あとがき愛読党ブログ

本文まで読んでいることを保証するものではありません

あとがき33 索引になった男:『群書索引・広文庫概要』(昭和51年4月6日)

Great Books of the Western World という名著全集の特徴は、このためにモーティマー・J. アドラーによって考案されたシントピコンにあるという。

第1巻と第2巻は、シントピコン索引で構成されています。シントピコン索引を利用すると、特定の主題、たとえば勇気や民主主義といったことが、膨大な全集のどこで論じられているのかを知ることができます。歴史に名を残した偉人たちが、その主題についてどのように論じ、それぞれの主張にはどのような違いがあるのかを体系的に学ぶことができる、画期的な索引です。
https://www.britannica.co.jp/products/greatbooks.html

 「索引」というと、現代のわれわれのイメージでは一冊の本の末尾についているものだが、何点もの書物を対象にすることで索引があらたな価値を生み出すことを、シントピコンは教えてくれる。
 しかしシントピコンはアドラーだけが考えついたものではない。Great Books of the Western Worldは「130人による517編」が対象だが、十万巻の書物を貫通する索引を一生涯かけて作った人物が近代日本にいた。それが物集高見(1847-1928)である。

f:id:pino_quincita:20201121195755j:plain

若き日の物集高見肖像

物集高見『ことばのはやし』『日本大辞林』 より。

 

「シントピコンはアドラーだけが考えついたものではない」と先ほど述べたが、むしろ日本においては伝統的に、索引作りの行為に高い位置づけが与えられていた。たとえば和学者・小山田与清は膨大な蔵書を活かして『群書捜索目録』など総合索引を編纂している。これら江戸期の索引学者のいとなみは、岡村敬二『江戸の蔵書家たち』(吉川弘文館、2017)参照。

江戸の蔵書家たち (読みなおす日本史)

江戸の蔵書家たち (読みなおす日本史)

 

 

この時期の大規模索引は、近年梅田径氏の尽力でゆまに書房から続々と復刊されている。 

なお、近代日本の索引史については、 稲村徹元『索引の話』 (日本図書館協会、1977)に簡潔にまとまっている。

 国学者物集高見がみずから索引作りに邁進し『群書索引』と『広文庫』を編纂したのも、江戸期以来の伝統を背負ったものと考えられる。『群書索引』(洋装本3冊)は、「阿(あ)」「愛(あい)」「愛縁仏(あいえんぶつ)」……と事項が50音順に配列され、各項には、その事物が出現する書名と巻数・丁数などが列挙される。『広文庫』(洋装本20冊)は『群書索引』を発展させたもので、書名等のみならず、関係個所の原文が抜書されており、類書として活用できる。

 物集高見の偉大な点は、初志貫徹して完成させたこと、そして全巻刊行したところにある。

 物集高見がこれらの編纂をはじめたきっかけは、明治19年(1886)、帝国大学教授という高官にあったときだった。ある日の昼食時、法学者の穂積陳重と隣の席になった。穂積は隠居制度について研究中だったが、資料不足を嘆いていた。物集は、日ごろから書物を読むたび索引を取っていたので、隠居に関する記事を集め、翌週穂積に渡した。穂積は短期間に多くの資料を集めたことに穂積は驚嘆して、物集にこう勧めた。それらの索引を整理増補して刊行せよ、そうすれば学界に対して大きな利益をもたらす……と。

 まさかこの勧めが、悪魔のささやきとなるとは。物集は索引作りに没頭しはじめ、家に引きこもって余人との交わりを断ち、帝大の職も辞すに至った。資料集めと刊行(自分で広文庫刊行会という出版社も立ち上げた)のため借金を重ね、家は傾いたという。編集作業の労苦でみずからは視力を失った。長男・高量は編集・刊行の業務に従事させられ、家族は借金取りに追われ辛酸を舐めたという。(以上、物集高量「思い出すことども」)

 並々ならぬ苦労によって刊行された『群書索引』『広文庫』は驚嘆の念をもって迎え入れられたが、一方で、その質については、―特に『古事類苑』とも比較されて―疑問を投げかけるものもあった。口の悪い川瀬一馬は「『広文庫』は後からできたものですが、どうしてああいうものになったのか、自分のために作ったとしても、私は余り役に立たぬ内容だと思います*1」と述べ、剛直な坂本太郎は「欠点だらけで、学問研究の用にはあまり有効でない。多大の費用をかけてまで出版するほどの価値には乏しいという感じがする。(…)著者の境遇に対する同情と、努力に対する敬意とが、他の顧慮をうわまわって、出版を実現させたのではなかろうか」とまで言っている*2。 

日本における書籍蒐蔵の歴史 (読みなおす日本史)

日本における書籍蒐蔵の歴史 (読みなおす日本史)

 

  しかし、だからこそ自分は、「なんでこんなん作っちゃったんだろう」と、『群書索引』『広文庫』と物集父子に大きな興味を抱いている。その自分が、とある古本屋で一冊の書を得た。それが『群書索引・広文庫概要』(名著普及会、1976)である。

 ながらく絶版となっていた『群書索引』『広文庫』は戦後に復刊される。それを担ったのが、名著普及会というものものしい名の出版社である。代表取締役の小関貴久は、かの大漢和辞典を刊行した大修館の鈴木一平の教えを受け、学術的価値のある大出版を志していた(大漢和の経緯はブログの過去記事参照)。小関は復刊を企画し、まずは著者の遺族を探し出そうとする。奇跡的だったのは、編集・刊行を担っていた高見の息子・物集高量が97歳で存命だったことである(電話帳で調べたら出てきてビックリしたらしい)。もっとも、都内の家で生活保護を受けながら一人暮らしという窮状ではあったけれども。

 小関らは陋屋を訪ねて、再刊を乞うた。物集翁は言う。

「それは、あたしには嬉しいことですけど……この本をお出しになると、あなたの会社はつぶれますよ」
 それでも名著普及会は復刊を成し遂げた。その記念に出されたのが、本書である。

(余談ながら、物集高量はこののちも長生きし、100歳のときには自伝を出版して『徹子の部屋』に出演したり、好色ジジイキャラで謎のブレイクを遂げていく。その数奇な人生をここで書く余裕はないが、まずはWikipediaなどを見てほしい)

 さて、『概要』はいくつもの大学図書館が所蔵しており、「日本の古本屋」でも何冊も取り扱っているので、特段貴重な本というわけでもないのだが、うれしいことに、①「群書索引・広文庫」の内容見本、②パンフレット、そして③献呈札の3点が挟み込まれていた。
 ①はホッチキス留め冊子、10頁。A5判。主な内容は以下の通り。

  • 小関貴久「「群書索引」「広文庫」の再刊にあたって」
  • 物集高見博士の略歴」
  • 物集高量「父と私が精魂をこめたこの本」
  • [「群書索引」「広文庫」とは?]
  • 「群書索引・広文庫の生い立ち」
  • 「未曾有の大事業 広文庫・群書索引を推す」
  • 諸橋轍次、山岸徳平、久松潜一、河鰭実英、市古貞次、長谷章久、樋口清之朝倉治彦の推薦の辞
  • 「古事類苑と広文庫・群書索引を比べてみると」
  • 「群書索引」内容見本
  • 「広文庫」内容見本
  • 「名著普及会取り扱い書籍一覧」

このうち末尾三項目以外は、『概要』に収録されている。

 ②はふたつ折、8頁。A4判。新聞・雑誌等で報じられた『群書索引』『広文庫』関係記事を版面そのまま再録している。

  • 朝日新聞 11月8日号(「ひと」物集高量)
  • サンケイ新聞 3月10日号(俳優福田豊土氏のインタビュー。物集高量を映像化する構想を語る)
  • 週刊読書人 昭和51年2月2日号 紀田順一郎氏書評
  • 読売新聞 昭和51年3月26日号 「貧窮の老学者に暖かい春が」
  • 読売新聞 昭和51年4月8日号 「かくしゃくの物集翁に驚き」
  • サンケイ新聞夕刊 昭和51年4月8日号 「元気な97歳の物集氏」
  • 東京新聞 昭和51年4月12日号 「物集学術賞や後援会を設置」
  • 文化通信 昭和51年4月12日号 「報われた出版の精神」
  • 毎日新聞 昭和51年4月7日号 「後援会が祝賀パーティー
  • 朝日新聞 昭和51年4月4日号 「国文学の「物集高量」先生、97歳」
  • サンデー毎日 1976年5月2日 「悲運と強運を共有した大古典文献百科」
  • 出版クラブだより 昭和51年1月10日 今井育雄「物集高量翁との出会い」

このうち末尾の今井育雄(名著普及会出版部長)の文章は、『概要』に収録されている。また上記の記事により、昭和51年4月6日に再刊記念パーティー学士会館で行われたことが分かる。『群概要』の背に「昭和五十一年四月六日 広文庫出版記念」と書かれているのは、このパーティーで本書が配布されたことを推測させる。

 ③は3.5×19.5。表面は「謹呈 群書索引/広文庫 概要 名著普及会」。裏面は「昭和五十年秋再刊に臨みて 高量」として、再刊した『群書索引』『広文庫』に変態仮名を残したことを述べ、その8種を示す。これも『概要』題紙裏に収録されている。

 そして本体である『概要』は、主に①の内容見本を再録し、『群書索引』・『広文庫』の緒言や凡例など、そして内容見本があわさった書物である。自分のようなあとがき愛読者にはもってこいの1冊というわけだ。これは、付属物①②③が残っていたからこそ判明するのである。

 ③は『概要』の付属物だが、①は『概要』に先行するものであるし、③は内容から出版記念パーティーのあとに発行されたものだから、『概要』と一体ではなかったはずである。旧蔵者はこれらをなんらかのかたちで手に入れ、何気なく『概要』に挟み込んでおいたのであろう。そのおかげを今自分が蒙り、先人の学問的伝統にたどりつく索引となっているのは、ゆかりである

*1:川瀬一馬『日本における書籍蒐蔵の歴史』

*2:坂本太郎「『古事類苑』と『広文庫』」(『坂本太郎著作集 第10巻』吉川弘文館、1971)