あとがき愛読党ブログ

本文まで読んでいることを保証するものではありません

あとがき5 見ること知ること生きること: 小林正人「研究者になるまで」

東大文学部のHPで見つけた文章がすごくよかったので、紹介したい。

小林正人言語学)「研究者になるまで」

http://www.l.u-tokyo.ac.jp/teacher/essay/2013/3.html

私は気が弱い。およそプレッシャーというものが苦手で、受験競争がいやで高校を辞めたほどである。

自分の人生の難問に取り組むことなくしては、実用的な学問を修めて世の中を渡っていくのは無意味だと思ったので、大学に行きたいと思い直したときから、人文的なことが学べる学部に行こうと心が決まっていた。計画どおりにならない人生だから、天の導きにまかせて学びたいと思うことを学ぶのがよいと思う。

いわゆるフィールドワークだが、自分にとってはつまるところ「なぜ生きるのか」という高校時代からの問いへの答えを求める旅である。少数民族の人々のおかげで、硬い土地から硬い人間が生まれることを知り、貧しくともおよそ人の生きるところにはユーモアやペーソスや誇りや愛情があり、苦しい人生にも生きる喜びがあるのかも知れないと思えるようになった。

 

気の弱い高校生が、文学部に入って、無自覚的に、あるいは自覚的に、学究の道を歩んでいくさまは、『蘭学事始』を思わせるし、決して器用ではなかったこの著者が、心惹かれるまま出会ったひとびとによって人生の喜びをなんとなく見出していく過程のドラマティックさは、『あまちゃん』に匹敵する。この方の場合、学問することは、人間としての生き方と不可分の関係にある。

この方の単著は英文だけなのでおそらくこれに相当するあとがきは期待できないが、これを「あとがき」と呼ばずしてなんと言おう。

 

 また私はこの文章から、「文学部」賛歌をくみ取った。

せめて辞書くらい引けるまで、と思って始めたものの、引きたい単語の語根が分からないと辞書を引けず、語根が分かるためには活用を覚えねばならず、それ以前にどこからどこまでが単語なのか分からず、瞬く間に一年が経ってしまった。(…)引けない辞書と夜がな格闘していてそれ以外の勉強をしなかったので、ほかに選択肢があるわけでもなく、梵語学梵文学という研究室に入った。

研究職が狭き門だということもすぐに気がついていたが、知りたいという気持ちのほうが強かった

ずっと後になって気づいたことだが、本をちゃんと読めるようになるには本の読み方を学ぶ必要があり、それを体にしみこむほど教えてくれた文学部の学問は、意外にも実用的であった。

 まったく押しつけがましくないけれども、何気なく書かれた一節一節の中に、なにか促されるものがある。この著者のような“グローバル人材”を擁する「文学部」が失われないようにしたい。若人よ、「文学部」に入って、ややはずれた人生を歩みませんか。