あとがき24 憲法上諭誤記事件を検証する:大日本帝国憲法(1889)
なんと今回は憲法の話だ。もちろんブログのポリシー通り、本文には一切触れない。
1889年(明治22)2月11日、大日本帝国憲法が発布された。その華やかな式典のウラで、3つの珍事件が起きたことが伝えられている。
・伊藤博文枢密院議長が、式典で使う憲法原本を官邸に忘れてきた。
・森有礼文部大臣が式典に来ないと思いきや、なんとその朝に暗殺されていた。
・憲法の上諭に日付の誤記があった。
こんなドタバタな幕開けでも、憲政はここから130年間続いてきたのだから、世の中なんとかなるものだ。
しかしこの3つのうちでも、憲法上諭誤記事件は、多少あとを引いたためか、諸書でよく取り上げられる。諸書の記述をまとめると事件の顛末は以下のようになる。
①憲法上諭(前文とされる場合もあるが正確ではない)のうち、「明治十四年十月十二日ノ詔命ヲ履踐シ」とすべき部分を、「十月十四日」と誤記した。
②式典で天皇が誤記をそのまま朗読してしまった。
③官報もその誤記を残したまま発行されてしまった。
④起草者の井上毅は責任を取り進退伺を出したが、お咎めなしとなった。
ちなみに上諭とは何か。六法などに載る大日本帝国憲法はたいてい、告文、憲法発布勅語、上諭、憲法本文の四つのパートに分かれている。上諭は、憲法本文を天皇が裁可したことを示す文章で、御名御璽と内閣大臣の副署がなされている。憲法原文はここを見てほしい。
①はつまり、帝国憲法制定のきっかけとなった国会開設の勅諭(1881)の日付を間違えたのである。ありがちな凡ミス。しかも一世一代の場で、かの正確無比な井上毅がやらかしてしまうのだから、ウラ取りと確認がいかに大切なことかと実感する。
これには井上毅も非常な責任を感じたらしく、「死を以て申訳するの外なくと既に決する所」(『明治大正政界側面史』)だったらしい。「大日本帝国憲法上諭文中に、十四年十月十二日と有之候処、十月十四日と誤写仕、其侭御発布相成候段、全く私一人の不注意の責無所遁*1」という同年2月13日付の井上の進退伺が残されており、また同日付の元田永孚宛の書簡で「願わくは厳重之処罰を受け候事に有之度奉冀候」と書いているという(陸奥小太郎「憲法上諭文の誤謬と井上毅の進退伺」、『明治文化』9(11)、1936)。これらは④を裏付ける事実だ。
また日付が誤記のままの官報(1889年2月11日付官報号外)も残っており、訂正記事(1889年2月14日付官報「正誤」)も残っている。これは③の裏付けとなる。
さてここで、「ウラ取りは大事」の教訓にのっとり、憲法原本で誤記はどうなっているのか見てみたい。
憲法の原本、つまり御名御璽と大臣副署がなされた御署名原本は国立公文書館のデジタルアーカイブで見ることができる。ところが驚くなかれ、原本の上諭に誤記がないのだ。正しく「十月十二日」となっている。修正の痕跡もまったくない。高精細画像が提供されているのでよーくみてほしい。
発布式当日朝に横死した森有礼が上諭に署名しているから、この原本が発布式の事前に作られてたことは確実。ミステリーだ。
ありうる可能性を挙げてみよう。
・発布式ののち、誤記のある紙だけ差し替えた。
・天皇が読み上げたのはこの原本ではなく、別の原稿であり、そこに誤記があった。
・天皇は誤記を読み上げておらず、実際は官報のみの誤りだった。
結論からいうと、第三の説、つまり、天皇が誤記をそのまま朗読してしまった(②)というのがガセではないか、と私は思う。それでは、諸書で②がどう書かれているのかくわしく見てみよう。
●瀧井一博『文明史のなかの明治憲法』(講談社選書メチエ)pp148-pp149
発布式当日の「三つの椿事」に触れている。
はっきりと、天皇が誤記を朗読したと書いてある。これ以下の詳細(井上毅の進退伺など)は、私が冒頭で述べたとおりの記述だ。
「三つの椿事」について瀧井本が典拠にしている文献のひとつが憲法学者大石眞が著した次の文献である。
●大石眞『日本憲法史の周辺』(成文堂、1995)pp244-pp245
いずれにせよ、記録に照会せず、記憶に頼った記述を鵜呑みにしたため(…)そのまま天皇が朗読し、官報号外の載せるところになってしまったわけである。
なお大石眞は別の文献で以下のようにも書いている。
●大石眞『日本憲法史 第2版』(有斐閣、2005)pp237
「告文」には明治14年の詔勅は登場しないので、これは「上諭」の誤り。ただ、誤記を天皇が朗読したという認識は一貫している。
次に、ちょっとした読物になるが、
●近藤金廣「憲法誤記事件始末」(同『紙幣寮夜話』、原書房、1977)
天皇が誤記を朗読するさまが、どこかで見てきたのかというぐらい、おもしろおかしく書かれている。
「十月十四日の詔命を履践し……」
力強い天皇のお声が、一語々々はっきりと耳の底によみがえってくる。
「しまった。」
井上はつぶやいたが後の祭だった。
この近藤金廣が編集した
●大蔵省印刷局編集『大蔵省印刷局百年史 第2巻』(1972)pp544
でも、同じ記述が見える。
それは慎重の上にも慎重を期したはずの憲法前文に思いもよらぬ誤りがあり、それがそのまま官報号外に掲載されてしまったからである。(…)しかも憲法発布の大典で、明治天皇がそのままこれを朗読してしまわれたから、事は一層めんどうになった。
これら近藤金廣が依拠しているのが
●尾佐竹猛『日本憲政史大綱 下』(日本評論社、1939)pp798-801
だ。
しかしこれは尾佐竹猛のオリジナルな話ではない。尾佐竹はふたつの文献を典拠にしている。ひとつが上述の陸奥小太郎「憲法上諭文の誤謬と井上毅の進退伺」(1936)。そしてもうひとつが下記の林田本だ。
●林田亀太郎『明治大正政界側面史 上巻』(大日本雄弁会、1926)pp204-pp205
瀧井本、佐藤本、尾佐竹本、すべてこれを参照している。おそらく憲法発布式の三椿事をまとめて書いたものの元祖なのだろう。
事実から云えば只僅に二日の差、至って軽微の様だが、事態から云えば重大である。何となれば天皇に虚偽の時日を朗読させ申したからである。
ちなみに、これらの文献を簡潔にまとめたものとして
●長田博「帝国憲法の前文の誤記について」(『北の丸』第7号、1976)
があり、私もかなり参照したが、誤記を天皇が朗読したかどうかにはあまり関心が注がれておらず、旧説を踏襲しているように読める。
ともあれ、天皇が誤記をそのまま朗読してしまった(②)という言説の源流にまで一応たどりつくことができた。それでは実際に、1889年の憲法発布式でなにがあったのかを探ってみよう。
当時の官報(1889年2月12日付官報)には簡潔な式次第が書かれている。
この「勅語あり」のなかに上諭が含まれるかどうかがカギになりそうだ。
次に、伊藤博文の手元に集まった憲法関係の資料を編纂した『憲法資料』を見てみよう。そこに、当日の式次第が掲載されている。
次、内大臣〔三条実美〕筥を開け、詔書を上る。
次、詔書を宣読し給う。畢て、
此間祝砲執行
詔書並びに憲法典範を総理大臣に下付し給う。総理大臣〔黒田清隆〕之を奉じて内閣書記官長をして奉持せしめ、更に進んで奉答す。畢て、
入御
議員退出
三条実美(詔書、憲法、典範を入れた箱を捧げ持っていた)が渡し天皇が読み上げた「詔書」は、明らかに「憲法」「典範(皇室典範)」と書き分けられており、別物のように読める。国立公文書館デジタルアーカイブで見た通り、憲法原本は上諭と本文が一体化しているから、天皇が読み上げた「詔書」は上諭ではないのではないか、という疑いが生じる。
次に、明治天皇一代の実録である『明治天皇紀』明治22年2月11日条を見てみよう。膨大な量があるため、当日の概要のみを記す。
・紀元節御親祭。
・・午前9時、出御。賢所に渡御し、御拝。皇室典範並びに憲法制定の告文を奏する。
・・次に皇霊殿を御拝、再び告文を奏する。次に神殿に御拝。入御。
・憲法発布式。
・・午前10時、内閣総理大臣、枢密院議長、内閣大臣ほか諸官参集。
・・午前10時40分、天皇出御し高御座に立御。三条実美(内大臣)、箱から憲法を取り出し憲法を天皇に渡す。
・・天皇、総理大臣の黒田清隆に憲法を授ける。これにて式終わり。
そして、天皇が朗読した勅語として『明治天皇紀』が掲げているのは、六法などでも引用されている憲法発布勅語だ。つまり、上諭ではない。最初にのべた憲法の4パートに即して整理すると
●告文…午前9時からの宮中三殿における御親祭で、皇祖皇宗に対し天皇が朗読。
●憲法発布勅語…午前10時40分からの正殿における発布式で、総理大臣ら諸官に対して天皇が朗読。
つまり、天皇が憲法上諭の誤記をそのまま朗読してしまった(②)というのは、あとから生まれた俗説なのではないかと結論できる。
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そうすると、井上毅が責任を感じていたのは何になるのだろうか。井上の進退伺には「十月十四日と誤写仕」としか書いていないので、実態としては誤記のまま官報等を流通させてしまったことにつきるのかもしれない。これらの点は、当時の書簡や日記などの一次史料を漁れば明らかにできるかもしれない。
ともあれ、100年間ぐらい言われてきたことを覆すこともできるぐらい、ウラを取り、出典にあたることは大切だ。特にデジタルアーカイブが充実し、出典を探すコストがかなり下がってきた現在では、さらに重要になっている。井上毅が残した一文字の誤記から得られる教訓は大きく、恐ろしい。
追記:なおこの記事を書くにあたって、猫の泉(@nekonoizumi )さんからのご教示を参考にした。ここで感謝の意を述べたい。
*1:以下引用史料は適宜現代表記に改める。