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あとがき愛読党ブログ

本文まで読んでいることを保証するものではありません

あとがき18 絶対泣ける!?追善供養としてのあとがき:辻善之助『日本仏教史之研究』等

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画像は1934年頃、東京帝大史料編纂所の職にあったころの辻善之助検印。花押状の印を用いている。出典 

 

 泣ける映画の王道テーマは、やっぱり「死」だろう。
 家族、恋人、師匠、別離、余命、病気持ちなどバリエーションは豊富だ。
 本のあとがきでも、追悼など「死」について触れたものにはついほろりとしてしまう。

 しかし、この主客が逆転しているものがある。本文が従、追悼が主。今回は、本文とは全然関係ない人物の追悼がメインになってしまっている著作を紹介しよう。

 

 まずは竹内理三(1907-1997)。この人の偉大さについて語るのは次の機会に大事にとっておくとして、彼が1934年に出した『日本上代寺院経済史の研究』の序を見よう。


 本書は、僅か一年と三ヶ月の生を以て、独り此の世を去った児理男を記念するため、昭和七年三月より後、同八年六月に至るまでの間に、或いは稿を成し、或いは発表したものに、多大の修正と補足とを加えて編したものである。従って、全編互に脈絡なきに似たるも、猶、一貫した目的をもってした。
(…)
幸いに、大方の叱正と鞭撻を得て、幾分なりとも学界に貢献するよすがともならば、独り予のみならず、児理男のためにも、こよなき喜である。
昭和八年十一月  
東京牛込にて 竹内理三

―竹内理三『日本上代寺院経済史の研究』(大岡山書店、1934年)

 竹内理三は20代のころ、児を幼くして失ってしまったらしい。その児がこの世にあった期間の論文を集めて一書としたのだという。

 重厚な本編に目をとられてしまい、この控え目な序は読み飛ばしてしまうかもしれない。嬰児の死は本編と直接関係ないが、序における抑制された筆致から伝わる彼の悲しみ、無念さには心打たれる。

 

 しかし、逝去した家族のための出版は、竹内理三の独創ではない。彼の恩師にあたる、辻善之助(1877-1955;以下、辻善と愛称)の著作を見てみよう。1919年刊の『日本仏教史之研究』を開くと、明らかに辻善ではない翁の肖像が目に飛び込んでくる。

冒頭の「例言」を見よう。

一、本書は、本年三月二日、先考三周忌を迎ふるに当り、記念の為め、予が日本仏教史に関する研究の旧稿を集めたるものとす。収むる所の篇数すべて十八、聊先人の信仰に因みて、弥陀大悲の願にたぐへつるのみ。
 一、本書は先考の忌日、三月二日を以て出版せんとして、其準備をつとめたりしに、印刷の都合によりて、遺憾ながら、その期を延ばさざるに至れり。

―辻善之助『日本仏教史之研究』(金港堂書籍、1919年)

 この本が、辻善の父の三周忌のため編まれたことが掲げられている。冒頭のは、遺影だったのだ。信心深い父のため、弥陀の本願(第十八願)に引っかけた章構成にしたらしい。なお本文は仏教史の手堅い論文集であり、辻善父とはとくに関係ない。

 これには前例がある。少しさかのぼるが、1917年に辻善が出版した『海外交通史話』。これは国会図書館のデジコレで公開されてるので、ぜひ現物をいっしょに見てほしい。

国立国会図書館デジタルコレクション - 海外交通史話

 最初のページにはこう書かれている。

五歳にして世を早うせし二女洋子〔ナミコ〕の名に因みてこの冊子を編し以て彼女の記念とし彼女を愛し其死に厚き同情を寄せられし方々の前に之を捧ぐ

 そして、次に掲げられるのは、無垢なる少女の遺影。

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 はしがきには、この愛娘が百日咳から治った直後胃腸カタルと腹膜炎を併発し、急逝した様子が克明に描かれている。

 それに続けて、辻善はこう述べる。

(…)世にあること僅か四年に四ヶ月を余すのみなりし彼女の墓は、家内親戚の外何人か之を顧るべき。思えばはかないものである。是に於て考えついたは彼女の為めの記念出版である。彼女の名に因んで海洋関係の史篇を選み、国民の海外発展に関する史話を集めよう。これこそはよき墓標ともなろう。世間の人にもひろく知られて彼女がこの世に存在の記念ともなろう。父母一族の為めには美しい思出ともなろう。かくして短かりし彼女の生命も幾分か生きのびたに当ろう。かように考えて、父母は自ら心に多少の慰安を得た。やがて旧稿を捜り新編を綴て彼女の命日なる二十六の数を得た。乃ち海外交通史話と名づけて、ここに一周忌を以て之を発行するの運びとなった。

―辻善之助『海外交通史話』(東亜堂書房、1917年)

 本文と関係ないなんて言ってはいけない。これは彼女の墓なのだ。

 墓に石を用いるのはなぜか?それは、石は百年の風雪に耐えるからである。それならば、百年遺る学問的業績も、墓足り得る。この本を繙くことは、墓参と同じだ。

 学問的にはこれ以上ない成功を収めた辻善も、家庭生活ではさらなる不幸に見舞われる。1931年に出版した『日本仏教史之研究続編』。なんとこれも同じ性格の本だ。冒頭には辻善の面影を宿す青年の遺影が掲げられている。その次に、「善郎に告ぐる詞」(もはや「序」とか「はしがき」ではない)が3ページにわたって綴られている。

善郎、お前の為めに、かような本を作り、かような文を書こうとは、誰か思いかけようや。(…)

 以下、辻善の長男・善郎(東京帝大経済学部学生)が若くして召された経緯が纏綿たる文章で述べられる。辻善迫真の描写は、円熟さえ感じさせる。

(…)お前の死は現前に之を見た。而かも尚確かと心につかむことができない。お前の室の隣りにいつものように寝る。お前の寝息が聞こえる。お前の室には引伸写真の肖像がかかげられた。いそいそとして学校へ出かける姿が見える。お前の室の机、椅子、本箱その他の調度はいつまでもそのままにある。今に学校から帰って来るかと思われる。
ありし日の室のしつらひそのまゝにいつか帰るとまつこヽちして
(…)
ここにお前の記念として、この書を編し、今や殆どその校正の業を了えんとするばかりになった。輯むる所、旧稿新編併せて二十三、お前の年齢に因んで、聊か以て自ら慰めとする。

昭和五年大晦の夜   辻善之助

―辻善之助『日本仏教史之研究続編』(金港堂書籍、1931年)

 これは想像だが…
 刷り上がったこの本を、辻善は仏壇に備えたかもしれない。
 そして、葬式に集まった人たちにこの本を配ったかもしれない。
 そして、この3冊を部屋に並べて、寂しい感慨に耽り何事かひとりごちたかもしれない。
 あるいは、国史学を学ぶ青年が何も知らずに本屋でこれを買ったかもしれない。
 そして、家でページを開いたら遺影と目が合ってギョッとしたかもしれない。
 そして、この3冊を部屋に並べて、ややばつの悪い思いをしながら、「まるで不幸の抱き合わせだ」とひとりごちたかもしれない。

 

  さて、このような身内追悼論文集は、辻・竹内子弟だけのものなのだろうか。先日自分は第三の実例を見つけた。それも、辻善を上回る代物だ。著者は森本角蔵(1883-1953)。東京高等師範学校の教授だったらしい。

 彼には『日本年号大観』(目黒書店, 1933年)という主著がある。歴代の年号の出典や改元経緯などの史料を博捜した手堅い労作だ。それは1983年に復刊されている(講談社より)ことからもわかる*1

  しかし。地味なテーマにも関わらず、表紙を開けば、「序」の熱気に圧倒される。

(…)この年号という文化の脈搏を透して見たところにも、国体の優れていることや、君臣の関係の美しいことがありありと窺われる。これ等の具体的の事実によって、比類のない我が国の歴史的価値を知り、我等の祖先が、皇室を中心として、平和のうちに可なり強い創造力と同化力とをもって高い文化を築きつつ生活してきたことを自覚して、物質万能の思想に額づくことなく、空理空論に雷同することなく、もののあはれを解する平和の愛好者であると同時に、崇高なる正義の擁護者として、勤倹事にいそしみ、君国のために一死を惜しまぬ伝統的精神を中外に宣揚し、所謂近代の物質文明に中毒して麻痺の状態にある世界人類の文化の大動脈に溌剌たる日本魂の血精を注射して、文化は東方よりの語を如実にせんとするいとなみの末班に参するを得んことは著者の中心の願である。

―森本角蔵『日本年号大観』 (目黒書店、1933年)

  日中戦争も起こってないこの時期にこれだけ書いているのは、なかなか意識の高い人だったのではないだろうか。このように国体の宣揚というおおやけごとに如何に尽力できるかを力説したのち、一転湿り気のある文章に急直下していく。せっかくなので長文引用しよう。

 顧みればこの研究に手をそめてから年を閲すること八年。大正十五年十二月二十五日には畏くも大正天皇崩御ましまし、万民悲嘆のうちに、昭和の御世と改り、世の中のことわざしげきうちには、数ならぬわが身の上にもいろいろのことが起こったが、中にも昭和五年十月二十七日、長女正代が病によって世を去ったことは、私個人にとって最も重大なことであった。死に先だって正代が別離のことばを述べた時に、私は「万一お前が世を去るようなことがあったならば、何事かお前のために記念の仕事を遺してやる。」と愚なる親心を披歴した。正代は「それは嬉しいけれども。」といっただけであったが、それ以来、私はこの研究をかれの記念に代えようと心に定め、一層の努力を払わねばならぬという心に満ちてはいたが、徒に月日のみが流れてしまった。ようやくにしていまこの書の世に出でんとするに当たっても、なお心中一種の不安を懐くものである。よき男の子の生れよかしと、予ては高い希望をかけていても、産期の近づくにつれて、不具でさえなければよいが、無事に生れさえすればよいがと思うようななやましさと、正代に対する約束がこれで果たせるかどうかという恐とである。正代の病中、その苦しそうなさまを見て、我が身を削られるような思いに平静を破られ、心にもなく、「今日は大分よさそうである。」などといって慰めることが度々あった。すると正代は苦しいうちにも微笑みながら「またおとうさまの自己満足が初った。病気は別に変りはありませんよ。大丈夫ですよ。」などとからかい半分に、私を平静に導こうと努めるのであった。私はその時の心持を省みると、正代の病気を慰めるというのは、つまり私自身の憂のはけ口を見つけることで、自己満足の衝動に外ならぬものであった。正代にとっては自分自身の病苦の外に、私が心配していることを可なり苦にしていた。かれが極めて平静に死に直面していたのも、私を平静に導くために努力した結果ではなかったかとさえ思われてならない。この記念の著作を見て、正代がどこからか「これもまたおとうさまの自己満足の所産だ。」といってからかいそうな気がする。からかってくれたらもとより満足である。

  さらにこう続く。

 自己満足の上の自己満足の願であるが、この書の巻頭に正代の写真と、母の日記の中に散見するかれの幼児に関する記事と、私の記したかれの病中の記録とを載せることを恕していただきたい。

  ページを繰ろう。そこにあるのは、著者の森本正代の遺影だ。

 さらにページを繰る。

正代の幼時(母の日記の中より)
大正元年八月四日 午前七時三十分出生、正代と命名(追記)
十一月九日 九十八日目、よく笑い、アッコンアッコンとお話しするようになった。
十一月十日 正代午前中はおとなしかったが、午後はよく泣いた。(…)

 なんと正代氏の生誕から回顧されているのだ。この幼時の記録は、8ページに渡る。最後には「正代年譜」まで附いてくる。

 そして次に続くのが、著者による「正代の病中(父の手記より)」だ。これはもう圧倒的なので、図書館等でぜひ目を通してほしい。小さな活字で10ページに渡る大作だ。病を得て苦しみきった正代氏が、透き通った神的なものになっていく過程が著者の目を通じて描かれており、娘と父の生Leben が表現されつくされている。

(…)私が正代の左の手を握ってやっていると、正代は横身になって、握っている私の手を自分の右手で掻いていたが、やがて両手を私の頸にかけ、「こんな悲しいことはないわ。」「こんな悲しいことはないわ。」といって泣き出した。私が夢を見たのかといっても、「あまりに悲しいことでいわれない」という。やがてまた「神さま、あまりひどいのです。神さま、あまりひどいのです。私を身代りにして下さい。私を身代りにしてください。」それが終ると大きなほがらかな声で、次のような歌をうたった。
 うつくしいうつくしい車が見える。 うつくしい車が見える。
 私のすきなお花でかざった車が見える。誰と一しょに乗ろう。きれいなきれいなお馬車。誰も乗らない。ただ一人乗る。うれしいな。きれいなきれいなお馬車。

(…)

 以前ブログ(あとがき6 )で述べたとおり、小熊英二は「紙面は著者だけのものではなく、編集・校正・装幀・営業・印刷製本など多くの人びとの労力と資源をついやすことで読者に提供される公共の場である。」と書いた、彼らにそんなものは関係ない。紙面は、著者の私物なのだ。

 退官や還暦、米寿を記念した論文集などはまだなんとか存在しているが、今回紹介したような家族追悼論文集は廃れてしまった文化のようだ。類例はまだまだたくさんあるだろうし、それを集めれば淵源も分かるかもしれない。広く江湖のご教示を俟つ次第だ。

*1:この復刻にあたって解説を寄せているのは、偶然にも竹内理三であり、このように述べている。「ちなみに『日本年号大観』は、長女正代氏の急逝されたのを悲しんで、記念としてこれを完成されたという。筆者も若きころ、幼くして身まかった長男のために、小著をものしたことがある。もとより本書に比すべくもないが、今年はその五十回忌に当る法要を済ませた。本書の巻頭にのせられた御両親の記録を読んで、哀切身にせまるものがある。」