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あとがき愛読党ブログ

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あとがき25 或る古文書学徒の死:勝峯月渓『古文書学概論』(目黒書店、1930)

 

古文書学入門

古文書学入門

 

  佐藤進一『古文書学入門』には、参考にすべき古文書学の名著が冒頭に掲げられている。一人の著者が書きおろした古文書学の体系書を以下にピックアップしてみよう。

  • 久米邦武『古文書学講義』(1902年完結。早稲田大学出版部)
  • 勝峯月渓『古文書学概論』(初刊は目黒書店、1930年)
  • 黒板勝美『日本古文書様式論』(1903年提出博士論文。『虚心文集 第6』の一部として1940年刊行)
  • 相田二郎『日本の古文書』上下(1945年成稿。書刊は岩波書店、1949-54年)
  • 伊木寿一『日本古文書学』(雄山閣、1958年)
  • 中村直勝『日本古文書学』上中下(角川書店、1971-1977年)
  • 佐藤進一『古文書学入門』(初刊は法政大学出版局、1971年)

 久米を始め、ほとんどの人物は著作集が編まれるような大学者ばかりである。ところがそのなかに、勝峯月渓という見慣れない人物がいる。『古文書学概論』を除き勝峯の著作や論文は見当たらず、いわば無名の人物だ。

 しかし、勝峯の『古文書学概論』は835ページという大著であり、また上で挙げた体系書のなかでは、久米に次いで早く刊行されている。そのため、それなりに珍重されたようである。たとえば伝説的な古書肆の反町茂雄も、古文書を扱う上で勝峯本をよく利用したという。

まだ参考書の多くない時代には、勝峯月渓さんの「古文書学概論」と首っ引きでした。

反町茂雄『日本の古典籍―その面白さその尊さ―』p137

 刊行当時のある書評を見ても良書として称賛されている*1。刊行の50年後(1970年)に国書刊行会から勝峯本が復刊されているのも、その価値を表しているといえよう。

古文書学概論 (1970年)

古文書学概論 (1970年)

 

 

 勝峯月渓とはいかなる人物なのだろうか。『古文書学概論』の序文や『京都帝国大学一覧』、あるいは後述する丸山二郎論文から彼の略歴を簡単にまとめておこう。
 生年は1899、没年は1928年*2。夭逝した人物である。『古文書学概論』は彼の死後に刊行されたもので、遺著となる。

 三重県妙心寺派の禅寺に生まれ、京都花園中学校を経て1918第三高等学校入学。1921年に京都帝国大学文学部史学科に入り、国史学を専攻した。卒業は、1924年3月である。卒業論文の題は「徳川時代初期の宗教政策」。このとき史学科を卒業したのは彼だけだった。

 卒業時の京大国史講座の陣容を見ておこう。

 勝峯は卒業と同時に京大の大学院に所属する。専攻の題目は「日本近世宗教史」。その間、京大国史研究室の副手を務めた。1925年から大谷大学と花園中学校で教鞭をとるようになった。1927年3月、京大の副手と花園中学を辞し、同年4月から大谷大学で古文書学の講義を担当することとなった。1928年秋に没するまでの1年半講義を行った。大谷大学は1922年に大学令による設立が認可され、翌年に文学部を開設するという拡充期にあったので、古文書学の講座が新設されたのだろう。

 『古文書学概論』を見てみよう。三浦周行の「序」と西田直二郎の「序」、そして編集を担当した勝峯と同世代の徳重浅吉(京大卒。のち大谷大学教授)の「例言」が冒頭に掲げられている。
 三浦周行の「序」(昭和4年12月付け)では、三浦の古文書学講義を受講しており、京大の古文書の整理を副手として行った実績を見込み、勝峯を大谷大の講師に推薦したことが、本書のできるきっかけだったことがつづられる。
 西田直二郎の「序」(昭和5年1月7日付け)では、勝峯の古文書学が三浦に学ぶところが多いと述べられる。また、生前の勝峯が本書の元となる「七冊の草稿」を携え、刊行を西田に相談としたという。
 徳重浅吉の「例言」は、勝峯が心血を注いだ原稿を刊行する苦労と使命感、そして補訂と図版選択の方針などが記されている。
 序と例言は、この若き学徒の遺著が、三浦周行ら京大の学風を継いだ古文書学の大著であることを語っている。

 

 ところが、これとまったく異なる証言がある。
 丸山二郎が戦後に記した「古文書學についての二三の覺書 」という小文がある*3。丸山は東大の黒板勝美の弟子で、黒板から引き継いだ『新訂増補国史大系』の完成に尽力した人物である。

 これはあらゆる意味で衝撃的な文章である。
 丸山は、勝峯の知人だった。1927年はじめ、丸山は勝峯から、東大で丸山が受けた黒板勝美の古文書学講義のノートを見せてほしいと頼まれた。ちょうど大谷大学で古文書学の講義の準備をしていたころである。丸山の文章を引こう。

色々話をすると、勝峯君は悲痛というより以上、自分に古文書学を講じよというのは死ねというのも同じと云って、大谷大学にて古文書学を講義することになったわけを流涕の中に話した。

すでに尋常ではない。勝峯曰く、なんと彼は古文書学概説を受けたことがないので、黒板の講義ノートをすべて筆写したいのだという。丸山も当惑しただろう。彼は当代随一の古文書研究者・三浦周行の門下生なのだから。

それ程なら、その頃の三浦博士や外の方に又は友人学生等から聞くなりノートを借用することも出来ないものかなど話した私は、勝峯君の話を聞いて却って気の毒になって、私のノートについて説明した上に、その希望のまゝに全部のノートを貸して別れて姫路に帰った。

丸山は「勝峯君の話」の込み入った内容を敢えて書いていない。当時京都帝大で古文書学の講義はなかったのだろうか?三浦周行と勝峯とのあいだに何かわだかまりでもあったのだろうか?すべては想像するしかない。

 

1928年夏、2人はたまたま京都駅で邂逅する。

学生当時のまゝに無口で昨年の如くに沈痛そのものゝ様子であった。昨年私のノートを写したことや古文書学講義の件については二人共一言も口外することのないまゝに分かれた。

これが勝峯と丸山との最後の会話となった。1928年11月20日、勝峯は死ぬ。『古文書学概論』には一切書いていないが、実は自殺であった。即位の大典で昭和天皇伊勢神宮に参詣する同じ日に、地元・宇治山田の鉄道に飛び込んだのだという。

 死の翌々年、『古文書学概論』が出版される。丸山曰く、その構成や方法論、分類法はかなり黒板講義ノートに近かったという。黒板はそれと知らずにこの勝峯本を入手し、大いに共鳴して精読していたため、いたたまれなくなり、自分が黒板のノートを提供したことを告白した、と丸山は述べている。
 丸山は、『古文書学概論』を黒板古文書学の亜流だと断定し、生前にこの草稿を見たという西田直二郎の序文を疑う。また、このような形で出版することを勝峯が希望していたことを疑う。一方で、これを黒板古文書学の全くの盗作であるという評価を下すことはせず、2年間の大谷大学での古文書学講義を「全く死闘に近い勉強であったろう」と同情を交えながら回想する。
 勝峯の涙、そして沈痛な面持ちの裏になにがあったのか。そして突然の自死とどうつながっているのか。残されたものは多くを語らない。また丸山の実体験に基づく証言も裏付けるものがなく、検証する術がない。真相に近づきうる方法のひとつは、『古文書学概論』のテキストを黒板の著作と突き合せ、どの点が引き写しで、どの点が勝峯によって生み出されたものかを綿密に検討することだろう。しかしそれは、あとがき愛読の範囲をとうに超えているのであった。

*1:武田勝蔵の新刊紹介。『史学』9(3)、1930年。

http://ci.nii.ac.jp/naid/110007472869

*2:http://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/00028369

*3:『駒澤史学』(4)、1954年。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006999290