「法藏館ブログ編集室のつくえから」より)

http://www5.city.kyoto.jp/kigyo/res/kigyo/img_00435_prsdt_pcp.jpg

仏書で名高い京都の法藏館さんのブログで、「あとがき」についてたいへんよくまとまった記事が書かれていましたので、紹介したいと思います。

編集室の机から_あとがきに見る著者

とっつきにくい難解な研究書・専門書のなかでも、例外的に著者の本音と人間味にあふれているのが「あとがき」だ、というこの記事は、まさにうってつけの「あとがき」入門になっています。

結局何が言いたいかといいますと、難しい文章を書いて、一見自分とは住む世界が違うように見える著者も、「自分たちと同じ1人の人間である」ということです。

こういった視点で是非、「あとがき」を読んでみてください。
もしかすると、あなたと似たような体験を持った著者が存在するかも知れません。
同じような体験をしてきた著者が、果たしてその体験からどのような研究成果を世間に公表したのか、もしかしたら自分もそんな研究をしていたかもしれない。そう思うと、なんだかワクワクしてきませんか?

これはあとがき愛読党の理念でもあります。この記事を読んだ方が、あらたなあとがき愛読者(アトガキスト)になることを期待しています。

 

※なおこの記事のなかで、拙ブログも紹介していただいています。歴史ある尊敬すべき書肆に読まれていたと知り感無量です。法藏館さん、ありがとうございました。

あとがき15 もっとも短い「はしがき」: 野中哲照『後三年記の成立』(汲古書院、2014年)

もっとも簡潔な「はしがき」に出会ってしまった。

はらりと表題紙をめくると、左右にたっぷりと余白のあるページが現れる。その中央に、ほんの少し大きいポイントの活字で以下の文言のみが記されている。

はしがき

 

従来、貞和三年(1347)とされてきた『後三年記』の成立年次を天治元年(1124)に引き上げる――これが本書の主旨である。

 

これが、野中哲照『後三年記の成立』(汲古書院、2014年)冒頭頁の全てである。

http://www.kyuko.asia//images/book/186023.jpg


一般的に、このような論文集は、長年別個に書かれてきたもの集成であるからか、「その本で何が明らかになるか」は、往々にして模糊としていることが多い。それに比べた本書の端的さ、鋭さには、思わず息を呑む。

軍記物語『後三年記』の成立年が200年引き上げられることは、些事ではない。
*『後三年記』の成立が院政期だとすれば、『平家物語』などよりも前のものとなり、『将門記』『陸奥話記』などの初期の軍記と『平家物語』など鎌倉期の軍記との数百年の空白を埋める重要なテクストとなる。また、『後三年記』の制作が後三年の役(1083~1087)の当事者である藤原清衡周辺であるという著者の主張が正しいとすれば、後世の絵空事と歴史学から見られてきたこのテクストは、一挙に政治史的な対象となる。

このシンプルな命題を証明するために、国語学歴史学にもまたがるさまざまな知見が用いられ、新しい方法論の提唱にもいたる。本書の全てがこの「はしがき」に収斂するように構成されているのである。

本書の「あとがき」にはこう記されている。

なお本書の「はしがき」がわずか一文であるのは、故藤平春男先生の、「論文でも本でも、その意義をひと言で語れるようでなければ駄目だ」との教えによる。

同じく「あとがき」によれば、驚くべきことに、本書のテーマは30年前の卒業論文で得た着想なのだという。しかし、本書まで至る道は決して平坦ではないことは容易にわかる。これを貫徹するため、どれほどの葛藤を乗り越えてきたのだろうか。
博士論文*1になりうるような一書を成すことへの気魄、緊張感、そのようなものを感じて私は居住まいを正してしまったのだった。

 

*1:著者が学位を授与された博論は本書の原型であるが、『後三年記』に加えて『保元物語』も論じたものだったようである。

https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/40240/1/Shinsa-6364.pdf

あとがき14: 『人生はニャンとかなる!』(文響社、2013年)とそれみたいなもの

■ウェブ書影展「『人生はニャンとかなる』とそれみたいなもの」によせて 

2014年の書籍年間ベストセラーが日版によって発表されました。

年間ベストセラー | ベストセラー一覧 | 日本出版販売株式会社

去年の総合1位は村上春樹色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』。そして、今年の1位は…

槙孝子・鬼木豊『長生きしたけりゃふくらはぎをもみなさい』

でした。

長生きしたけりゃふくらはぎをもみなさい (健康プレミアムシリーズ)
 

 そんな中、2位となったのが、水野敬也・長沼直樹『人生はニャンとかなる!―明日に幸福をまねく68の方法』です*1

古今東西の有名人のことばを大幅にカジュアルダウンした名言集(ルターの言葉は「第一印象が勝負」と「超訳」される!)に、それに関係してなくもないカワイイねこの写真を合体させたこの本。売れ線と売れ線をかけあわせて売れ線にする姿勢は、「カツ丼の上にビフテキとウナギを乗せたような映画を作る」といって『七人の侍』をヒットさせた黒沢明監督を彷彿とさせます。版を重ね、2014年上半期の時点で70万部を売り上げたといいますから、もう100万部ぐらい出てるかもしれません。

人生はニャンとかなる! ―明日に幸福をまねく68の方法

人生はニャンとかなる! ―明日に幸福をまねく68の方法

人生はニャンとかなる! ―明日に幸福をまねく68の方法

 

 この出版社からは、同じコンセプトのものが他にも出ています。

人生はワンチャンス! ―「仕事」も「遊び」も楽しくなる65の方法

人生はワンチャンス!   ―「仕事」も「遊び」も楽しくなる65の方法

人生はワンチャンス!   ―「仕事」も「遊び」も楽しくなる65の方法

人生はワンチャンス! ―「仕事」も「遊び」も楽しくなる65の方法

 

 ■人生はZOO(ずー)っと楽しい! ―毎日がとことん楽しくなる65の方法

人生はZOO(ずー)っと楽しい! ―毎日がとことん楽しくなる65の方法

人生はZOO(ずー)っと楽しい! ―毎日がとことん楽しくなる65の方法

人生はZOO(ずー)っと楽しい! ―毎日がとことん楽しくなる65の方法

 

 しかし、動きはこれだけに留まりません。柳の下でドジョウが捕れるらしい。同業他社からフォロワーがわずかここ1年でたくさん登場しました。「ニャンとかなる!」系の世界は急速に拡大しているのです。

今回のウェブ書影展というこころみは、Amazonのアフィ画像を使い、1年ほどの間に出た「ニャンとかなる!」系本を展示しようとするものです。おつきあいください。

平成27年1月

ブログ主 キリュー

老子と猫から学ぶ人生論 だいじょうぶ。 ニャンとか生きていけるよ

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■ 毎日ニャンともならん! 世界でいちばん不機嫌なネコ

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ニャンダフル! ことわざ100選

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  ■男と女はワンダフル ~命短し恋せよエヴリワン! ~

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 ■にゃんて素敵な愛のコトバ

にゃんて素敵な愛のコトバ

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マイペースのススメェー

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  • 作者: 写真:平林美紀,文:三井明子
  • 出版社/メーカー: パイインターナショナル
  • 発売日: 2014/12/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • この商品を含むブログを見る
 

 ■むすびにかえて

いかがでしたでしょうか。

「 ニャンとかなる」「ニャンとか生きていけるよ」「ニャンともならん!」「ニャンか」「にゃんて」など、版元の苦心が察せられます。

「名言」部分に何が選択されるかも、編集者の努力が見られます。オリジナルの名言だけでなく、般若心経、禅、老子などが「超訳」風味でアレンジされ添えられています。この部分は、アドラードラッカーニーチェ、「7つの習慣」、吉田松陰などなどいろんな応用が利きそうです。

ですが、表紙が「基本的に猫1体」というように、親本の規定する力はたいへん大きいと言えましょう。

今後このフォロワーたちがどう展開していくのか?2015年も、「ニャンとかなる!」系本の世界にますます目が離せません。

*1:本書には、あとがきにあたる部分はないので、今回は自由闊達に本書について論じることにする。

あとがき13 ジョジョ4部小説、そして書き続けていた男:乙一『The Book 』(集英社、2007年)

 2015年到来!

 今年、1月からジョジョ3部アニメ「エジプト編」がいよいよ放送開始され、関係イベント、コラボ、グッズなど、今年のジョジョファンにはお楽しみがいっぱいです。


TVアニメ『ジョジョの奇妙な冒険 スターダストクルセイダース』公式サイト

 そう……『お楽しみがいっぱい』……

 

 今回はそれを記念し、ジョジョ4部の小説版、乙一『The Book 』のあとがきを取り上げたい。そう、あの、約何年にもわたる待ちぼうけの歴史を…!

******

 2002年に発行された少年ジャンプ増刊誌 『読むジャンプ』。
これに掲載されたのが、作家・乙一によるジョジョ4部のノベライズ「テュルプ博士の解剖学講義」だった。

 ジョジョ第4部の舞台であるS県杜王町で、小説オリジナルのキャラとともに、あらたな奇妙な出来事がおきるイントロ。なかなか期待できる手ごたえだった。

 といっても掲載されているのは序章だけ。同誌にはこのような告知があった。

小説の続きは来年2月発売予定の単行本で!!

 ジョジョファンたちの期待は高まった。

 しかし、その年の秋にすでに雲行きが怪しくなる。ファンが運営する老舗ジョジョニュースサイト「@JOJO【アットマーク・ジョジョ】」の過去ログを見てみよう。

@JOJO 2002/10/09
ジョジョ4部小説、乙一氏の執筆は難航中!?

http://atmarkjojo.org/archives/2003/200210.html#20021009

  そして、刊行予定の2003年2月を迎えた。しかし…。

@JOJO  2003/02/14

☆「イーエスブックス」読書のひきだし:乙一氏インタビュー
(…)乙一氏が”二月に刊行予定とされていましたが、おそらく半年ほど後ろにずれると思います。”と書かれているとか。

http://atmarkjojo.org/archives/2003/200302.html#20030214

  そして、続報。

@JOJO 2003/05/12

乙一氏のジョジョ4部小説、完成は「3年後までには」?
http://atmarkjojo.org/archives/2003/200305.html#20030512

  集英社は、2003年の秋には出すとの広告を打ったようだが、

JOJO  2003/07/10

乙一氏、ジョジョ4部小説が「今秋」との広告に対し、「保障できません」

http://atmarkjojo.org/archives/2003/200307.html#20030710

 そして、2003年末。

JOJO  2003/12/11

乙一「世界観や設定を借りて小説を書こうという試みです。」

宝島社『このミステリーがすごい!2004年版』の「私の隠し玉」に、乙一氏のコメントが掲載。『ジョジョの奇妙な冒険』のノヴェライズについて、「難航中なので発売時期が不明です。ちなみに、内容はオリジナルで、世界観や設定を借りて小説を書こうという試みです。」との事。(…)

http://atmarkjojo.org/archives/2003/200312.html#20031211

  そこからさらに飛んで、翌2004年末。

@JOJO  2004/12/09

☆「破棄した原稿は二千枚以上」 乙一ジョジョノベライズの現状を語る。

http://atmarkjojo.org/archives/598.html

  最初の刊行予定から2年弱。4部小説は出る気配すらなかった。

 出る出るといいながら出ない現状を前に、ファンたちは出会いがしらにお天気を話題にするように「あれはいつ出るんですかねえ」とあいさつし、無粋な男性を乙女が婉曲に袖にするため、「ジョジョ4部小説が出たらおつきあいしましょう」という常套句が流行したとか。

 これらは私が今拵えた話だが、ともかくこの4部小説は、年末のジョジョ界展望では必ず言及されるネタとなってしまった。

『ジョジョの奇妙な出来事2003』 | @JOJO ~ジョジョの奇妙なニュース~

「読むジャンプ」から1年以上過ぎました(遠い目)。 「妥協とかはしたくない」とはいえ、2004年中には、どうか完成させて下さい…。

『ジョジョの奇妙な出来事 2004』 | @JOJO ~ジョジョの奇妙なニュース~

2年以上経た今なお未完…(つД`) 。2005年中には、きっと…。

『ジョジョの奇妙な出来事 2005』 | @JOJO ~ジョジョの奇妙なニュース~

【終わりの無いのが終わり?】:乙一先生によるジョジョ4部小説
2004年末で、破棄した原稿は2000枚以上との事だったが…。

『ジョジョの奇妙な出来事 2006』 | @JOJO ~ジョジョの奇妙なニュース~

『読むジャンプ』から4年以上が経過。なんか毎年のマトメ記事の「オチ」みたいだ(^^;)。でも、今年は『ジョジョ20周年』ッ! 「なんとか……なんとか書き上げてくれる……はずだ、乙一先生 さもなきゃあ……」

そして…月日は流れ…「4部小説?ああ、そんなのあったね」とファンたちも忘れかけていた2007年11月。

『それ』はついに出たのだった。

The Book―jojo’s bizarre adventure 4th another day

The Book―jojo’s bizarre adventure 4th another day

 

 その名は『The Book』。「テュルプ博士の解剖学講義」の仮題は廃棄され、まったく別物として書き直されたのだという。ともあれホントに出るとは!衝撃がジョジョファンたちに走る。自分もすぐに買いにいった。当時の日記(2007年11月26日)にはこのように書いている。

「今日も授業はあったが、ひとっかけらも学校に行こうとは思わなかった。ジョジョ4部小説を買い、陽光差すリビングで一気に読んで、すごく面白くて、この上なく幸福だった。」

 そう、むちゃくちゃおもしろかったのだ。内容、文体、装丁にいたるまで、素晴らしい作品だった。なによりも、無数の引用と参照から、作者・乙一の原作愛を強く感じた。彼もわれらと同じ、ジョジョファンだったのだ。ページを繰っていくたびに、陽光が残雪を融かすように、長年のわだかまりが解きほぐされていくのがわかった。

 そんな自分がもっとも心打たれたのが、この本の「あとがき」だった。

「『ジョジョ』の第四部は小説にしないんですか? もしも書く人がいなかったら、書かせていただけませんか?」

 

それから五年間、僕は『ジョジョの奇妙な冒険・第四部』の小説を書き続けた。(…)しかしなかなかうまく書けなくて、ボツ原稿を大量生産した。原稿用紙四〇〇枚を書いては、気に入らなくてボツにする、というのを何回もくりかえした。この五年間で葬った自分の原稿は二〇〇〇枚以上になり、僕の収入は途絶えた。ボツ原稿ばかり書いて、新しい本が出ないのだから当然だった。しかたなく、別件の仕事を合間にやって生活費を稼ぎながら『ジョジョ』の小説を書いた。

五年間、この小説のことばかり考えていた。書いては消しをくりかえしているうちに、三回も家を引っ越して、結婚までしてしまった。そのうちに『デスノート』の小説や、『小説こちら葛飾区亀有公園前派出所』が刊行された。僕はあせった。あせりながらも、楽しかった。ジェイブックスで作家デビューしたのは、この仕事をするためなのだ、という充実があった。

 われわれジョジョファンたちが期待し、揶揄し、ついに忘却するにいたった長い年月、乙一はこの原稿を書き続けていたのだった。

 これ以外にも何作かジョジョのノベライズは出版されている。しかし、この乙一作『The Book』を読んだとき以上の感動は得られていない*1。表紙からあとがきまで含めて、この作品を読めたことを今でも幸せに思う。

 

なお、この「あとがき」には後日譚がある。この『The Book』は2011年に新書版が、

The Book jojo's bizarre adventure 4th another day (JUMP j BOOKS)

The Book jojo's bizarre adventure 4th another day (JUMP j BOOKS)

 

翌2012年には文庫版が出ており、手に取りやすくなっている。

The Book―jojo’s bizarre adventure 4th another day (集英社文庫)

The Book―jojo’s bizarre adventure 4th another day (集英社文庫)

 

 しかし、これら再刊版では原著の装丁(内容に密接に関わる!)や『街』が立ち上がってくるペーパークラフトなどのギミックがないので、ぜひ読むならハードカバー版の原著をおすすめしたい。

 百歩譲ってこれらに目をつぶるとしても、再刊版が一番問題なのは、なんと件の「あとがき」がキレイに削除されてしまっていることだ。読者への詫は一回でいいと思ったのかもしれない。

 ということで、本ブログでこの「あとがき」と経緯を記しておくのも、いくばくの意味があるかと思う。ささやかな使命感が私を駆り立てたのだった。

*1:でも、舞城王太郎ジョージ・ジョースター』は同率1位かも。また別のベクトルですごすぎる。

JORGE JOESTAR

JORGE JOESTAR

 

 

あとがき12 卒論を断固出すための「断念」術: 小峯和明『今昔物語集の形成と構造』(笠間書院、1985年)

■あとがきより

年末ですね。卒論シーズンですね。この時期、さる本のあとがきを思い出します。

 論文は科学を装った詩であり、論文を書くとは断念することだ。

―小峯和明『今昔物語集の形成と構造』(笠間書院、1985年)

今昔物語集の形成と構造 補訂版 笠間叢書

今昔物語集の形成と構造 補訂版 笠間叢書

 

  これは、著者小峯和明(立教大学名誉教授)が、学生時代教官から言われた言葉です。彼が生涯初めて一書を成し、あとがきを書く段になって、思い浮かべたことば。それがこの「断念」だった―。これを目にしたとき、浮かんだのは、卒論のときの自分と、卒論出せなかった自分の周りの人々の顔でした。マジメに1年間勉強してたのに、なぜ彼/彼女たちは提出日に間に合わなかったんだろう。そんな彼/彼女らのために、「昔、この言葉に出会っておけば!」と思ったのです。

 今回は「論文を書くとは断念することだ」、このフレーズを卒論執筆のスローガンとして読みかえようという試みです。

■書き始める「断念」

 過去に還れたら、マジメなのに卒論が書けなかった知り合いたちに私は言いたい。

  勉強してたら、卒論は書けません、と。

 さすがに「勉強してたら」というのは過言ですが、彼/彼女らは、勉強しすぎたあまり、いや勉強だけしすぎたあまり論文が書けなかったのではないかと私は密かに思ってきました。

 つまり、勉強することと、執筆することは異なるし、時には矛盾すらすることさえあるということです。

 インプットである勉強は、地平線の先へ先へと伸びていく「膨張」ですが、アウトプットである執筆は、自身の内へ内へと引きこもっていく「収縮」です。

 学ぶと謙虚になりますから(学びて然る後に足らざるを知る!)、「まだ論文を書き出すのには早いな…」となるのが人情です。書き出すのに躊躇するのは、勉強してきた証拠だと思います。

 しかし、「もっと膨張したい!(or しなければ!)」という気持ちをおさえて、収縮へと反転しなくては、永遠に卒論を終えることはできないのです。

 このとき求められる姿勢が、まさに「断念」なのではないでしょうか。「膨張」「勉強」から「執筆」というステージに進むことを可能にするのが、書き始める「断念」なのだと思います。

※誤解のないようにいっておくが、これは、序章から結論まで構想をすべて終えてから執筆をはじめよう、というわけではない。むしろ、書ける部分から書いていくのがセオリーであって、その「部分」が全体だろうが、章、節、あるいは項だろうが、ひとつひとつの「部分」で小さな「断念」を経験しながら執筆していくことになるだろう。

■書き終える「断念」

「絵」を描くという作業は『無限』である。どこで終わっていいのか、一枚をずーっと描いてられる。

荒木飛呂彦STEEL BALL RUN 22』(ジャンプコミックス、2010)

  論文も同じだと思います。見れば見るほど自分の文章は不完全に見えます。

 しかし、論文のクオリティと提出期限、優先すべきなのはどちらでしょうか。

 私のある先輩はかつて、大略このようなことを言っていました。

およそ良い卒論とは、書かれた卒論のことだ。

 どんなによいプロットだろうと、書かれていない卒論は、書かれた卒論に劣る、というのです。卒論は書かれていないといけないのです。至言だと思いました。

 これ以上の執筆よりも、提出することを優先する。その際に要請されるのが、もうひとつの「断念」、すなわち書き終える「断念」だろうと思います。

 ちなみに、絵が『無限』に描けるという荒木飛呂彦は、10時間睡眠・週休2日・徹夜なしというおよそマンガ家としては考えられない規則正しい生活を送っていることは有名です。荒木の場合は、その生活サイクルを優先させることで『無限』の絵を切り上げることができているのでしょう。卒論生の場合は、それが提出日(正確に言うと、卒論のデータを大学の要求する書式に整え打ち出して製本するのに十分な時間を提出日から引いた日)ということになります。

■2回のジャンプ

 まとめておきます。卒論には、勉強、執筆、提出の3段階があります。書き始める「断念」で最初のジャンプをし、書き終える「断念」で次のジャンプをします。タイミングよくこの2回のジャンプをこなしていくことが、卒論提出のカギだと私は思います。

 跳ぶことは恐ろしい。しかし、それを思い切って跳ぶための構えが、冒頭に掲げたあとがきにあると思うのです。

「提出された卒論」に向かって、よき「断念」のあらんことを!