あとがき愛読党ブログ

本文まで読んでいることを保証するものではありません

あとがき20 【祝・世界記憶遺産】「東寺百合文書」以前: 網野善彦『中世東寺と東寺領荘園』(東京大学出版会、1978)

ユネスコの記憶遺産(世界記憶遺産)に、東寺百合文書が認定された。

www.asahi.com

 日本のものが認定されてうれしいという以上に、東寺百合文書を保存し、整理し、公開してきたたくさんの人々、とくに所蔵している京都府立総合資料館の人々の尽力が報われたという意味で、たいへんおめでたいできごとだ。

  東寺百合文書は、京都の東寺教王護国寺)が伝えてきた、約25000通にもわたる中世文書の一大コレクションだ。加賀藩主前田綱紀が東寺に寄進した約100箱の桐箱に保管されていたことから、この名前がついている。東寺が伝えてきた中世文書(広義の東寺文書)は、おもに東寺(狭義の東寺文書)、京都府立総合資料館(東寺百合文書)、京都大学教王護国寺文書)の3ヶ所に分かれて所蔵されている。そのうち、量的にもっとも多い府立総合資料館蔵の東寺百合文書が、今回ユネスコの認定を受けた。

 マスコミでの報道では「寺院経営の文書」とされているが、全国に散らばる東寺の荘園経営が寺院経営の大きな部分を占めるので、日本の荘園研究にこの文書群は欠かせない。

 さて、そんな東寺百合文書とたいへん縁の深い人物が、歴史家の網野善彦だ。

 網野は、東寺百合文書を使って卒論(「若狭における封建革命」)を書き、のち左翼活動から脱落して高校教員となってから、学問的な再起を賭けて研究対象として選んだのも、東寺百合文書だった。
 はじめての網野の単著は東寺領の若狭国太良荘を描いた『中世荘園の様相』であり、出世作である『蒙古襲来』や『無縁・公界・楽』の端々にも東寺百合文書が使われている。網野の半生は、東寺百合文書とともにあった。

無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和 (平凡社ライブラリー (150))

無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和 (平凡社ライブラリー (150))

 

  ちなみに、そんな網野ですら

大学入学以前から古文書などに多少関心を持っておりましたが、そのころは「東寺百合文書」のことを「ユリ文書」と読むのだと思っておりました。大学に入学して先輩に「ユリ文書」とはどういうものかと聞くと、「何をばかなことを言っているのだ」と笑われ、そのときに「ヒャクゴウ文書」と読むと知ったのが、この文書との最初の出会いでした。

網野善彦東寺百合文書と中世史研究」(同『歴史としての戦後史学』、洋泉社、2007年、初出1998年)

歴史としての戦後史学―ある歴史家の証言 (洋泉社MC新書)

歴史としての戦後史学―ある歴史家の証言 (洋泉社MC新書)

 

  と言ってるから、みんなが「ユリ文書」「ユリ文書」と間違えるのもやむなし。この記事中では、親しみをこめて「東百(トーヒャク)」と呼ぶことにしたい。

 これら網野の東寺研究の集大成が、主著である『中世東寺東寺領荘園』(1978年)だ。堂々たる網野の初論文集である。

中世東寺と東寺領荘園

中世東寺と東寺領荘園

 

  この本は網野の激しい人生を表現せんとするアツい記述に溢れているのだが、それはまたの機会にとっておくとして、「あとがき」をみよう。「あとがき」には東寺文書とそれに関わるさまざまな人への謝辞がつづられている。ところが、肝心の京都府立総合資料館については、一言も触れられていない。なぜだろうか。

 それは、このときまだ府立総合資料館は東百を公開していなかったからだ。網野は、基本的には東百の原物に触れることなくこの論文集を書いたのである。

 東百はながらく東寺に秘蔵されてきた。それを京都府が購入したのは1967年、目録作成と整理が終わって全面公開されたのは1980年だ。それより以前、(ごくごくわずかの幸運な例外を除いて)研究者が東百を直に見ることは叶わなかった。

 東百はすべてが活字化されているわけではない。現在でもだ。網野の若いころならばなおさらだ。大正時代から東京大学史料編纂所の『大日本古文書家わけ第10 東寺文書』により東百の活字化が進められていたが、当時は第6巻(1939年刊)で止まっており、「い函」から「を函」の一部まで(5000通強)しかカバーしていなかったから、東百のトータルには遠く及ばない。

 ちなみに2015年現在、これは16巻まで出ている。またそれとはかぶらないように、府立総合資料館も2004年から『東寺百合文書』の刊行を始め、11巻まで出ている。二つ合わせて活字化が完了するのはいつになるのだろうか…。 

東寺百合文書〈11〉チ函(3)

東寺百合文書〈11〉チ函(3)

 

 原物も活字本もダメ。こんな状況で当時のひとびとは、どのようにして東百を参照したのだろうか。前置きが長くなってしまったが、今回は、府立総合資料館が東百を公開する以前のアクセス環境を「あとがき」も用いつつ再現してみたい。こんなことはちょっと上の世代には常識なのだろうが、そういう残りづらいことこそ言語化しておく価値があると、下の世代としては思う。

 

*********

 

 まずサンプルとして、『中世東寺東寺領荘園』のp434、第Ⅱ部第4章第4節の註(15)を見てみよう。

白河本八、寛正三年十二月十三日、乗琳房栄俊補任状(?)。この文書は書写が不完全と思われるが、ハ一三―二〇、年未詳十一月晦日、代官乗琳房栄俊注進状に「(…)」とある。この文書は恐らく寛正三年の文書であろう。

 ここでは以下の2通の文書が典拠として使われている。

A. (寛正3年?)11月30日代官乗琳房栄俊注進状(ハ13―20)

B. 寛正3年12月13日乗琳房栄俊補任状(?)(白河本八)

 このさりげない出典表記に、網野、ひいてはこの世代がどのようなかたちで東百を閲覧していたかが分かる。

東大史料編纂所影写本

 文書Aの方から見てみよう。この(ハ13―20)という番号はなにを指しているのだろうか。序章の註で網野はこのような断り書きを入れている。

以下「東百」と略称し、(…)引用に当っては函名及び、東京大学史料編纂所所蔵影写本の分類番号のみを掲げる。―『中世東寺東寺領荘園』p77

これは、東百原物ではなく、東大史料編纂所にある影写本(精巧なコピー)に付与されている記号だったのだ。「ハ13―20」は、東大影写本の「ハ函の13から20」を意味している。

 この当時、東百を引用するときは、東大影写本の記号で出典を表記するのがスタンダードだった。

 例えば、かの有名な「永仁の徳政令」。この有名な法令のもっとも整った条文は、東百のなかにある。東百が現在まで伝わらなければ、この有名すぎる法の全体像は分からなかったはずだ。

f:id:pino_quincita:20151010101707p:plain

hyakugo.kyoto.jp

徳政令―中世の法と慣習 (1983年) (岩波新書)

徳政令―中世の法と慣習 (1983年) (岩波新書)

 

 これは現在の府立総合資料館の整理番号であれば、”京函/48/2”から”京函/48/4”となる。ところが、鎌倉幕府法の権威である『中世法制史料集第一巻 鎌倉幕府法』(岩波書店)では、この「永仁の徳政令」の出典表記は、 「東寺百合文書京一至十五」となっている。京函であることまでは同じだが、そのあとの数字が異なる。この番号は、東大影写本のものだ。1955年初版の『中世法制史料集』が参照したのは、東大影写本だったのだ。

 また、網野と同世代の研究者である上島有の最初の論文集『京郊庄園村落の研究』(塙書房、1970年)を開いてみよう。上島は創設時から府立総合資料館で東百の整理に携わってきた功労者だが、この時期の論文のなかで東百を引用するときは、わざわざ断りをいれるまでもなく東大影写本の番号で出典を表記している。

http://www.hanawashobo.co.jp/contents/imgl/978-4-8273-1652-0.jpg

 なぜこのような出典表記がスタンダードだったのか。それはこの当時、東百を参照するもっとも一般的な方法が、東大影写本を見ることだったからなのだ。京都にある文書を見るためには東京に行かなければならない。このねじれた状況を、上島有はあとがきで書いている。

東寺百合文書は中世史研究の最高の史料として、明治時代から東京大学史料編纂所および京都大学文学部国史研究室において影写本が作成されて、学界において広く利用されてきた。しかしその原本は長く東寺に秘蔵されて、その価値の高さとその量の厖大さのゆえに、簡単に研究者が利用しうるような状態ではなかった。私が矢野庄や上久世庄の史料を収集するに際しては、原本が身近な東寺にあるにもかかわらず、東京大学史料編纂所の影写本を撮影するため、重いカメラをひっさげて、何度となく上京したものであった。そしてその度毎に、そう簡単に百合文書の原本は閲覧しうるものではないことが分かっておりながら、原本のある京都から、影写本をみるために上京することに、何んとなく矛盾を感じていたものである。

―上島有『京郊庄園村落の研究』あとがき

  そういう意味では、東大の出身でまず東京で就職した網野は比較的東百を参照しやすい環境にあった*1。網野は都立高校に勤務するかたわら、休みや研究日などを使ってバスに乗り東大史料編纂所まで通い、若狭国太良荘関係史料を中心に東百をエンピツで筆写する生活を続けていた(コピー機普及以前はこれがふつう)。この下積み時代、同じように太良荘関係史料を筆写するため京都からきていた若手研究者に、大山喬平(現京大名誉教授)がいる。

…私は東寺百合文書のなかの太良荘の文書を探しては、毎日、一点、一点、筆写していた。影写本がまだ緑色のハードカバーになる以前、薄茶色の和表紙のままのころである。七、八人の外部閲覧者のなかに、これも浅黒く精悍そうな顔つきの大柄な人物がいて、ずっと無言で百合文書の影写本を見ている。はじめは気がつかなかったが、出納で出し入れする影写本が、どうも私が見ている号数と同じあたりが多いらしい。百合文書のなかでも、太良荘関係が集中する部分があって、そういうあたりで私と衝突しているらしい。何となく気になりながら、互いに名乗りあうこともなく、一週間ばかりで私は京都に引き上げた。その人物が網野さんだった。

―大山喬平「出会いと衝突の日々」(岩波書店編集部編『回想の網野善彦』、岩波書店、2015年、初出2008年)

回想の網野善彦――『網野善彦著作集』月報集成

回想の網野善彦――『網野善彦著作集』月報集成

 

  東大影写本の淵源は、1886年から翌87年にかけて京都府と内閣臨時修史局(東大史料編纂所の前身)とが行なった東寺文書の悉皆調査までさかのぼる。この大規模な調査の結果をもとに影写本が作成され、1907年ごろにほぼ完成した。上島有は言う。

東寺百合文書が全面公開される昭和五十五年(1980)までは、史料編纂所の影写本が東寺文書に関する唯一の原点であった。―上島有「寺宝としての東寺百合文書の伝来」(京都府立総合資料館編著『東寺百合文書にみる日本の中世』、京都新聞社、1998)

 こうして戦後のある時期まで、数々の研究者たちが東大影写本を使って、東寺東寺領荘園の研究をしていたのだった*2

白河本東寺百合文書―東大影写本以前の近世写本たち

 次に、網野論文集に登場する、「白河本八」と出典が表記されるB文書について見てみよう。これは、国立国会図書館所蔵「東寺百合古文書」(通称白河本)という写本の第8冊を参照していることを示している。これは寛政年間に松平定信によって作られた東寺文書の写本だ。この白河本以外にも、文化年間に伴信友によって作られた写本「東寺古文零聚」(小浜市立図書館蔵)など、東大影写本以前の近世写本はいくつかある。

 これらの近世写本には、東大影写本や、教王護国寺文書などに入っていない文書がかなりの点数含まれていた。そのため、東百公開以前はこれらの近世写本もかなり頻繁に使われた。たとえば日本の荘園制理解の基礎を作った中田薫も、白河本に見える荘園史料を随所に用いている。寄進地系荘園の典型として教科書にいまだに載りつづけている鹿子木荘の関係史料も、中田は白河本を出典として議論している(『法制史論集』第2巻)。

(下の画像は東百「肥後国鹿子木庄条々事書案」の原物画像)

f:id:pino_quincita:20151010102905p:plain

 以上、まとめておこう。1970年代までの研究は、東大影写本がメインに用いられ、その穴を白河本などの近世写本によって補っていた。つまり、当時の史料(東百)へのアクセスは、松平定信や、国学者、修史局など19世紀の歴史学の成果を直接基盤としていたのだった。

府立総合資料館による公開、そして東寺百合WEBへ

 1967年、網野の状況は大きく変わる。網野は名古屋大学に転職し、翌年大学の予算で東寺百合文書の東大影写本、およびそれに含まれる「東寺廿一口供僧方評定引付」原本の写真本を購入できることとなった。これによって網野は勤務先で東寺研究を続ける条件を整えたのだった。

 しかし、まさに同じころ、東寺百合文書の状況も大きく変わる。1967年、京都府によって東寺百合文書が購入され、府立総合資料館によってその整理が始められる。この過程で、東大影写本やその他の写本でも紹介されていなかった数千点の文書が新たに存在することが分かった。

1967年、私が名古屋大学に赴任したこと、「百合文書」を京都府立総合資料館が引き取られることになると聞き、その現状を間接にうかがってみたところ何千通という新発見の文書が出現したことを知りました。しかも、その中に荘園関係の検注帳や散用状が多く含まれていると聞いて、その多さに愕然とするとともに、公開までの長い時間を考え、東寺の研究を正面からするのはあきらめざるを得ませんでした。やむなく方向転換し、荘園・公領の国別研究や非農業民の研究を始めたわけです。

網野善彦東寺百合文書と中世史研究」(同『歴史としての戦後史学』、洋泉社、2007年、初出1998年)

 史料アクセスの環境が変わったことで、網野の研究の方向性も変わってしまった。ただこの方向転換した路線の先には、「荘園公領制」論や、『無縁・公界・楽』につながる非農業民研究などの仕事がある。後年の網野のブレイクは、この一件なくしてはありえなかったかもしれない。

  その後府立総合資料館は東百の整理を続け、『東寺百合文書目録』(全5巻)を編み、ついに1980年、東百を全面公開する。そして2014年、全点デジタル画像をwebで閲覧できる東寺百合文書WEBを公開。これらの軌跡は私が語るまでもない。

hyakugo.kyoto.jp

 さて意外と顧られていないが、東百原物だけでなく、東大影写本や白河本など過去の写本も実はwebで閲覧することができる。というわけで、青年時代の網野になったつもりでこれらを見てみよう。Let's トーヒャク!

①A. (寛正3年?)11月30日代官乗琳房栄俊注進状(ハ13―20)

 東大影写本を底本としていた、文書Aだ。東大影写本は、史料編纂所のデータベースから閲覧することができる。ただ、史料編纂所DBの各レコードはURLが固定してない(不便!)ので、以下のURLから実際にアクセスして調べてみてほしい。

史料編纂所HPにアクセス

http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/index-j.html

・バナーの中央「データベース検索」をクリック

・「データベース検索」の注意書が表示されるので、中央下部の「データベース選択画面 」をクリック

・編纂所のさまざまなデータベースが表示されたぞ。左上の「史料の所在」カテゴリから、「所蔵史料目録データベース 」を選択

所蔵史料目録データベース 」の キーワード検索の画面に移るが、キーワードのボックスは使わず、「項目検索」をクリック
・項目検索の画面が開く。上半分のプルダウン「書名・史料名」を選択、ボックスに”東寺百合文書”と入力。下半分のチェックボックスの「影写本」にチェック。

・検索!ちなみにエンターキーを押しても検索されない仕様(ナンデ!?!?)なので、「検索」ボタンを押す。

・検索結果のレコードのうち、1番目のもの(請求記号が「3071.62-2」)の右の「全表示」をクリック。

・レコードの詳細画面が表示される。

 見れば分かるが、ズラズラと413点の項目が並んでいる。これが、明治期に作られた東百の影写本1冊1冊の書誌になっている。探している文書Aが収録されているのは、その227冊目だ。「227(ハ之部(2)(13-20)) 」という記載がある。その横の「イメージ」ボタンをクリックすれば、ついに網野たちが見た影写本の画像データを開くことができる。画像データの1点目は影写本の表紙だ。「ハ之部 自十三号至二十号 二」と注記されている。網野の「ハ13―20」という出典表記は、この冊に文書があるということを示していたのだ。ただ、この冊には33点文書が収録されており、網野の出典表記では33点のうちどれを指しているかは分からない。今からみるとずいぶんぼんやりとした出典の書き方だ。ちなみにこの冊の見開き換算で8番目の個所から、文書Aが影写されている。

ちなみに、東百WEBの原物画像データはこちら。

f:id:pino_quincita:20151004212620p:plain

hyakugo.kyoto.jp

東大影写本では封紙を写してしまっていて隠れていたのだが、原物では切封(文書の端を切り込んで紙ひもにしたもの。これで文書を巻く)がきれいに残っていることが分かる。

② B. 寛正3年12月13日乗琳房栄俊補任状(?)(白河本八)

 

  国会図書館所蔵の白河本を底本としていた文書Bを探しにいこう。国会図書館は所蔵の古典籍を順次デジタル化している。現在白河本も、国立国会図書館デジタルコレクションのなかで公開されている。

 デジコレの書誌では『東寺百合文書』となっている白河本の、第八冊目にB文書はある。以下のリンクをひらいてほしい。一番目の画像の左ページから、二番目の画像の右ページにかけて写されているのが、B文書だ。

 

国立国会図書館デジタルコレクション - 東寺百合文書. [8]

国立国会図書館デジタルコレクション - 東寺百合文書. [8]

 東百WEBのなかでこれに対応するのが、次の文書だ。くわしく言うと、ノ函/320/4/だ。

ノ函/320/4/:乗琳挙状|文書詳細|東寺百合文書

 ふたつの文書の画像を比較してみよう。

f:id:pino_quincita:20151004224752p:plain

f:id:pino_quincita:20151004225040p:plain

f:id:pino_quincita:20151004225518p:plain

ふたつを比べて分かる通り、原物は折紙形式で、白河本では端裏書(「太山太良庄 寛正三」という注記)を写し落としてしまっている。何よりもミステリーなのは、「この文書は書写が不完全と思われる」と網野が書く通り、白河本のB文書の文言は一見写し落としを想像するぐらい中途ハンパなのだが、B文書の原物もその中途ハンパな文言は変わらないことだ。

 この文書ひとつで網野の論文の論旨が変わってしまうわけではない。しかし、この画像を目の前にしていると、網野はこの文書、見たかったんだろうなあ…と想像してしまう。青年時代の網野がどうしても見ることができなかったのものを、今はスマホで見れてしまう時代なのだ。

むすび

  東寺百合WEBの登場により、東百へのアクセス環境は劇的に変わった。近いうち、東百を論文で引用するときは、東寺百合WEBのURLで表記するのが一般的なお作法になるかもしれない。そういう論文がWEBで公開されれば、そのURLをキーに論文間でリンクが可能になり、新たな研究が…というのも妄想ではない、かもしれない。史料へのアクセス環境は、研究をも左右する。だとすれば、本稿のように史料アクセスの歴史をまとめておくこともなにがしかの意味があると思う。

*1:これは網野没後に行われた対談でポロっと言われていることだが、東大史料編纂所員だった笠松宏至は、東大国史の教員である宝月圭吾(網野の指導教官)の頼み入りで、東百の原物(!)を網野に閲覧させた。ちなみにそれが笠松と網野との初対面だったらしい(笠松宏至・勝俣鎮夫「網野善彦さんの思い出」、『回想の網野善彦』、初出2006年)。当時、公にはなっていなかったが、大日本古文書編纂のため、東百の原物の一部が史料編纂所に貸し出されおり、史料編纂所員は、研究者で唯一東百の原物に触れうる機会を持っていた。網野は大学時代以来の縁がある宝月を通じ、おそらくは内々に、これを手に取ることを実現したのだろう。なお網野の論文や本などにこの事実は触れられていない。ただそこで見たのは大した量ではないと想像されるので、基本的には影写本を参照するのは変わらなかっただろう。

*2:なお、上島有の回想にもある通り、京大にも東寺百合文書の影写本があるのだが、実際に自分で使ったことがないので今回は触れられなかった。詳細はおいおい調べていきたい

あとがき19 模倣と妄補:江戸川乱歩著、宮崎駿カラー口絵『幽霊塔』(岩波書店、2015年)

http://www.ghibli-museum.jp/images/yuureitouheyoukosotenn.jpg

 宮崎駿が長編映画製作を引退するといってからはや2年。
 三鷹の森ジブリ美術館で「幽霊塔へようこそ展」がはじまった(2015年5月30日(土)~2016年5月(予定))。

www.ghibli-museum.jp

 それにあわせ、江戸川乱歩『幽霊塔』に宮崎駿が描きおろした展示の解説パネルをカラー口絵として収録した新装版が出た。

幽霊塔

幽霊塔

 

 16ページのカラー口絵は「ぼくの幽霊塔」と銘打っているが、「ぼく」(宮崎駿)にいたる『幽霊塔』の文化史としてとてもよい。

まとめると、
・アリス・M・ウィリアムスンが『灰色の女(A Woman in Grey)』を著す。
黒岩涙香がこれを(無許可で)翻案し『幽霊塔』を書く。
江戸川乱歩が涙香版をさらに翻案し『幽霊塔』を書く。
宮崎駿が乱歩版に影響されて『カリオストロの城』を創る。
というように、『幽霊塔』はかわるがわる翻案され、19世紀から受け継がれてきたのだ。

ワシは子供の時に乱歩本で種をまかれた。妄想はふくらんで、画工になってからカリオストロの城をつくったんだ。
わしらは大きな流れの中にいるんだ。その流れは大洪水の中でもとぎれずに流れているのだ。

灰色の女 (論創海外ミステリ)

灰色の女 (論創海外ミステリ)

 

f:id:pino_quincita:20150614104548j:plain

国立国会図書館デジタルコレクション - 幽霊塔 : 奇中奇談. 前

図書カード:幽霊塔

幽霊塔 (春陽文庫―江戸川乱歩文庫)

幽霊塔 (春陽文庫―江戸川乱歩文庫)

 

 

ルパン三世 - カリオストロの城 [DVD]

ルパン三世 - カリオストロの城 [DVD]

 

  コリンズ「白衣の女」、コナン・ドイル「ホームズ」、ウィリアムスン、チェーホフ漱石、涙香、ルブラン「ルパン」、乱歩の名前が浮かぶ大河を見下ろしながら、宮崎駿は述懐する。

 自らがこの「模倣の連鎖」のなかにいたことを発見するのが、第一のおもしろさだ。

 

 だがおもしろいのはこれだけではない。『幽霊塔』が各時代で模倣されるとき、実はいろいろな要素が勝手につけたされているのだ。これは書誌学でいう「妄補(モウホ)」に近い。『幽霊塔』の歴史は、「模倣」だけでなく、「妄補」の歴史でもあった。宮崎駿のカラー口絵でもそれが強く意識されている。
たとえば、
・『灰色の女』では、財宝のある部屋は天井と床のあいだの隠し部屋にあったが、
・涙香版ではそれが地下室となり、
・乱歩版ではさらにそれが地下の大迷宮となった。
・また最近のマンガ乃木坂太郎版でも、「地下の大迷宮」要素が受け継がれている。

幽麗塔 1 (ビッグコミックス)

幽麗塔 1 (ビッグコミックス)

 

  本来の原作にはなかった地下室が妄補された結果、たいへん創造的な連鎖がうまれたのだ。

 そして、宮崎駿はこの「妄補の連鎖」のなかにも名を連ねている。
 乱歩版ではおもしろくないと、カラー口絵では自分なりの幽霊塔の構造を嬉々として描き、「映画にするならこの位の方がイイと思う」と別の時計もつけたして、ついには「ボクならこうします」と冒頭シーンの絵コンテまで切ってしまう。コマの外で「えいがはつくりません」と書いているが、よくいうぜジジイ…!

妄想じゃ

と『雑想ノート』以来の遁辞をそえているが、みな期待しているのはこの「妄想」なのだ。この「妄想」を積みかさねて形にしたものを、もう一度みせてほしいと思う。

あとがき18 絶対泣ける!?追善供養としてのあとがき:辻善之助『日本仏教史之研究』等

f:id:pino_quincita:20150324231749j:plain

画像は1934年頃、東京帝大史料編纂所の職にあったころの辻善之助検印。花押状の印を用いている。出典 

 

 泣ける映画の王道テーマは、やっぱり「死」だろう。
 家族、恋人、師匠、別離、余命、病気持ちなどバリエーションは豊富だ。
 本のあとがきでも、追悼など「死」について触れたものにはついほろりとしてしまう。

 しかし、この主客が逆転しているものがある。本文が従、追悼が主。今回は、本文とは全然関係ない人物の追悼がメインになってしまっている著作を紹介しよう。

 

 まずは竹内理三(1907-1997)。この人の偉大さについて語るのは次の機会に大事にとっておくとして、彼が1934年に出した『日本上代寺院経済史の研究』の序を見よう。


 本書は、僅か一年と三ヶ月の生を以て、独り此の世を去った児理男を記念するため、昭和七年三月より後、同八年六月に至るまでの間に、或いは稿を成し、或いは発表したものに、多大の修正と補足とを加えて編したものである。従って、全編互に脈絡なきに似たるも、猶、一貫した目的をもってした。
(…)
幸いに、大方の叱正と鞭撻を得て、幾分なりとも学界に貢献するよすがともならば、独り予のみならず、児理男のためにも、こよなき喜である。
昭和八年十一月  
東京牛込にて 竹内理三

―竹内理三『日本上代寺院経済史の研究』(大岡山書店、1934年)

 竹内理三は20代のころ、児を幼くして失ってしまったらしい。その児がこの世にあった期間の論文を集めて一書としたのだという。

 重厚な本編に目をとられてしまい、この控え目な序は読み飛ばしてしまうかもしれない。嬰児の死は本編と直接関係ないが、序における抑制された筆致から伝わる彼の悲しみ、無念さには心打たれる。

 

 しかし、逝去した家族のための出版は、竹内理三の独創ではない。彼の恩師にあたる、辻善之助(1877-1955;以下、辻善と愛称)の著作を見てみよう。1919年刊の『日本仏教史之研究』を開くと、明らかに辻善ではない翁の肖像が目に飛び込んでくる。

冒頭の「例言」を見よう。

一、本書は、本年三月二日、先考三周忌を迎ふるに当り、記念の為め、予が日本仏教史に関する研究の旧稿を集めたるものとす。収むる所の篇数すべて十八、聊先人の信仰に因みて、弥陀大悲の願にたぐへつるのみ。
 一、本書は先考の忌日、三月二日を以て出版せんとして、其準備をつとめたりしに、印刷の都合によりて、遺憾ながら、その期を延ばさざるに至れり。

―辻善之助『日本仏教史之研究』(金港堂書籍、1919年)

 この本が、辻善の父の三周忌のため編まれたことが掲げられている。冒頭のは、遺影だったのだ。信心深い父のため、弥陀の本願(第十八願)に引っかけた章構成にしたらしい。なお本文は仏教史の手堅い論文集であり、辻善父とはとくに関係ない。

 これには前例がある。少しさかのぼるが、1917年に辻善が出版した『海外交通史話』。これは国会図書館のデジコレで公開されてるので、ぜひ現物をいっしょに見てほしい。

国立国会図書館デジタルコレクション - 海外交通史話

 最初のページにはこう書かれている。

五歳にして世を早うせし二女洋子〔ナミコ〕の名に因みてこの冊子を編し以て彼女の記念とし彼女を愛し其死に厚き同情を寄せられし方々の前に之を捧ぐ

 そして、次に掲げられるのは、無垢なる少女の遺影。

f:id:pino_quincita:20150325204629j:plain

 はしがきには、この愛娘が百日咳から治った直後胃腸カタルと腹膜炎を併発し、急逝した様子が克明に描かれている。

 それに続けて、辻善はこう述べる。

(…)世にあること僅か四年に四ヶ月を余すのみなりし彼女の墓は、家内親戚の外何人か之を顧るべき。思えばはかないものである。是に於て考えついたは彼女の為めの記念出版である。彼女の名に因んで海洋関係の史篇を選み、国民の海外発展に関する史話を集めよう。これこそはよき墓標ともなろう。世間の人にもひろく知られて彼女がこの世に存在の記念ともなろう。父母一族の為めには美しい思出ともなろう。かくして短かりし彼女の生命も幾分か生きのびたに当ろう。かように考えて、父母は自ら心に多少の慰安を得た。やがて旧稿を捜り新編を綴て彼女の命日なる二十六の数を得た。乃ち海外交通史話と名づけて、ここに一周忌を以て之を発行するの運びとなった。

―辻善之助『海外交通史話』(東亜堂書房、1917年)

 本文と関係ないなんて言ってはいけない。これは彼女の墓なのだ。

 墓に石を用いるのはなぜか?それは、石は百年の風雪に耐えるからである。それならば、百年遺る学問的業績も、墓足り得る。この本を繙くことは、墓参と同じだ。

 学問的にはこれ以上ない成功を収めた辻善も、家庭生活ではさらなる不幸に見舞われる。1931年に出版した『日本仏教史之研究続編』。なんとこれも同じ性格の本だ。冒頭には辻善の面影を宿す青年の遺影が掲げられている。その次に、「善郎に告ぐる詞」(もはや「序」とか「はしがき」ではない)が3ページにわたって綴られている。

善郎、お前の為めに、かような本を作り、かような文を書こうとは、誰か思いかけようや。(…)

 以下、辻善の長男・善郎(東京帝大経済学部学生)が若くして召された経緯が纏綿たる文章で述べられる。辻善迫真の描写は、円熟さえ感じさせる。

(…)お前の死は現前に之を見た。而かも尚確かと心につかむことができない。お前の室の隣りにいつものように寝る。お前の寝息が聞こえる。お前の室には引伸写真の肖像がかかげられた。いそいそとして学校へ出かける姿が見える。お前の室の机、椅子、本箱その他の調度はいつまでもそのままにある。今に学校から帰って来るかと思われる。
ありし日の室のしつらひそのまゝにいつか帰るとまつこヽちして
(…)
ここにお前の記念として、この書を編し、今や殆どその校正の業を了えんとするばかりになった。輯むる所、旧稿新編併せて二十三、お前の年齢に因んで、聊か以て自ら慰めとする。

昭和五年大晦の夜   辻善之助

―辻善之助『日本仏教史之研究続編』(金港堂書籍、1931年)

 これは想像だが…
 刷り上がったこの本を、辻善は仏壇に備えたかもしれない。
 そして、葬式に集まった人たちにこの本を配ったかもしれない。
 そして、この3冊を部屋に並べて、寂しい感慨に耽り何事かひとりごちたかもしれない。
 あるいは、国史学を学ぶ青年が何も知らずに本屋でこれを買ったかもしれない。
 そして、家でページを開いたら遺影と目が合ってギョッとしたかもしれない。
 そして、この3冊を部屋に並べて、ややばつの悪い思いをしながら、「まるで不幸の抱き合わせだ」とひとりごちたかもしれない。

 

  さて、このような身内追悼論文集は、辻・竹内子弟だけのものなのだろうか。先日自分は第三の実例を見つけた。それも、辻善を上回る代物だ。著者は森本角蔵(1883-1953)。東京高等師範学校の教授だったらしい。

 彼には『日本年号大観』(目黒書店, 1933年)という主著がある。歴代の年号の出典や改元経緯などの史料を博捜した手堅い労作だ。それは1983年に復刊されている(講談社より)ことからもわかる*1

  しかし。地味なテーマにも関わらず、表紙を開けば、「序」の熱気に圧倒される。

(…)この年号という文化の脈搏を透して見たところにも、国体の優れていることや、君臣の関係の美しいことがありありと窺われる。これ等の具体的の事実によって、比類のない我が国の歴史的価値を知り、我等の祖先が、皇室を中心として、平和のうちに可なり強い創造力と同化力とをもって高い文化を築きつつ生活してきたことを自覚して、物質万能の思想に額づくことなく、空理空論に雷同することなく、もののあはれを解する平和の愛好者であると同時に、崇高なる正義の擁護者として、勤倹事にいそしみ、君国のために一死を惜しまぬ伝統的精神を中外に宣揚し、所謂近代の物質文明に中毒して麻痺の状態にある世界人類の文化の大動脈に溌剌たる日本魂の血精を注射して、文化は東方よりの語を如実にせんとするいとなみの末班に参するを得んことは著者の中心の願である。

―森本角蔵『日本年号大観』 (目黒書店、1933年)

  日中戦争も起こってないこの時期にこれだけ書いているのは、なかなか意識の高い人だったのではないだろうか。このように国体の宣揚というおおやけごとに如何に尽力できるかを力説したのち、一転湿り気のある文章に急直下していく。せっかくなので長文引用しよう。

 顧みればこの研究に手をそめてから年を閲すること八年。大正十五年十二月二十五日には畏くも大正天皇崩御ましまし、万民悲嘆のうちに、昭和の御世と改り、世の中のことわざしげきうちには、数ならぬわが身の上にもいろいろのことが起こったが、中にも昭和五年十月二十七日、長女正代が病によって世を去ったことは、私個人にとって最も重大なことであった。死に先だって正代が別離のことばを述べた時に、私は「万一お前が世を去るようなことがあったならば、何事かお前のために記念の仕事を遺してやる。」と愚なる親心を披歴した。正代は「それは嬉しいけれども。」といっただけであったが、それ以来、私はこの研究をかれの記念に代えようと心に定め、一層の努力を払わねばならぬという心に満ちてはいたが、徒に月日のみが流れてしまった。ようやくにしていまこの書の世に出でんとするに当たっても、なお心中一種の不安を懐くものである。よき男の子の生れよかしと、予ては高い希望をかけていても、産期の近づくにつれて、不具でさえなければよいが、無事に生れさえすればよいがと思うようななやましさと、正代に対する約束がこれで果たせるかどうかという恐とである。正代の病中、その苦しそうなさまを見て、我が身を削られるような思いに平静を破られ、心にもなく、「今日は大分よさそうである。」などといって慰めることが度々あった。すると正代は苦しいうちにも微笑みながら「またおとうさまの自己満足が初った。病気は別に変りはありませんよ。大丈夫ですよ。」などとからかい半分に、私を平静に導こうと努めるのであった。私はその時の心持を省みると、正代の病気を慰めるというのは、つまり私自身の憂のはけ口を見つけることで、自己満足の衝動に外ならぬものであった。正代にとっては自分自身の病苦の外に、私が心配していることを可なり苦にしていた。かれが極めて平静に死に直面していたのも、私を平静に導くために努力した結果ではなかったかとさえ思われてならない。この記念の著作を見て、正代がどこからか「これもまたおとうさまの自己満足の所産だ。」といってからかいそうな気がする。からかってくれたらもとより満足である。

  さらにこう続く。

 自己満足の上の自己満足の願であるが、この書の巻頭に正代の写真と、母の日記の中に散見するかれの幼児に関する記事と、私の記したかれの病中の記録とを載せることを恕していただきたい。

  ページを繰ろう。そこにあるのは、著者の森本正代の遺影だ。

 さらにページを繰る。

正代の幼時(母の日記の中より)
大正元年八月四日 午前七時三十分出生、正代と命名(追記)
十一月九日 九十八日目、よく笑い、アッコンアッコンとお話しするようになった。
十一月十日 正代午前中はおとなしかったが、午後はよく泣いた。(…)

 なんと正代氏の生誕から回顧されているのだ。この幼時の記録は、8ページに渡る。最後には「正代年譜」まで附いてくる。

 そして次に続くのが、著者による「正代の病中(父の手記より)」だ。これはもう圧倒的なので、図書館等でぜひ目を通してほしい。小さな活字で10ページに渡る大作だ。病を得て苦しみきった正代氏が、透き通った神的なものになっていく過程が著者の目を通じて描かれており、娘と父の生Leben が表現されつくされている。

(…)私が正代の左の手を握ってやっていると、正代は横身になって、握っている私の手を自分の右手で掻いていたが、やがて両手を私の頸にかけ、「こんな悲しいことはないわ。」「こんな悲しいことはないわ。」といって泣き出した。私が夢を見たのかといっても、「あまりに悲しいことでいわれない」という。やがてまた「神さま、あまりひどいのです。神さま、あまりひどいのです。私を身代りにして下さい。私を身代りにしてください。」それが終ると大きなほがらかな声で、次のような歌をうたった。
 うつくしいうつくしい車が見える。 うつくしい車が見える。
 私のすきなお花でかざった車が見える。誰と一しょに乗ろう。きれいなきれいなお馬車。誰も乗らない。ただ一人乗る。うれしいな。きれいなきれいなお馬車。

(…)

 以前ブログ(あとがき6 )で述べたとおり、小熊英二は「紙面は著者だけのものではなく、編集・校正・装幀・営業・印刷製本など多くの人びとの労力と資源をついやすことで読者に提供される公共の場である。」と書いた、彼らにそんなものは関係ない。紙面は、著者の私物なのだ。

 退官や還暦、米寿を記念した論文集などはまだなんとか存在しているが、今回紹介したような家族追悼論文集は廃れてしまった文化のようだ。類例はまだまだたくさんあるだろうし、それを集めれば淵源も分かるかもしれない。広く江湖のご教示を俟つ次第だ。

*1:この復刻にあたって解説を寄せているのは、偶然にも竹内理三であり、このように述べている。「ちなみに『日本年号大観』は、長女正代氏の急逝されたのを悲しんで、記念としてこれを完成されたという。筆者も若きころ、幼くして身まかった長男のために、小著をものしたことがある。もとより本書に比すべくもないが、今年はその五十回忌に当る法要を済ませた。本書の巻頭にのせられた御両親の記録を読んで、哀切身にせまるものがある。」

あとがき17 歴史学は世界を良くするか:手嶋泰伸『日本海軍と政治』(講談社、2015年)

 

日本海軍と政治 (講談社現代新書)

日本海軍と政治 (講談社現代新書)

 

歴史と歴史学は、似て非なるものだ。少なくとも、私はそう信じている。歴史上の出来事や人物について、気の遠くなるほどの膨大な知識を持つことと、歴史学をするということは、全く別の話だ。歴史学の研究者とは、過去の出来事や人物について、単純にたくさんのことを知っているだけの人なのではなく、歴史を使ってさまざまな思考ができる人のことであると思っている。もちろん、思考をする前提として、歴史的な事実が厳密かつ正確に確定されている必要があり、その基本的な手続きは絶対におろそかにされてはならない。歴史学の研究とは、あくまでも実証的であるべきだ。だが、歴史学が単に新たな事実を発見することだけに目的を置いたものではなく、発見された歴史的事実を用いて思考をし、現代社会にとって意味ある知を生み出すことを使命とする専門技術であるとするならば、その知を社会に少しでも還元していくことで、自らの存在意義を確認したいという思いも、恥ずかしながら持っている。

引用したのは、手嶋泰伸『日本海軍と政治』の「あとがき」の冒頭だ。
本書は、アジア・太平洋戦争に関する海軍善玉・悪玉論争を超えた視点から、官僚組織としての海軍の逆機能を論じたものであり、官僚制通有の教訓が得られる良書だ。

「あとがき」の末尾はこう結ばれている。恥ずかしながら、自分も同じ気持ちを持っている。

海軍について、非難から思考へと関心が移ることで、世界はもう少し良くなりはしないかと、青臭く、大それた淡い期待を捨てきれずにいる。お笑いください。

あとがき16 奥出雲から流出した仏像たち:映画『みんなのアムステルダム国立美術館へ』(2014年、オランダ)

http://image.eiga.k-img.com/images/movie/80692/poster2.jpg?1414464183

この間、劇場で映画『みんなのアムステルダム美術館へ』を観た。


映画 『みんなのアムステルダム国立美術館へ』公式サイト

前作『ようこそアムステルダム国立美術館へ』(2008)に引き続き、美術館の改修工事をめぐるバタバタを描いたドキュメンタリーだ。内輪の話はまとまらず、外野との話し合いは徒労。そんなてんやわんやを淡々と切り取るカメラの意地悪さがたいへん良い。

こんなビターなコメディ調の中で、一服の清涼剤が、仏像男子ことメンノ・フィツキさん(アジア美術学芸員)と、彼が購入してきた日本の仁王像だ。


REALTOKYO | Column | Interview | 114:メンノ・フィツキさん(アムステルダム国立美術館アジア館部長)

https://lh3.ggpht.com/15KsVzHlq7snTSms0auRuMde4cKMZPuXGfmb_iP0v3QkVD_5P6qS5FPT5F6ziF-RG3FCmdadUrJslmg6QN4ojFFlXp0=s293

https://lh6.ggpht.com/MbfT5rz181mb7CB87HJDTDit-Oer0BZ5WuYYwfcoD_aZDAVhCl94o7HuxKaPxQ-XNR3mZBwbMvKfPcQS4yWxqoyugu0=s293

 

パンフレットによれば、これは2007年2月に美術館が購入したもの。2m以上ある優品で、アジア館リニューアルの目玉になる。メンノさんがこれが旧蔵されていた廃れた山寺にはるばる参詣するシーンまで映画では記録されている。

しかし、エンドロール(まさに映画のあとがき)やパンフレットで目を凝らしてみても、その寺の名前は見つからない。
この寺は、島根県の奥出雲にある岩屋寺という。そして実は、この仏像は盗難されたものなのだ。

なぜ奥出雲からアムステルダムまで仏像は伝わったのか?今回は、奥出雲の岩屋寺から流出した文物について、誰でもアクセスできる公開情報をまとめておく。

■仁王像(14世紀?)

・現在、アムステルダム国立美術館に所蔵。

日本語で読める文献は見つけられなかった。ただ、ネット上にはそれなりに信のおける情報があるので、紹介しておく。
まず以下のブログで、地元の方がまとめたレポートが紹介されている。

咲子の奥出雲山里だより - 奥出雲讃菓 松葉屋 奥出雲の宝、発見☆

咲子の奥出雲山里だより - 奥出雲讃菓 松葉屋 『消えた仁王像の追跡』

咲子の奥出雲山里だより - 奥出雲讃菓 松葉屋 「消えた仁王像」の追跡 ①

咲子の奥出雲山里だより - 奥出雲讃菓 松葉屋 「消えた仁王像」の追跡 ②

咲子の奥出雲山里だより - 奥出雲讃菓 松葉屋 「消えた仁王像」の追跡 ③

要点をあげると、
・1973から75年ごろに寺から流出。1980年に売り出される。2004年からアムステルダムが交渉に入り、2007年に購入。
・頭部墨書から暦応年間(1338-42)以前の作であることが分かるため、年代は鎌倉時代にさかのぼる可能性がある。
ということになる。

誤解されないように強調しておくが、寺が売却したわけではなく、ましてやオランダ人が仏像をかっぱらったわけではない。

次いで、アムステルダム在住ライター・フォトグラファー、ユイキヨミ氏のブログpolderpress より。

 この仁王像と開眼式について、学芸員のメノー・フィツキさんによるレクチャーも行われた。
「この美術館で展示している仁王像は14世紀に作られたもので、かつては島根県岩屋寺を守っていました。寺はすでに廃寺になっており、像はアートディラーより購入しました。この像が置かれてた場所を見るために私は岩屋寺を訪れましたが、そこで目にしたのは、”門番”のいない朽ちた寺門でした。仁王像の小屋の側壁には、像を取り出すために開けられた大きな穴が、そのまま口を広げてしました。この光景を見たとき、私は何とも言えないメランコリーを感じました。悲しくもありました。我が美術館にある仁王像は、かつてはここが住処だったのだ。そして芸術品とはなんとも儚く、どんなに素晴らしい作品でも自らを守る術は持ってはいないのだと改めて認識しました」。そんな彼の言葉は、芸術への愛情と、宗教に対する敬意に満ちていた。

 アムステルダムでこの仁王像を見たこのブロガーさんは、そののち奥出雲の岩屋寺を訪ねている。

映画「みんなのアムステルダム国立美術館へ」に登場する仁王像のふるさと | polderpress

名古屋から電車で10時間かかったというから、並大抵ではない。

そこで撮られた写真を見ると、確かに映画に出てきた山門だ。メノウさんの言うとおり、側面がなく仁王像が運び出せるようになっているのがわかる。

■十一面観音坐像(鎌倉時代)

岩屋寺から流出した他の仏像として、十一面観音坐像がある。

この観音像は、2012年の京都国立博物館「大出雲展」(7月28日~9月9日)に出品された。目録には

十一面観音坐像1躯鎌倉時代 嘉元4年(1306)

とだけあり、現所蔵者については明記されていない。

この観音像は、こののち場所を変え、同年開催の島根県立古代出雲歴史博物館「戦国大名尼子氏の興亡」(10月26日~12月24日)でも展示された。

この両展示の図録での解説は参考になる。Web上で読める的野克之「「大出雲展」只今準備中」(『島根県立古代出雲歴史博物館NEWS』2【pdf】、2012)に同様の解説が書いてあるので、以下引用。

次に紹介するのは奥出雲町岩屋寺の旧本尊木造十一面観音坐像です。岩屋寺真言宗の寺院で、創建は古く、武士や庶民それに修験者の信仰も集めるなど勢力を誇っていて、横田八幡宮の神宮寺でもありました。しかし、永正年間(16世紀初頭)に尼子の兵火で焼かれてしまいます。しかし快円という僧が天文年間(16世紀半ば)に復興します。本像は嘉元 4年(1306)に鏡信という恐らく中央の仏師によって岩屋寺の本尊として制作されたことが分かっていて、快円は戦乱で傷んだ本像を修理しています。
しかし戦後、諸事情により岩屋寺は境内の様々な仏像を手放します。
本像は現在関西の個人の方の所有となっていて、その方のご厚意により展示がかないます。先日調査させていただきましたが、坐像で約 1メートルと大きく、しかも十一面観音では珍しい四臂(腕が 4本)の像で、上品な瓜実顔の像でした。
岩屋寺でこの像と一緒に安置されていた四天王像は愛知県のお寺へ、仁王門を守っていた仁王像はアムステルダム国立美術館へ行ってしまいました。仁王様は無理ですが、十一面観音様と四天王様には一度島根県に戻ってきてほしいものです。

この観音像に関しては以下の研究がある。

・伊東 史朗「岩屋寺旧本尊十一面観音坐像」(島根県古代文化センター 編『古代文化研究』14号、2006年)

・淺湫 毅「岩屋寺旧蔵の十一面観音坐像をめぐって」(京都国立博物館, 島根県立古代出雲歴史博物館 編.『大出雲展』島根県立古代出雲歴史博物館、2012年)

■四天王像(戦国時代)

さて、さきほどの観音像に関する引用で、これとともに安置されていた四天王像が「愛知県のお寺」に行ってしまったという記述があった。

これは、愛知県浄蓮寺という寺だ(『日本歴史地名大系』)。この四天王像は1979年に愛知県の文化財指定を受けている。

http://www.pref.aichi.jp/kyoiku/bunka/bunkazainavi/yukei/choukoku/kensitei/img/0398-1.jpg

木造四天王像(もくぞうしてんのうぞう)

高さ持国天83.0cm、増長天85.0cm、広目天85.0cm、多聞天83.5cm。桧材、寄木造(よせぎづくり)、玉眼(ぎょくがん)、彩色。
4躯ともほぼ製作当初の姿を残している。面相に落ち着きがあり、甲冑などの彫り口は確実で古様を示していて、正統仏所の伝統を受けた作風をみることができる。
銘文によると、南北朝時代に出雲守護職を歴任した塩冶(えんや)氏の後裔(こうえい)、泰敏らを檀越(だんおつ)として、天文8年(1539)に京都七条仏所の康秀が島根へ下向して製作したことが知られる。
小像ではあるが室町時代末期の正統仏師による作品で、製作年代と作者が明らかな上に、一具現存しており、修補も殆どなく、製作当初の姿をよく伝えている。当時の基準作例として彫刻史上重要な価値をもっている。

これも、観音像とともに、2012年の島根歴博戦国大名尼子氏の興亡」に出品された。

■行基像(戦国時代)

京博「大出雲展」、出雲歴博「尼子」展両方の図録によれば、上記の四天王像と同じ仏師により同時期に作られた行基像があったという。岩屋寺から流出したのち、カナダ・モントリオール美術館に所蔵されているとされているが、詳細不明。

真言八祖像 (南北朝時代

これも2012年の出雲歴博「尼子」展で他の岩屋寺旧蔵品とともに出品されたもの。その図録によれば、岩屋寺から流出したのち、個人コレクターの手を経て鳥取県立博物館が購入したのだという。

この画像は、鳥取県博のデジタルミュージアムで公開されている。以下のリンクから閲覧可能。

鳥取県立博物館 資料データベース

岩屋寺文書

気になるのが、岩屋寺に所蔵されていたはずの古文書だ。中世文書12点を含む岩屋寺文書は『鎌倉遺文』『南北朝遺文』などでも紹介されているが、その原本はどこにあるのだろうか。

2006年に『東京大学史料編纂所研究紀要』(16)で公表された杉山 巖「光厳院政の展開と出雲国横田荘 : 東京大学史料編纂所所蔵『出雲岩屋寺文書』を中心に」【pdf】によれば、原本の閲覧は現在不可能だという。

岩屋寺文書は近代になって影写本(精巧な写し)が作られているので、それに拠るしかない。

東京大学史料編纂所影写本(架蔵番号3071.73-35)は1894年に影写されたものであり、文書12点を収録する。

島根県立図書館蔵影写本は、明治末から昭和初期の旧『島根県史』編纂事業に際して作成されたもの。『新修島根県史 史料篇 第1 (古代・中世)』で翻刻された岩屋寺の中世文書30点は、これを底本としている。なお島根県立図書館影写本は、東大史料編纂所に写真版が所蔵されている。

※ちなみに、杉山論文で紹介されている東大史料編纂所蔵の『出雲岩屋寺文書』27点(架蔵番号0071-28)は、元は岩屋寺所蔵だったのだろうが、上記のものとは別個に伝来した文書群である。

*******

以上のように、岩屋寺の文物は(それぞれの時期は不明だが)流出し、モントリオールアムステルダムにまで拡散している。これ以外の寺宝、とくに文書の出現が待たれるところだ。

●感想

以下、映画を観た感想。

あの岩屋寺から流出した仏像が出ているとは知っていたので、観る前は多少反感を持っていた。しかし、メンノさんが届いた仏像をキラキラとした目で眺め、いつ美術館が再オープンするのかも分からない中、この仏像の公開のために尽力する真摯な姿をみて、考え方を改めた。

ミュージアムショップでは仁王像の大きなフィギュアが売られており(Webで購入可能。吽形阿形)、この仁王を主人公にした絵本まで作られている。美術館の力の入れよう、仁王像の愛されようが伝わってくる。


bol.com | The Temple Guardians  , Katie Pickwoad | 9789047616412 | Boeken...

特に驚いたのは映画ラスト、美術館再オープンのシーンだ。なんと、美術館はこのために京都から僧を呼び、仁王像の開眼供養をしたのだ。

これは日本でもニュースになったようだ。


仁王像の「新居」はオランダ 国立美術館で開眼供養:朝日新聞デジタル

さきほど述べたユイキヨミ氏のブログでも詳細にレポートされている。

アムステルダムで執り行われた、仁王像の開眼供養 | polderpress

僧たちが恭しく花を捧げ*1、仁王像を荘厳するシーンに、メンノさんおよび美術館が、単なる美術品以上のものとしてかの仏像をとり扱う姿勢を感じ、私は心動かされた。

奥出雲を訪れたユイキヨミ氏は、地元の古老のことばを伝えている。

「2体ともアムステルダムにあるのかい!?」と驚く彼に、国立美術館の目玉のひとつとして、来館者を喜ばせていると伝える。
「仁王堂の中にあった時は、暗かったし、下から大きく見上げるようにしか姿を拝めなかったから、こんなにちゃんと全姿を見たのは初めてだよ。やっぱり立派だねぇ。返して欲しいねぇ。だが、ここに戻ってきても誰も管理はできないから、美術館で大切にされているのが一番いいんだろうねぇ」

もちろん、この古老が地元の意見を代表しているかどうかはわからない。学術的な公開、調査、保存などの観点から見れば、私としては、アムステルダムにあることは幸運だと思うけれども、「誰にとってよいか」を考えると一概に結論は出ない。

ただ、確実に重要だと言えるのは、この仁王像が元来どこにあり、なにと共にあり、どうやってそこから離れるにいたったかという文脈が忘却されないようにすることだろう。そんなささやかな気持ちから、この一文は草された。

 

記事紹介: 「あとがきに見る著者」(「法藏館ブログ編集室のつくえから」より)

http://www5.city.kyoto.jp/kigyo/res/kigyo/img_00435_prsdt_pcp.jpg

仏書で名高い京都の法藏館さんのブログで、「あとがき」についてたいへんよくまとまった記事が書かれていましたので、紹介したいと思います。

編集室の机から_あとがきに見る著者

とっつきにくい難解な研究書・専門書のなかでも、例外的に著者の本音と人間味にあふれているのが「あとがき」だ、というこの記事は、まさにうってつけの「あとがき」入門になっています。

結局何が言いたいかといいますと、難しい文章を書いて、一見自分とは住む世界が違うように見える著者も、「自分たちと同じ1人の人間である」ということです。

こういった視点で是非、「あとがき」を読んでみてください。
もしかすると、あなたと似たような体験を持った著者が存在するかも知れません。
同じような体験をしてきた著者が、果たしてその体験からどのような研究成果を世間に公表したのか、もしかしたら自分もそんな研究をしていたかもしれない。そう思うと、なんだかワクワクしてきませんか?

これはあとがき愛読党の理念でもあります。この記事を読んだ方が、あらたなあとがき愛読者(アトガキスト)になることを期待しています。

 

※なおこの記事のなかで、拙ブログも紹介していただいています。歴史ある尊敬すべき書肆に読まれていたと知り感無量です。法藏館さん、ありがとうございました。

あとがき15 もっとも短い「はしがき」: 野中哲照『後三年記の成立』(汲古書院、2014年)

もっとも簡潔な「はしがき」に出会ってしまった。

はらりと表題紙をめくると、左右にたっぷりと余白のあるページが現れる。その中央に、ほんの少し大きいポイントの活字で以下の文言のみが記されている。

はしがき

 

従来、貞和三年(1347)とされてきた『後三年記』の成立年次を天治元年(1124)に引き上げる――これが本書の主旨である。

 

これが、野中哲照『後三年記の成立』(汲古書院、2014年)冒頭頁の全てである。

http://www.kyuko.asia//images/book/186023.jpg


一般的に、このような論文集は、長年別個に書かれてきたもの集成であるからか、「その本で何が明らかになるか」は、往々にして模糊としていることが多い。それに比べた本書の端的さ、鋭さには、思わず息を呑む。

軍記物語『後三年記』の成立年が200年引き上げられることは、些事ではない。
*『後三年記』の成立が院政期だとすれば、『平家物語』などよりも前のものとなり、『将門記』『陸奥話記』などの初期の軍記と『平家物語』など鎌倉期の軍記との数百年の空白を埋める重要なテクストとなる。また、『後三年記』の制作が後三年の役(1083~1087)の当事者である藤原清衡周辺であるという著者の主張が正しいとすれば、後世の絵空事と歴史学から見られてきたこのテクストは、一挙に政治史的な対象となる。

このシンプルな命題を証明するために、国語学歴史学にもまたがるさまざまな知見が用いられ、新しい方法論の提唱にもいたる。本書の全てがこの「はしがき」に収斂するように構成されているのである。

本書の「あとがき」にはこう記されている。

なお本書の「はしがき」がわずか一文であるのは、故藤平春男先生の、「論文でも本でも、その意義をひと言で語れるようでなければ駄目だ」との教えによる。

同じく「あとがき」によれば、驚くべきことに、本書のテーマは30年前の卒業論文で得た着想なのだという。しかし、本書まで至る道は決して平坦ではないことは容易にわかる。これを貫徹するため、どれほどの葛藤を乗り越えてきたのだろうか。
博士論文*1になりうるような一書を成すことへの気魄、緊張感、そのようなものを感じて私は居住まいを正してしまったのだった。

 

*1:著者が学位を授与された博論は本書の原型であるが、『後三年記』に加えて『保元物語』も論じたものだったようである。

https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/40240/1/Shinsa-6364.pdf