あとがき23 原態本の発見?:丸山眞男『現代政治の思想と行動』(未來社、1956-57)
あとがき愛読党員たるもの、かの丸山眞男の名著『増補版 現代政治の思想と行動』の「増補版への後記」にいつかは向きあわなくてはならない。今回はそれへの布石ということで、その旧版についての小ネタを取り上げたい。
テクストを追求するものにとって、原態(オリジナル)は特別な意味を持っている。目の前にあるテクストよりもさらなる古態本、できれば原態本を手に取りたいという欲望が、眼には見えない『〈原〉源氏物語』や『〈原〉太平記』を研究上仮設させてきた。
さて、丸山眞男の『現代政治の思想と行動』は戦後からの10年間丸山が時局と関わりつつ発信した成果がまとめられた論文集だ。増補版に先立つ旧版は、日頃あまり意識していないが、上下巻の分冊で刊行されている(増補版で合冊された)。実は、旧版よりも先立つ『〈原〉現代政治の思想と行動』を推測するための資料を自分は私蔵している。画像を見てほしい。
これは、とある方から譲り受けた石母田正『古代末期政治史序説(上)』初版本(未来社、1956.11.15)にはさみこまれていた未來社の新刊広告だ。ウラ面が石母田の、そしてオモテ面がかの『思想と行動』の予告になっている。これは多分国会図書館も持ってないレアものだ。
戦後を代表する知識人のふたりが奇しくも同じチラシに名を連ねているのはなかなか感慨深いのだが、気になるのは、予告されている『思想と行動』の内容が、われわれが知っているものと多少違うことだ。
チラシの末尾にはこう書かれている。
十一月末刊 A5判上製函入 四〇〇頁 予価四八〇円
しかし、実際に出た『思想と行動』は上下巻に分冊されており(上巻280円、下巻350円)、しかもハードカバーではなく軽装だった。
※ちなみに軽装にしたのは出版社ではなく丸山の希望で(「増補版への後記」より)、戒能通孝から「貧弱な装幀」と文句を言われたらしい(丸山「三十五年前の話」)。出版日付も、上巻は1956年12月15日、下巻は1957年3月30日で、チラシの予定よりも遅れている。
「目次」として出ている内容予告にも異同がある。チラシから引用しよう。
目次
第一部 現代日本政治の精神状況
超国家主義の論理と心理 日本ファシズムの思想と運動 軍国支配者の精神形態 ある自由主義者への手紙 恐怖の時代 日本におけるナショナリズム 講和問題によせて 「現実」主義の陥穽
第二部 イデオロギーの政治学
西欧文化と共産主義の対決 ラスキのロシヤ革命観とその推移 ファシズムの諸問題 軍国主義・ナショナリズム・ファシズム スターリン批判における政治の論理
第三部 政治的なるものとその限界
科学としての政治学 人間と政治 肉体文学から肉体政治まで 権力と道徳 支配と服従 政治権力の諸問題 政治的無関心
表記の相違は以下の通り(左がチラシ;右が刊行本)
・西欧文化と共産主義の対決→西欧文明と…
・ラスキのロシヤ革命観とその推移→…ロシア革命観…
・軍国主義・ナショナリズム・ファシズム→ナショナリズム・軍国主義・ファシズム
・スターリン批判における政治の論理→「スターリン批判」における政治の論理
・政治的なるものとその限界→「政治的なるもの」とその限界
・政治的無関心→(収録されず)
だいたいは細かい表記の違いだが、「西欧文化」と「西欧文明」は実質的意味まで変わってくるかもしれない。
そして、刊行時には収録されなかった「政治的無関心」。これは、丸山が『政治学辞典』(平凡社、1956)に執筆した大項目「政治的無関心」のことだろう。『政治学辞典』に執筆した項目のうち、いくつかは(統合や加筆を経て)『思想と行動』に収録されているのでありうべき話だ。ちなみに「政治的無関心」は、松本礼二が編んだアンソロジー『政治の世界』(岩波文庫、2014年)に入っている。
そしてこのチラシがはさまっていた『古代末期政治史序説(上)』初版本の奥の近刊案内には
A5判 400頁 予価450円 12月上旬刊
とあり、チラシの予告からさらに変更されている。
このチラシや『古代末期政治史序説(上)』が発行された1956年11月ごろ、丸山はいったい何をしてたのだろうか。
『思想と行動』刊行のころを丸山が回顧した「三十五年前の話」(『ある軌跡―未來社40年の記録―』)というエッセイを見てみよう。
1956年11月、丸山は『思想と行動』の追記と補注の執筆真っ最中だった。11月1日と7日の2回に分けて第一部の追記と補注の原稿を編集に渡し、第一部の追記・補注を最終的に書き上げたのが12月2日(上巻刊行の2週間前!)だったらしい。1966年の座談会(「未來社の15年・その歴史と課題」)でも、西谷能雄(未來社編集者)と丸山はこう回想している。
西谷 やっと緒についてくれたのはいいんだけど、僕はそれで〔既発表の論文のままで〕、並べればいいと思っていたら、今度は、本文のあとに註つけにゃいかんって、それでまた時間がかかり出したんでね(…)
丸山 一気にいったですね。あれは松本君〔松本昌次。未來社社員〕が大変だったですね。それは印刷所でも書いたし、どこでも書いた。だから一瀉千里。自分でも俺は一体遅筆なのか、速筆なのか分からないと思うくらいでしたね。一旦書き出したら…。
どうやら編集と丸山のあいだで齟齬があり、編集の予想以上に丸山が土壇場でがんばりだして、加筆しまくってたらしい。ちょっと迷惑な話だ。上下巻になってしまった事情はよく分からなかったが、12月の時点で第一部の加筆までしか完成していないので、第二部・三部の追記・補注を書く時間を考えて一冊にするのをあきらめ、分冊にしたというところじゃないだろうか。ということで、丸山が旧版での「後記」に書いていた
おわりに本書が陽の目を見るまで丸六年も辛抱強く待ってくれた、出版社長というより友人の西谷能雄氏と、最後の急ピッチの仕上げに大変迷惑をかけた松本昌次氏はじめ未来社の人々の尽力に感謝してペンをおく。
というのはダテではないのだ。
************
ということで、今回はチラシから『〈原〉現代政治の思想と行動』を仮構してみたのだが、もしも『源氏物語』や『太平記』並みに丸山のテクストが研究されている世になったら、この“原態本”をことさらに言いつのり、表記の違いや未収録稿についてこねくりまわした博論の一本でも書けるかもしれない。また、そのような原態・古態への過剰な遡及志向が戒められ、テクストの複数性云々が言われて久しいから、その観点からもう一本書けるかもしれない。自分に見えるのは、年末進行のなかで版元と丸山がドタバタしている風景なのだが。
あとがき22 あとがき史上最高傑作!:諸橋轍次『大漢和辞典』(大修館書店、1955-60)
ある方からこんなことを言われた。
「最近キミのブログ、本文のこと書き過ぎ!」
ギクリ。確かに最近、あとがきにひっかけて書きたいことを書くばかりで、肝心のあとがき自体と真剣に向きあってないかもしれない。図星だった。
そこで改めて、誰もが読んでおもしろいあとがきの条件を考えてみた。
①本文は不滅の価値がある。
②仕事への使命感や熱いパッションが噴出している。
③困難を乗り越えている。
④使命のために、自分のさまざまなものを捧げている。
⑤(④によって)偉業(①)を成し遂げている。
この5条件をみごとにクリアしているのが、『大漢和辞典』(大修館)の「出版後記」だ。まさにあとがき史上の最高傑作といっていいのではないか。
筆者は鈴木一平、大漢和を出版した大修館書店の創業者。この「出版後記」は、ネットで全文読むことができる。
ぜひ実際に読んでほしいのだけど、とにかくおもしろい。アツい。心あるひとならば、必ず動かされる。
以下、冒頭の5条件にのっとって、この「出版後記」のよさを説明していきたい。
①本文は不滅の価値がある。
『大漢和辞典』は漢和辞典の最高峰だ。1925年に大修館書店の鈴木一平に構想され、漢学者の諸橋轍次に依頼されてから、戦争をはさんで、1960年に初版13巻が完結するまで、実に35年の年月をかけた大事業だった。親字数約5万、熟語数約53万。出版当時は世界最大の漢字辞典だった。その後、中国の『漢語大詞典』や台湾の『中文大辞典』などこれに匹敵するものも出てきたけれども、現在でもいまだに大漢和の価値は失われていない。日本人が中国学を学ぶ際の参考文献に必ず大漢和はある。また、文字コードにまで大漢和の影響が及んでいる。
このように大漢和は、今後も語り継がれる不滅の価値をもっている。
②仕事への使命感や熱いパッションが噴出している。
大漢和のすごいところは、このような大事業が、君主や国ではなく、民間の一出版社と研究者によってなしとげられたことにある。「出版後記」を見てみよう。
当時(三十八歳)私は「いやしくも出版は天下の公器である、一国文化の水準とその全貌を示す出版物を刊行せねばならぬ。これこそ出版業者の果さ ねばならぬ責務である。」と固く信じ、先ず生命力の永い良い辞書の出版を考えた。
そう志した鈴木一平は、漢学者の諸橋轍次と一冊ものの漢和辞典を出版する契約を結ぶ。ところが数年後、鈴木は諸橋から、漢和辞典が、当初とは似ても似つかぬ長大なものになりそうだということを告げられる。鈴木は決意した。
今後その辞書が一揃いでも世の中に残る限り、私自身の生命が形を変えて永遠に持続するのだと思うに至り、自らを励まし、私の資力と体力の一切を 注入して、この事業完遂に一生を捧げようと決心した。
③困難を乗り越えている。
大漢和編集・出版の困難さは、大修館のHPの解説、あるいは大漢和辞典 - Wikipedia
をみてほしい。
古今の文献からの語彙集め、出典探し、そして幾度にもわたる校正など、読むだけで気の遠くなる編集作業が、諸橋を中心とした漢学者たちによって行なわれた。
そして出版側にも、活字という大きな問題があった。大漢和は5万の親字を載せるが、当時活字の漢字は8000字程度しかなかったらしい。ということで、鈴木は活字職人数十名を使い、何十万もの活字を新たに彫る作業から始めなくてはいけなかった。大漢和は、出版史上でも大きな挑戦だったのだ。
工場を特別に作り、最終原稿を活字に組み置いて原版を作っていくそばから、校正刷りがなされ、補訂されていく。一応刊行できるかたちになったのが1941年。折しも戦時であり、政府から用紙の配給をどうにか獲得して第一巻を出したときは、すでに1943年になっていた。編纂を依頼した1925年には、鈴木38歳、諸橋42歳。第1巻が出たとき、ふたりはもう還暦かそれに届きそうな歳になっていた。
ところが国の方針による企業合併のあおりを受け、2巻目がなかなか発行できない。そうこうしているうちに戦況は日増しに悪化し、1945年2月、米軍の空襲によって、大修館書店の事務所、特設工場、倉庫、そして大漢和編纂の資料、組み置いていた原版、何十万もの活字の母型はすべて失われてしまった。20年間心血を注いだもののほとんどが失われてしまったのだった。
④使命のために、自分のさまざまなものを捧げている。
しかし諸橋は、いざというときに備え、全ページ分の校正刷りを3ヶ所に疎開させていた。これが戦後、大漢和を改めて出版するときのもとになる。
だが、戦争が終結してもなかなか再起のときは訪れない。また1946年に、諸橋はほぼ失明状態におちいる。結局鈴木が出版計画を再始動させるのは、1950年になってしまった。
このときにあたって鈴木はまたも一大決心をする。自分一代で事業が終わらないことを見越して、子どもたちの人生も大漢和に捧げることにしたのだ。
諸般の出版態勢を整えると共に、私はこの事業の完全なる遂行は私以外にはなしえないが、若し事業半ばに於て死亡し、この出版に支障を来すなら ば、諸橋先生ならびに今日まで御声援を頂いてきた方々に相済まぬという責任を痛感し、本来各方面に進むべく勉学中であった長男敏夫を、当時東京慈恵会医科大学から退学させて経営に参加させ、次男啓介は、旧制第二高等学校を卒業し、東京大学に入学準備中のものを断念させて写真植字を習得、技術を身につけさせ、更に三男荘夫の東京商科大学卒業を待って経理の実務につかせ、私亡き後でも、私の分身が必らずこの事業をなし遂げられるという万全の態勢をとり、父子二代の運命を賭けてやり抜く決意を固め、それを実行した。
医師や東大へと歩むはずだった息子たちの進路を犠牲にして、一家で大漢和刊行事業のため尽くすことになったのだった。
⑤偉業を成し遂げている。
このように多大な尽力と犠牲を払い、1955年に第1巻を発行。ちょうどこの歳に諸橋も開眼手術を受け、片目が使えるようになった。そして順調に刊行は進み、最終巻の13巻を1960年に出すことができた。
昭和三十年文化の日、第一巻を発行してからここに四年余、今日生命に別条もなく、全十三巻を自分の手で完全に成し得て、感激正に無量である。学歴もなく才能も恵まれぬ私に、今日このような機会を与えて下さった諸橋先生及び編纂に関係された諸先生、事務遂行に協力を惜しまなかった関係各位、不断に激励を与えられた先輩諸士に対し、深甚なる謝意を表する。
この辞典には、約三十五ヶ年間に亘る私の魂が打ち込んである。私存命中に再び版を新たにすることは出来まい。将来補筆出版の必要が生じた際は、 私の子孫が責任をもって、大修館書店の名前のもとに必らず遂行するよう申し置いて行く。この辞典が世の中に一揃いででも残って活用される限り、諸橋先生と共に私の生命が永遠に続くものと確信して、ここに出版後記とする。
かくして世界最大を誇る漢字辞典の刊行が成し遂げられたのだった。
…ということで、大漢和の威容を眼にすると、いつもこの「編集後記」と、鈴木や、諸橋や、これに関わった人々と年月のことを思ってしまう。このあとがきは、読むものに対して、自分が生きているのはなんのためだろう、ということまで考えさせてしまうおそろしい作品だ。このような理由から、自分は、大漢和の「出版後記」をあとがき史上の最高傑作だと主張したい。
あとがき21 人生有限、学無窮:竹内理三編『鎌倉遺文』(東京堂出版、1971-1995)
みなさん、歴史家・竹内理三(1907~1997)をご存じだろうか。
かつてある古代史のゼミで、先生がこう宣言した。
「みなさん、塙保己一と竹内理三には足を向けて寝てはいけませんよ」
もちろん塙保己一は、江戸時代に『群書類従』を編纂した盲目の大学者だ。現代人なのに、それと肩を並べるとはなにごとか。
写真でみる限り、竹内理三は、小柄なおじいさんだ。愛知県知多半島の田舎で生まれ、終生知多弁が抜けず、生まれつき体が弱かった。そんな小柄なおじいさんが、超人的としか言いようがない仕事を遺しているのである。
『竹内理三著作集』全8巻に及ぶような研究業績、そして数多くの事典、史料集、弟子の育成。とくに大書されるのが、『寧楽遺文』(全3冊、1943-1944)、『平安遺文』(全13冊、1946-1968)、『鎌倉遺文』(全46冊、1971-1995)の遺文シリーズだ。これにより、奈良・平安・鎌倉時代の日本にある古文書を、すべて活字で参照できるようになったのだ。古代・中世のことを知りたい人間で、竹内理三の学恩を受けてないものはいない。自分もそうだ。
竹内理三の人生をみて、ひときわ目を惹くのは『鎌倉遺文』の編纂だ。壮年のときに成し遂げた『平安遺文』の刊行で、竹内理三は朝日文化賞を受賞し、学会内外で確固たる名声を手にしていた。そこからさらに、『平安遺文』の数倍困難であろう『鎌倉遺文』編纂に乗り出したとき、竹内理三は64歳だった。そこから独力で執筆・編集・校正をこなし、半年で1冊という驚異的なペースで刊行していった。予定を大幅に超過し、正編・補遺編併せて46巻を刊行し終えたとき、竹内理三は88歳になっていた。
ゲーテはミケランジェロを称えて「シックストゥス礼拝堂を見ないでは、一人の人間が何をなし得るかを眼のあたりに見てとることは不可能である」と喝破した*1が、私は、『鎌倉遺文』にそれを見る。
あるとき畏友が、自分に言った。
「竹内理三がよく揮毫する言葉、知ってる?『人生有限、学無窮』だって」
『人生有限、学無窮』!まさに竹内理三の生き方そのものではないか。
深く感銘を受けた自分は、竹内理三のことを話題にするたびに、この言葉を思い出した。
そして数年後。この畏友とまた竹内理三について話していると、彼はまた自分にこう言った。
「『人生有限、学無窮』…これって、教えてくれたの、お前だよね」
えっ、自分は、そっちに聞いたんだけど…。
「あれ、この名言、お前に聞いたものだとばっかり…」
なんと、お互いがお互いに教わったと称しているのだ。こんなこと、あるんだろうか。
正直なところ、数年のあいだ『人生有限、学無窮』!とほうぼうに言ってきたので、誰から教わったのかはかなりあいまいな記憶になってしまっている。もしかしたら、記憶が逆転しているのかもしれない。
ともかく、これによって、『人生有限、学無窮』が出処不明の名言になってしまった。
さて、出典を探すためGoogleで検索してみると、twitterの歴史家botなるアカウントが引っかかる。
人生有限、学無窮(竹内理三の揮毫より)
— 歴史家bot (@historian_bot) 2010, 12月 21
これにはちゃんと「竹内理三の揮毫より」と注記がついている。だったら、出処を探るのも簡単なんじゃないのか?
「シシシシ 残念だけど、それはムリだね」
「え?」
「なんでムリだって分かるんだよ」
「なぜって、そりゃ……そいつの開発者、俺だもん」
(映画『サマーウォーズ』より)
そう、その歴史家botにタレこんでこの『人生有限、学無窮』を入れてもらったのは、他でもない自分なのだ。そして、この歴史家botは、夜ごとに胞子を噴出する茸のように、今や出処不明となってしまったこの名言を、この数年間ウェブ上に拡散してきたことになる。
そして、拡散は別のところにも及んでしまったようだ。たとえばこの書籍の一節。
休日は昼過ぎまで寝ていたり、パチンコで時間をつぶすだけの暮らしで空しくならないだろうか。
人生有限、学無窮。
これは歴史学者の竹内理三が揮毫した言葉である。人生は有限であるけれども、学ぶのは無限だ、という意味である。
さらっと通読してみたところ、著者独自のソースを持っているわけではなさそうなので、歴史家botによってこの『名言』を知ったに違いない。そして、2013年にはこの本の文庫版が出ているので、それなりに売れて世間の目に触れているようなのだ。
名言、名エピソードは出典があやふやでも広まってしまいやすい。たとえば、夏目漱石がI love you. を「月がきれいですね」と見事に訳したというハナシが代表的だ。
自分が軽率なことをしたばっかりに、この出処不明の名言がさらに拡散されてしまうことになったら…。少年時代のブラック・ジャックを手術したとき体内にメスを置き忘れてきたことに気づき(とんだすっとこどっこいだ)苦悩する本間丈太郎先生のように、頭を抱えることになった。なによりも、出典を解明しないことには、史料から明らかなこと以外は何ひとつ言明してはならないと弟子を誡めた竹内理三の主義に反するではないか。
ということで、『人生有限、学無窮』の出典を調べてみた。
①『古代文化』第50巻第11号(1998年)
とりあえずGoogle booksで「人生有限、学無窮」と検索してみたら発見。実物を見てみると、『竹内理三 人と学問』という本の短いレビューがあった。そこにはこうある。
(…)今更その経歴・業績については云々するまでもなく、ここでは明石一紀氏の『竹犂庵先生遺語』より、数ある竹内氏の人間性を示すに足る語録よりその幾つかを紹介しておきたい。
『人生有限』『学無窮』『自分には厳しく、他人には寛容に』『人生の成功の秘訣は、運・鈍・根である』(…)
おお、『人生有限、学無窮』!どうやら、『竹内理三 人と学問』に出典があるようだ。
②『竹内理三 人と学問』(東京堂出版、1998年)
これは竹内理三が没したのち、周囲のひとびとによって編まれた追悼本だ。
そのなかに、明石一紀撰「竹犂庵先生遺語」という記事がある。竹犂とは竹内理三の雅号だ。そのなかに「学無窮」と「人生有限」の二語が収録されている。ところが、この二つはお互いずいぶん離れたところに配置されており、連結されたひとつの名言とはなっていないのだ。引用しておこう。
☆学には窮まり無し(「学無窮」)
ゼミ修了の記念アルバムの巻頭に、この言葉を書き添え、送り出してくれた。
そしてそこからかなり離れた後の方に、
☆人生に限り有り(「人生有限」)
一方、学問には限りがない。従って………、となるわけだが、先生は深く色々な意味で用いたものと思われる。
という記述がある。内容的に関係しているという書きぶりだが、連結して揮毫されたとは書いていない。
この「人生に限り有り」の方は、瀬野精一郎「意識過剰・増長・離婚」という記事から補遺として引用したものだという。次はそれにあたってみよう。
③瀬野精一郎「意識過剰・増長・離婚」(『日本歴史』第591号、1997年)
瀬野は竹内理三の弟子だ。記憶に残る師のことばがいくつか連ねられている。
(…)「彼には近寄るな」「学問は無限だが、人生には限りがある」「数代に渡って継承されるものでなければ真の学問ではない」(…)
少しかたちは違うが、『人生有限、学無窮』と意味は同じだ。そして、瀬野精一郎の蔵書に竹内理三が認めた揮毫の写真がふたつ載せられている。片方には「学無窮」、もう片方には「人生有限」と大書されている。
ということで、『学無窮』と『人生有限』のふたつが揮毫されていることは確認できたのだが、これを竹内理三自身が連結させて使っていたという確証がほしい。その根拠は、たまたま目の前に現れた。
④竹内理三編『鎌倉遺文 古文書編 補遺第2巻』(東京堂出版、1995年)
鎌倉遺文をめくっていて、ふと「序」を見ると、この言葉が眼に飛び込んできた。
恐らくなお未収録の文書はこれにとどまらないと思われる。多くの研究者によって未収録文書を補っていただくことは、編者が最も期待するところである。
人生には限りがあるが、学問には窮まるところがない。真の学問の進歩のためには、一代で断絶することなく、何代にもわたって継承される必要があると信じる。(…)多くの研究者によって鎌倉遺文が多方面に活用されることを切望して止まない。
平成七年二月三日
竹内理三
この「序」は補遺編第2巻(補遺編は4巻まである)という中途半端な巻にあるが、意味は重い。鎌倉遺文には毎巻ごとに冒頭の「序」を竹内理三が執筆していたが、補遺2巻以降はこれが途絶え、最終巻(補遺編第4巻)の「あとがき」は弟子の瀬野精一郎が書いている。もはや、体力的に限界だったのだろうか。つまり、この補遺編第2巻の「序」が、鎌倉遺文の実質的な「あとがき」といってよい。
そんな節目の文章に、「人生には限りがあるが、学問には窮まるところがない。」と書いているのには、偶然以上のものを感じる。この言葉に竹内理三自身が強い愛着を持っていることが、これで確かめられた。『人生有限、学無窮』という揮毫を認めていたとしても、おかしくはない、と言えるのではないだろうか。もちろん、実際に揮毫している事例が見つかるまで自分の義務は果たされないので、これは中間報告的なものだ。もし他に情報お持ちの方がいたら、ぜひ教えてほしい。
*******
というわけで今回は、竹内理三の名言の典拠を云々するだけで終わってしまった。竹内理三が遺した仕事がいかに偉大なのかは、おいおい書いていくことにしたい。
あとがき20 【祝・世界記憶遺産】「東寺百合文書」以前: 網野善彦『中世東寺と東寺領荘園』(東京大学出版会、1978)
ユネスコの記憶遺産(世界記憶遺産)に、東寺百合文書が認定された。
日本のものが認定されてうれしいという以上に、東寺百合文書を保存し、整理し、公開してきたたくさんの人々、とくに所蔵している京都府立総合資料館の人々の尽力が報われたという意味で、たいへんおめでたいできごとだ。
東寺百合文書は、京都の東寺(教王護国寺)が伝えてきた、約25000通にもわたる中世文書の一大コレクションだ。加賀藩主前田綱紀が東寺に寄進した約100箱の桐箱に保管されていたことから、この名前がついている。東寺が伝えてきた中世文書(広義の東寺文書)は、おもに東寺(狭義の東寺文書)、京都府立総合資料館(東寺百合文書)、京都大学(教王護国寺文書)の3ヶ所に分かれて所蔵されている。そのうち、量的にもっとも多い府立総合資料館蔵の東寺百合文書が、今回ユネスコの認定を受けた。
マスコミでの報道では「寺院経営の文書」とされているが、全国に散らばる東寺の荘園経営が寺院経営の大きな部分を占めるので、日本の荘園研究にこの文書群は欠かせない。
さて、そんな東寺百合文書とたいへん縁の深い人物が、歴史家の網野善彦だ。
網野は、東寺百合文書を使って卒論(「若狭における封建革命」)を書き、のち左翼活動から脱落して高校教員となってから、学問的な再起を賭けて研究対象として選んだのも、東寺百合文書だった。
はじめての網野の単著は東寺領の若狭国太良荘を描いた『中世荘園の様相』であり、出世作である『蒙古襲来』や『無縁・公界・楽』の端々にも東寺百合文書が使われている。網野の半生は、東寺百合文書とともにあった。
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ちなみに、そんな網野ですら
大学入学以前から古文書などに多少関心を持っておりましたが、そのころは「東寺百合文書」のことを「ユリ文書」と読むのだと思っておりました。大学に入学して先輩に「ユリ文書」とはどういうものかと聞くと、「何をばかなことを言っているのだ」と笑われ、そのときに「ヒャクゴウ文書」と読むと知ったのが、この文書との最初の出会いでした。
と言ってるから、みんなが「ユリ文書」「ユリ文書」と間違えるのもやむなし。この記事中では、親しみをこめて「東百(トーヒャク)」と呼ぶことにしたい。
これら網野の東寺研究の集大成が、主著である『中世東寺と東寺領荘園』(1978年)だ。堂々たる網野の初論文集である。
この本は網野の激しい人生を表現せんとするアツい記述に溢れているのだが、それはまたの機会にとっておくとして、「あとがき」をみよう。「あとがき」には東寺文書とそれに関わるさまざまな人への謝辞がつづられている。ところが、肝心の京都府立総合資料館については、一言も触れられていない。なぜだろうか。
それは、このときまだ府立総合資料館は東百を公開していなかったからだ。網野は、基本的には東百の原物に触れることなくこの論文集を書いたのである。
東百はながらく東寺に秘蔵されてきた。それを京都府が購入したのは1967年、目録作成と整理が終わって全面公開されたのは1980年だ。それより以前、(ごくごくわずかの幸運な例外を除いて)研究者が東百を直に見ることは叶わなかった。
東百はすべてが活字化されているわけではない。現在でもだ。網野の若いころならばなおさらだ。大正時代から東京大学史料編纂所の『大日本古文書家わけ第10 東寺文書』により東百の活字化が進められていたが、当時は第6巻(1939年刊)で止まっており、「い函」から「を函」の一部まで(5000通強)しかカバーしていなかったから、東百のトータルには遠く及ばない。
大日本古文書 家わけ第10〔之16〕 東寺文書之16 百合文書れ之2
- 作者: 東京大学史料編纂所
- 出版社/メーカー: 東京大学史料編纂所
- 発売日: 2013/04
- メディア: 単行本
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ちなみに2015年現在、これは16巻まで出ている。またそれとはかぶらないように、府立総合資料館も2004年から『東寺百合文書』の刊行を始め、11巻まで出ている。二つ合わせて活字化が完了するのはいつになるのだろうか…。
原物も活字本もダメ。こんな状況で当時のひとびとは、どのようにして東百を参照したのだろうか。前置きが長くなってしまったが、今回は、府立総合資料館が東百を公開する以前のアクセス環境を「あとがき」も用いつつ再現してみたい。こんなことはちょっと上の世代には常識なのだろうが、そういう残りづらいことこそ言語化しておく価値があると、下の世代としては思う。
*********
まずサンプルとして、『中世東寺と東寺領荘園』のp434、第Ⅱ部第4章第4節の註(15)を見てみよう。
白河本八、寛正三年十二月十三日、乗琳房栄俊補任状(?)。この文書は書写が不完全と思われるが、ハ一三―二〇、年未詳十一月晦日、代官乗琳房栄俊注進状に「(…)」とある。この文書は恐らく寛正三年の文書であろう。
ここでは以下の2通の文書が典拠として使われている。
A. (寛正3年?)11月30日代官乗琳房栄俊注進状(ハ13―20)
B. 寛正3年12月13日乗琳房栄俊補任状(?)(白河本八)
このさりげない出典表記に、網野、ひいてはこの世代がどのようなかたちで東百を閲覧していたかが分かる。
東大史料編纂所影写本
文書Aの方から見てみよう。この(ハ13―20)という番号はなにを指しているのだろうか。序章の註で網野はこのような断り書きを入れている。
以下「東百」と略称し、(…)引用に当っては函名及び、東京大学史料編纂所所蔵影写本の分類番号のみを掲げる。―『中世東寺と東寺領荘園』p77
これは、東百原物ではなく、東大史料編纂所にある影写本(精巧なコピー)に付与されている記号だったのだ。「ハ13―20」は、東大影写本の「ハ函の13から20」を意味している。
この当時、東百を引用するときは、東大影写本の記号で出典を表記するのがスタンダードだった。
例えば、かの有名な「永仁の徳政令」。この有名な法令のもっとも整った条文は、東百のなかにある。東百が現在まで伝わらなければ、この有名すぎる法の全体像は分からなかったはずだ。
これは現在の府立総合資料館の整理番号であれば、”京函/48/2”から”京函/48/4”となる。ところが、鎌倉幕府法の権威である『中世法制史料集第一巻 鎌倉幕府法』(岩波書店)では、この「永仁の徳政令」の出典表記は、 「東寺百合文書京一至十五」となっている。京函であることまでは同じだが、そのあとの数字が異なる。この番号は、東大影写本のものだ。1955年初版の『中世法制史料集』が参照したのは、東大影写本だったのだ。
また、網野と同世代の研究者である上島有の最初の論文集『京郊庄園村落の研究』(塙書房、1970年)を開いてみよう。上島は創設時から府立総合資料館で東百の整理に携わってきた功労者だが、この時期の論文のなかで東百を引用するときは、わざわざ断りをいれるまでもなく東大影写本の番号で出典を表記している。
なぜこのような出典表記がスタンダードだったのか。それはこの当時、東百を参照するもっとも一般的な方法が、東大影写本を見ることだったからなのだ。京都にある文書を見るためには東京に行かなければならない。このねじれた状況を、上島有はあとがきで書いている。
東寺百合文書は中世史研究の最高の史料として、明治時代から東京大学史料編纂所および京都大学文学部国史研究室において影写本が作成されて、学界において広く利用されてきた。しかしその原本は長く東寺に秘蔵されて、その価値の高さとその量の厖大さのゆえに、簡単に研究者が利用しうるような状態ではなかった。私が矢野庄や上久世庄の史料を収集するに際しては、原本が身近な東寺にあるにもかかわらず、東京大学史料編纂所の影写本を撮影するため、重いカメラをひっさげて、何度となく上京したものであった。そしてその度毎に、そう簡単に百合文書の原本は閲覧しうるものではないことが分かっておりながら、原本のある京都から、影写本をみるために上京することに、何んとなく矛盾を感じていたものである。
―上島有『京郊庄園村落の研究』あとがき
そういう意味では、東大の出身でまず東京で就職した網野は比較的東百を参照しやすい環境にあった*1。網野は都立高校に勤務するかたわら、休みや研究日などを使ってバスに乗り東大史料編纂所まで通い、若狭国太良荘関係史料を中心に東百をエンピツで筆写する生活を続けていた(コピー機普及以前はこれがふつう)。この下積み時代、同じように太良荘関係史料を筆写するため京都からきていた若手研究者に、大山喬平(現京大名誉教授)がいる。
…私は東寺百合文書のなかの太良荘の文書を探しては、毎日、一点、一点、筆写していた。影写本がまだ緑色のハードカバーになる以前、薄茶色の和表紙のままのころである。七、八人の外部閲覧者のなかに、これも浅黒く精悍そうな顔つきの大柄な人物がいて、ずっと無言で百合文書の影写本を見ている。はじめは気がつかなかったが、出納で出し入れする影写本が、どうも私が見ている号数と同じあたりが多いらしい。百合文書のなかでも、太良荘関係が集中する部分があって、そういうあたりで私と衝突しているらしい。何となく気になりながら、互いに名乗りあうこともなく、一週間ばかりで私は京都に引き上げた。その人物が網野さんだった。
東大影写本の淵源は、1886年から翌87年にかけて京都府と内閣臨時修史局(東大史料編纂所の前身)とが行なった東寺文書の悉皆調査までさかのぼる。この大規模な調査の結果をもとに影写本が作成され、1907年ごろにほぼ完成した。上島有は言う。
東寺百合文書が全面公開される昭和五十五年(1980)までは、史料編纂所の影写本が東寺文書に関する唯一の原点であった。―上島有「寺宝としての東寺百合文書の伝来」(京都府立総合資料館編著『東寺百合文書にみる日本の中世』、京都新聞社、1998)
こうして戦後のある時期まで、数々の研究者たちが東大影写本を使って、東寺や東寺領荘園の研究をしていたのだった*2。
白河本東寺百合文書―東大影写本以前の近世写本たち
次に、網野論文集に登場する、「白河本八」と出典が表記されるB文書について見てみよう。これは、国立国会図書館所蔵「東寺百合古文書」(通称白河本)という写本の第8冊を参照していることを示している。これは寛政年間に松平定信によって作られた東寺文書の写本だ。この白河本以外にも、文化年間に伴信友によって作られた写本「東寺古文零聚」(小浜市立図書館蔵)など、東大影写本以前の近世写本はいくつかある。
これらの近世写本には、東大影写本や、教王護国寺文書などに入っていない文書がかなりの点数含まれていた。そのため、東百公開以前はこれらの近世写本もかなり頻繁に使われた。たとえば日本の荘園制理解の基礎を作った中田薫も、白河本に見える荘園史料を随所に用いている。寄進地系荘園の典型として教科書にいまだに載りつづけている鹿子木荘の関係史料も、中田は白河本を出典として議論している(『法制史論集』第2巻)。
(下の画像は東百「肥後国鹿子木庄条々事書案」の原物画像)
以上、まとめておこう。1970年代までの研究は、東大影写本がメインに用いられ、その穴を白河本などの近世写本によって補っていた。つまり、当時の史料(東百)へのアクセスは、松平定信や、国学者、修史局など19世紀の歴史学の成果を直接基盤としていたのだった。
府立総合資料館による公開、そして東寺百合WEBへ
1967年、網野の状況は大きく変わる。網野は名古屋大学に転職し、翌年大学の予算で東寺百合文書の東大影写本、およびそれに含まれる「東寺廿一口供僧方評定引付」原本の写真本を購入できることとなった。これによって網野は勤務先で東寺研究を続ける条件を整えたのだった。
しかし、まさに同じころ、東寺百合文書の状況も大きく変わる。1967年、京都府によって東寺百合文書が購入され、府立総合資料館によってその整理が始められる。この過程で、東大影写本やその他の写本でも紹介されていなかった数千点の文書が新たに存在することが分かった。
1967年、私が名古屋大学に赴任したこと、「百合文書」を京都府立総合資料館が引き取られることになると聞き、その現状を間接にうかがってみたところ何千通という新発見の文書が出現したことを知りました。しかも、その中に荘園関係の検注帳や散用状が多く含まれていると聞いて、その多さに愕然とするとともに、公開までの長い時間を考え、東寺の研究を正面からするのはあきらめざるを得ませんでした。やむなく方向転換し、荘園・公領の国別研究や非農業民の研究を始めたわけです。
史料アクセスの環境が変わったことで、網野の研究の方向性も変わってしまった。ただこの方向転換した路線の先には、「荘園公領制」論や、『無縁・公界・楽』につながる非農業民研究などの仕事がある。後年の網野のブレイクは、この一件なくしてはありえなかったかもしれない。
その後府立総合資料館は東百の整理を続け、『東寺百合文書目録』(全5巻)を編み、ついに1980年、東百を全面公開する。そして2014年、全点デジタル画像をwebで閲覧できる東寺百合文書WEBを公開。これらの軌跡は私が語るまでもない。
さて意外と顧られていないが、東百原物だけでなく、東大影写本や白河本など過去の写本も実はwebで閲覧することができる。というわけで、青年時代の網野になったつもりでこれらを見てみよう。Let's トーヒャク!
①A. (寛正3年?)11月30日代官乗琳房栄俊注進状(ハ13―20)
東大影写本を底本としていた、文書Aだ。東大影写本は、史料編纂所のデータベースから閲覧することができる。ただ、史料編纂所DBの各レコードはURLが固定してない(不便!)ので、以下のURLから実際にアクセスして調べてみてほしい。
・史料編纂所HPにアクセス
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/index-j.html
・バナーの中央「データベース検索」をクリック
・「データベース検索」の注意書が表示されるので、中央下部の「データベース選択画面 」をクリック
・編纂所のさまざまなデータベースが表示されたぞ。左上の「史料の所在」カテゴリから、「所蔵史料目録データベース 」を選択
・「所蔵史料目録データベース 」の キーワード検索の画面に移るが、キーワードのボックスは使わず、「項目検索」をクリック
・項目検索の画面が開く。上半分のプルダウン「書名・史料名」を選択、ボックスに”東寺百合文書”と入力。下半分のチェックボックスの「影写本」にチェック。
・検索!ちなみにエンターキーを押しても検索されない仕様(ナンデ!?!?)なので、「検索」ボタンを押す。
・検索結果のレコードのうち、1番目のもの(請求記号が「3071.62-2」)の右の「全表示」をクリック。
・レコードの詳細画面が表示される。
見れば分かるが、ズラズラと413点の項目が並んでいる。これが、明治期に作られた東百の影写本1冊1冊の書誌になっている。探している文書Aが収録されているのは、その227冊目だ。「227(ハ之部(2)(13-20)) 」という記載がある。その横の「イメージ」ボタンをクリックすれば、ついに網野たちが見た影写本の画像データを開くことができる。画像データの1点目は影写本の表紙だ。「ハ之部 自十三号至二十号 二」と注記されている。網野の「ハ13―20」という出典表記は、この冊に文書があるということを示していたのだ。ただ、この冊には33点文書が収録されており、網野の出典表記では33点のうちどれを指しているかは分からない。今からみるとずいぶんぼんやりとした出典の書き方だ。ちなみにこの冊の見開き換算で8番目の個所から、文書Aが影写されている。
ちなみに、東百WEBの原物画像データはこちら。
東大影写本では封紙を写してしまっていて隠れていたのだが、原物では切封(文書の端を切り込んで紙ひもにしたもの。これで文書を巻く)がきれいに残っていることが分かる。
② B. 寛正3年12月13日乗琳房栄俊補任状(?)(白河本八)
国会図書館所蔵の白河本を底本としていた文書Bを探しにいこう。国会図書館は所蔵の古典籍を順次デジタル化している。現在白河本も、国立国会図書館デジタルコレクションのなかで公開されている。
デジコレの書誌では『東寺百合文書』となっている白河本の、第八冊目にB文書はある。以下のリンクをひらいてほしい。一番目の画像の左ページから、二番目の画像の右ページにかけて写されているのが、B文書だ。
国立国会図書館デジタルコレクション - 東寺百合文書. [8]
国立国会図書館デジタルコレクション - 東寺百合文書. [8]
東百WEBのなかでこれに対応するのが、次の文書だ。くわしく言うと、ノ函/320/4/だ。
ふたつの文書の画像を比較してみよう。
ふたつを比べて分かる通り、原物は折紙形式で、白河本では端裏書(「太山太良庄 寛正三」という注記)を写し落としてしまっている。何よりもミステリーなのは、「この文書は書写が不完全と思われる」と網野が書く通り、白河本のB文書の文言は一見写し落としを想像するぐらい中途ハンパなのだが、B文書の原物もその中途ハンパな文言は変わらないことだ。
この文書ひとつで網野の論文の論旨が変わってしまうわけではない。しかし、この画像を目の前にしていると、網野はこの文書、見たかったんだろうなあ…と想像してしまう。青年時代の網野がどうしても見ることができなかったのものを、今はスマホで見れてしまう時代なのだ。
むすび
東寺百合WEBの登場により、東百へのアクセス環境は劇的に変わった。近いうち、東百を論文で引用するときは、東寺百合WEBのURLで表記するのが一般的なお作法になるかもしれない。そういう論文がWEBで公開されれば、そのURLをキーに論文間でリンクが可能になり、新たな研究が…というのも妄想ではない、かもしれない。史料へのアクセス環境は、研究をも左右する。だとすれば、本稿のように史料アクセスの歴史をまとめておくこともなにがしかの意味があると思う。
*1:これは網野没後に行われた対談でポロっと言われていることだが、東大史料編纂所員だった笠松宏至は、東大国史の教員である宝月圭吾(網野の指導教官)の頼み入りで、東百の原物(!)を網野に閲覧させた。ちなみにそれが笠松と網野との初対面だったらしい(笠松宏至・勝俣鎮夫「網野善彦さんの思い出」、『回想の網野善彦』、初出2006年)。当時、公にはなっていなかったが、大日本古文書編纂のため、東百の原物の一部が史料編纂所に貸し出されおり、史料編纂所員は、研究者で唯一東百の原物に触れうる機会を持っていた。網野は大学時代以来の縁がある宝月を通じ、おそらくは内々に、これを手に取ることを実現したのだろう。なお網野の論文や本などにこの事実は触れられていない。ただそこで見たのは大した量ではないと想像されるので、基本的には影写本を参照するのは変わらなかっただろう。
*2:なお、上島有の回想にもある通り、京大にも東寺百合文書の影写本があるのだが、実際に自分で使ったことがないので今回は触れられなかった。詳細はおいおい調べていきたい
あとがき19 模倣と妄補:江戸川乱歩著、宮崎駿カラー口絵『幽霊塔』(岩波書店、2015年)
宮崎駿が長編映画製作を引退するといってからはや2年。
三鷹の森ジブリ美術館で「幽霊塔へようこそ展」がはじまった(2015年5月30日(土)~2016年5月(予定))。
それにあわせ、江戸川乱歩『幽霊塔』に宮崎駿が描きおろした展示の解説パネルをカラー口絵として収録した新装版が出た。
16ページのカラー口絵は「ぼくの幽霊塔」と銘打っているが、「ぼく」(宮崎駿)にいたる『幽霊塔』の文化史としてとてもよい。
まとめると、
・アリス・M・ウィリアムスンが『灰色の女(A Woman in Grey)』を著す。
・黒岩涙香がこれを(無許可で)翻案し『幽霊塔』を書く。
・江戸川乱歩が涙香版をさらに翻案し『幽霊塔』を書く。
・宮崎駿が乱歩版に影響されて『カリオストロの城』を創る。
というように、『幽霊塔』はかわるがわる翻案され、19世紀から受け継がれてきたのだ。
ワシは子供の時に乱歩本で種をまかれた。妄想はふくらんで、画工になってからカリオストロの城をつくったんだ。
わしらは大きな流れの中にいるんだ。その流れは大洪水の中でもとぎれずに流れているのだ。
- 作者: A.M.ウィリアムスン,A.M. Williamson,中島賢二
- 出版社/メーカー: 論創社
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国立国会図書館デジタルコレクション - 幽霊塔 : 奇中奇談. 前
コリンズ「白衣の女」、コナン・ドイル「ホームズ」、ウィリアムスン、チェーホフ、漱石、涙香、ルブラン「ルパン」、乱歩の名前が浮かぶ大河を見下ろしながら、宮崎駿は述懐する。
自らがこの「模倣の連鎖」のなかにいたことを発見するのが、第一のおもしろさだ。
だがおもしろいのはこれだけではない。『幽霊塔』が各時代で模倣されるとき、実はいろいろな要素が勝手につけたされているのだ。これは書誌学でいう「妄補(モウホ)」に近い。『幽霊塔』の歴史は、「模倣」だけでなく、「妄補」の歴史でもあった。宮崎駿のカラー口絵でもそれが強く意識されている。
たとえば、
・『灰色の女』では、財宝のある部屋は天井と床のあいだの隠し部屋にあったが、
・涙香版ではそれが地下室となり、
・乱歩版ではさらにそれが地下の大迷宮となった。
・また最近のマンガ乃木坂太郎版でも、「地下の大迷宮」要素が受け継がれている。
本来の原作にはなかった地下室が妄補された結果、たいへん創造的な連鎖がうまれたのだ。
そして、宮崎駿はこの「妄補の連鎖」のなかにも名を連ねている。
乱歩版ではおもしろくないと、カラー口絵では自分なりの幽霊塔の構造を嬉々として描き、「映画にするならこの位の方がイイと思う」と別の時計もつけたして、ついには「ボクならこうします」と冒頭シーンの絵コンテまで切ってしまう。コマの外で「えいがはつくりません」と書いているが、よくいうぜジジイ…!
妄想じゃ
と『雑想ノート』以来の遁辞をそえているが、みな期待しているのはこの「妄想」なのだ。この「妄想」を積みかさねて形にしたものを、もう一度みせてほしいと思う。
あとがき18 絶対泣ける!?追善供養としてのあとがき:辻善之助『日本仏教史之研究』等
画像は1934年頃、東京帝大史料編纂所の職にあったころの辻善之助検印。花押状の印を用いている。出典
泣ける映画の王道テーマは、やっぱり「死」だろう。
家族、恋人、師匠、別離、余命、病気持ちなどバリエーションは豊富だ。
本のあとがきでも、追悼など「死」について触れたものにはついほろりとしてしまう。
しかし、この主客が逆転しているものがある。本文が従、追悼が主。今回は、本文とは全然関係ない人物の追悼がメインになってしまっている著作を紹介しよう。
まずは竹内理三(1907-1997)。この人の偉大さについて語るのは次の機会に大事にとっておくとして、彼が1934年に出した『日本上代寺院経済史の研究』の序を見よう。
序
本書は、僅か一年と三ヶ月の生を以て、独り此の世を去った児理男を記念するため、昭和七年三月より後、同八年六月に至るまでの間に、或いは稿を成し、或いは発表したものに、多大の修正と補足とを加えて編したものである。従って、全編互に脈絡なきに似たるも、猶、一貫した目的をもってした。
(…)
幸いに、大方の叱正と鞭撻を得て、幾分なりとも学界に貢献するよすがともならば、独り予のみならず、児理男のためにも、こよなき喜である。
昭和八年十一月
東京牛込にて 竹内理三―竹内理三『日本上代寺院経済史の研究』(大岡山書店、1934年)
竹内理三は20代のころ、児を幼くして失ってしまったらしい。その児がこの世にあった期間の論文を集めて一書としたのだという。
重厚な本編に目をとられてしまい、この控え目な序は読み飛ばしてしまうかもしれない。嬰児の死は本編と直接関係ないが、序における抑制された筆致から伝わる彼の悲しみ、無念さには心打たれる。
しかし、逝去した家族のための出版は、竹内理三の独創ではない。彼の恩師にあたる、辻善之助(1877-1955;以下、辻善と愛称)の著作を見てみよう。1919年刊の『日本仏教史之研究』を開くと、明らかに辻善ではない翁の肖像が目に飛び込んでくる。
冒頭の「例言」を見よう。
一、本書は、本年三月二日、先考三周忌を迎ふるに当り、記念の為め、予が日本仏教史に関する研究の旧稿を集めたるものとす。収むる所の篇数すべて十八、聊先人の信仰に因みて、弥陀大悲の願にたぐへつるのみ。
一、本書は先考の忌日、三月二日を以て出版せんとして、其準備をつとめたりしに、印刷の都合によりて、遺憾ながら、その期を延ばさざるに至れり。―辻善之助『日本仏教史之研究』(金港堂書籍、1919年)
この本が、辻善の父の三周忌のため編まれたことが掲げられている。冒頭のは、遺影だったのだ。信心深い父のため、弥陀の本願(第十八願)に引っかけた章構成にしたらしい。なお本文は仏教史の手堅い論文集であり、辻善父とはとくに関係ない。
これには前例がある。少しさかのぼるが、1917年に辻善が出版した『海外交通史話』。これは国会図書館のデジコレで公開されてるので、ぜひ現物をいっしょに見てほしい。
最初のページにはこう書かれている。
五歳にして世を早うせし二女洋子〔ナミコ〕の名に因みてこの冊子を編し以て彼女の記念とし彼女を愛し其死に厚き同情を寄せられし方々の前に之を捧ぐ
そして、次に掲げられるのは、無垢なる少女の遺影。
はしがきには、この愛娘が百日咳から治った直後胃腸カタルと腹膜炎を併発し、急逝した様子が克明に描かれている。
それに続けて、辻善はこう述べる。
(…)世にあること僅か四年に四ヶ月を余すのみなりし彼女の墓は、家内親戚の外何人か之を顧るべき。思えばはかないものである。是に於て考えついたは彼女の為めの記念出版である。彼女の名に因んで海洋関係の史篇を選み、国民の海外発展に関する史話を集めよう。これこそはよき墓標ともなろう。世間の人にもひろく知られて彼女がこの世に存在の記念ともなろう。父母一族の為めには美しい思出ともなろう。かくして短かりし彼女の生命も幾分か生きのびたに当ろう。かように考えて、父母は自ら心に多少の慰安を得た。やがて旧稿を捜り新編を綴て彼女の命日なる二十六の数を得た。乃ち海外交通史話と名づけて、ここに一周忌を以て之を発行するの運びとなった。
―辻善之助『海外交通史話』(東亜堂書房、1917年)
本文と関係ないなんて言ってはいけない。これは彼女の墓なのだ。
墓に石を用いるのはなぜか?それは、石は百年の風雪に耐えるからである。それならば、百年遺る学問的業績も、墓足り得る。この本を繙くことは、墓参と同じだ。
学問的にはこれ以上ない成功を収めた辻善も、家庭生活ではさらなる不幸に見舞われる。1931年に出版した『日本仏教史之研究続編』。なんとこれも同じ性格の本だ。冒頭には辻善の面影を宿す青年の遺影が掲げられている。その次に、「善郎に告ぐる詞」(もはや「序」とか「はしがき」ではない)が3ページにわたって綴られている。
善郎、お前の為めに、かような本を作り、かような文を書こうとは、誰か思いかけようや。(…)
以下、辻善の長男・善郎(東京帝大経済学部学生)が若くして召された経緯が纏綿たる文章で述べられる。辻善迫真の描写は、円熟さえ感じさせる。
(…)お前の死は現前に之を見た。而かも尚確かと心につかむことができない。お前の室の隣りにいつものように寝る。お前の寝息が聞こえる。お前の室には引伸写真の肖像がかかげられた。いそいそとして学校へ出かける姿が見える。お前の室の机、椅子、本箱その他の調度はいつまでもそのままにある。今に学校から帰って来るかと思われる。
ありし日の室のしつらひそのまゝにいつか帰るとまつこヽちして
(…)
ここにお前の記念として、この書を編し、今や殆どその校正の業を了えんとするばかりになった。輯むる所、旧稿新編併せて二十三、お前の年齢に因んで、聊か以て自ら慰めとする。昭和五年大晦の夜 辻善之助
―辻善之助『日本仏教史之研究続編』(金港堂書籍、1931年)
これは想像だが…
刷り上がったこの本を、辻善は仏壇に備えたかもしれない。
そして、葬式に集まった人たちにこの本を配ったかもしれない。
そして、この3冊を部屋に並べて、寂しい感慨に耽り何事かひとりごちたかもしれない。
あるいは、国史学を学ぶ青年が何も知らずに本屋でこれを買ったかもしれない。
そして、家でページを開いたら遺影と目が合ってギョッとしたかもしれない。
そして、この3冊を部屋に並べて、ややばつの悪い思いをしながら、「まるで不幸の抱き合わせだ」とひとりごちたかもしれない。
さて、このような身内追悼論文集は、辻・竹内子弟だけのものなのだろうか。先日自分は第三の実例を見つけた。それも、辻善を上回る代物だ。著者は森本角蔵(1883-1953)。東京高等師範学校の教授だったらしい。
彼には『日本年号大観』(目黒書店, 1933年)という主著がある。歴代の年号の出典や改元経緯などの史料を博捜した手堅い労作だ。それは1983年に復刊されている(講談社より)ことからもわかる*1。
しかし。地味なテーマにも関わらず、表紙を開けば、「序」の熱気に圧倒される。
(…)この年号という文化の脈搏を透して見たところにも、国体の優れていることや、君臣の関係の美しいことがありありと窺われる。これ等の具体的の事実によって、比類のない我が国の歴史的価値を知り、我等の祖先が、皇室を中心として、平和のうちに可なり強い創造力と同化力とをもって高い文化を築きつつ生活してきたことを自覚して、物質万能の思想に額づくことなく、空理空論に雷同することなく、もののあはれを解する平和の愛好者であると同時に、崇高なる正義の擁護者として、勤倹事にいそしみ、君国のために一死を惜しまぬ伝統的精神を中外に宣揚し、所謂近代の物質文明に中毒して麻痺の状態にある世界人類の文化の大動脈に溌剌たる日本魂の血精を注射して、文化は東方よりの語を如実にせんとするいとなみの末班に参するを得んことは著者の中心の願である。
―森本角蔵『日本年号大観』 (目黒書店、1933年)
日中戦争も起こってないこの時期にこれだけ書いているのは、なかなか意識の高い人だったのではないだろうか。このように国体の宣揚というおおやけごとに如何に尽力できるかを力説したのち、一転湿り気のある文章に急直下していく。せっかくなので長文引用しよう。
顧みればこの研究に手をそめてから年を閲すること八年。大正十五年十二月二十五日には畏くも大正天皇崩御ましまし、万民悲嘆のうちに、昭和の御世と改り、世の中のことわざしげきうちには、数ならぬわが身の上にもいろいろのことが起こったが、中にも昭和五年十月二十七日、長女正代が病によって世を去ったことは、私個人にとって最も重大なことであった。死に先だって正代が別離のことばを述べた時に、私は「万一お前が世を去るようなことがあったならば、何事かお前のために記念の仕事を遺してやる。」と愚なる親心を披歴した。正代は「それは嬉しいけれども。」といっただけであったが、それ以来、私はこの研究をかれの記念に代えようと心に定め、一層の努力を払わねばならぬという心に満ちてはいたが、徒に月日のみが流れてしまった。ようやくにしていまこの書の世に出でんとするに当たっても、なお心中一種の不安を懐くものである。よき男の子の生れよかしと、予ては高い希望をかけていても、産期の近づくにつれて、不具でさえなければよいが、無事に生れさえすればよいがと思うようななやましさと、正代に対する約束がこれで果たせるかどうかという恐とである。正代の病中、その苦しそうなさまを見て、我が身を削られるような思いに平静を破られ、心にもなく、「今日は大分よさそうである。」などといって慰めることが度々あった。すると正代は苦しいうちにも微笑みながら「またおとうさまの自己満足が初った。病気は別に変りはありませんよ。大丈夫ですよ。」などとからかい半分に、私を平静に導こうと努めるのであった。私はその時の心持を省みると、正代の病気を慰めるというのは、つまり私自身の憂のはけ口を見つけることで、自己満足の衝動に外ならぬものであった。正代にとっては自分自身の病苦の外に、私が心配していることを可なり苦にしていた。かれが極めて平静に死に直面していたのも、私を平静に導くために努力した結果ではなかったかとさえ思われてならない。この記念の著作を見て、正代がどこからか「これもまたおとうさまの自己満足の所産だ。」といってからかいそうな気がする。からかってくれたらもとより満足である。
さらにこう続く。
自己満足の上の自己満足の願であるが、この書の巻頭に正代の写真と、母の日記の中に散見するかれの幼児に関する記事と、私の記したかれの病中の記録とを載せることを恕していただきたい。
ページを繰ろう。そこにあるのは、著者の森本正代の遺影だ。
さらにページを繰る。
正代の幼時(母の日記の中より)
大正元年八月四日 午前七時三十分出生、正代と命名(追記)
十一月九日 九十八日目、よく笑い、アッコンアッコンとお話しするようになった。
十一月十日 正代午前中はおとなしかったが、午後はよく泣いた。(…)
なんと正代氏の生誕から回顧されているのだ。この幼時の記録は、8ページに渡る。最後には「正代年譜」まで附いてくる。
そして次に続くのが、著者による「正代の病中(父の手記より)」だ。これはもう圧倒的なので、図書館等でぜひ目を通してほしい。小さな活字で10ページに渡る大作だ。病を得て苦しみきった正代氏が、透き通った神的なものになっていく過程が著者の目を通じて描かれており、娘と父の生Leben が表現されつくされている。
(…)私が正代の左の手を握ってやっていると、正代は横身になって、握っている私の手を自分の右手で掻いていたが、やがて両手を私の頸にかけ、「こんな悲しいことはないわ。」「こんな悲しいことはないわ。」といって泣き出した。私が夢を見たのかといっても、「あまりに悲しいことでいわれない」という。やがてまた「神さま、あまりひどいのです。神さま、あまりひどいのです。私を身代りにして下さい。私を身代りにしてください。」それが終ると大きなほがらかな声で、次のような歌をうたった。
うつくしいうつくしい車が見える。 うつくしい車が見える。
私のすきなお花でかざった車が見える。誰と一しょに乗ろう。きれいなきれいなお馬車。誰も乗らない。ただ一人乗る。うれしいな。きれいなきれいなお馬車。(…)
以前ブログ(あとがき6 )で述べたとおり、小熊英二は「紙面は著者だけのものではなく、編集・校正・装幀・営業・印刷製本など多くの人びとの労力と資源をついやすことで読者に提供される公共の場である。」と書いた、彼らにそんなものは関係ない。紙面は、著者の私物なのだ。
退官や還暦、米寿を記念した論文集などはまだなんとか存在しているが、今回紹介したような家族追悼論文集は廃れてしまった文化のようだ。類例はまだまだたくさんあるだろうし、それを集めれば淵源も分かるかもしれない。広く江湖のご教示を俟つ次第だ。
*1:この復刻にあたって解説を寄せているのは、偶然にも竹内理三であり、このように述べている。「ちなみに『日本年号大観』は、長女正代氏の急逝されたのを悲しんで、記念としてこれを完成されたという。筆者も若きころ、幼くして身まかった長男のために、小著をものしたことがある。もとより本書に比すべくもないが、今年はその五十回忌に当る法要を済ませた。本書の巻頭にのせられた御両親の記録を読んで、哀切身にせまるものがある。」
あとがき17 歴史学は世界を良くするか:手嶋泰伸『日本海軍と政治』(講談社、2015年)
歴史と歴史学は、似て非なるものだ。少なくとも、私はそう信じている。歴史上の出来事や人物について、気の遠くなるほどの膨大な知識を持つことと、歴史学をするということは、全く別の話だ。歴史学の研究者とは、過去の出来事や人物について、単純にたくさんのことを知っているだけの人なのではなく、歴史を使ってさまざまな思考ができる人のことであると思っている。もちろん、思考をする前提として、歴史的な事実が厳密かつ正確に確定されている必要があり、その基本的な手続きは絶対におろそかにされてはならない。歴史学の研究とは、あくまでも実証的であるべきだ。だが、歴史学が単に新たな事実を発見することだけに目的を置いたものではなく、発見された歴史的事実を用いて思考をし、現代社会にとって意味ある知を生み出すことを使命とする専門技術であるとするならば、その知を社会に少しでも還元していくことで、自らの存在意義を確認したいという思いも、恥ずかしながら持っている。
引用したのは、手嶋泰伸『日本海軍と政治』の「あとがき」の冒頭だ。
本書は、アジア・太平洋戦争に関する海軍善玉・悪玉論争を超えた視点から、官僚組織としての海軍の逆機能を論じたものであり、官僚制通有の教訓が得られる良書だ。
「あとがき」の末尾はこう結ばれている。恥ずかしながら、自分も同じ気持ちを持っている。
海軍について、非難から思考へと関心が移ることで、世界はもう少し良くなりはしないかと、青臭く、大それた淡い期待を捨てきれずにいる。お笑いください。