あとがき愛読党ブログ

本文まで読んでいることを保証するものではありません

あとがき7 【ゲスト投稿】長大なる自分語りの祖 : 司馬遷『史記』その①

 以前執筆していただいた二歩博士から、再び玉稿を頂いた。長編のため、前後遍として掲載することにする。ご味読いただきたい。

 

**********

【提要】

  •  史記』の先秦諸子に関する列伝には、その文献・学術・学派に対する「序」の性質がある。
  • 司馬遷は、司馬氏の史官としての仕事を諸子にも劣らない、一つの学術分野と自負した。
  • そこで、司馬氏の学術の発祥と、『史記』に結実するまでの来歴を、「自序」に記した(そのために「自序」がまるで司馬談司馬遷の列伝のようになった)。

         というのが、本稿の主旨である。

**********

 

先日の記事

あとがき6 あとがきはなぜ必要なのか: 小熊英二『単一民族神話の起源』(新曜社、1995年) - あとがき愛読党ブログ

で、

人文系学術書の、長くて、情緒纏綿で、多分に私事に渉るあとがき

という言葉が登場した。この言葉を見ると、『史記』のあとがき、「太史公自序」が思い浮かぶ。この自序では、実に多大な紙幅(当時は「竹幅」「帛幅」と言うべきか)を割いて、司馬遷自身の私事を述べ立てている。ここでは、司馬遷が何故このようなあとがきを書いたのかについて、試みに考えてみたい。

史記〈8〉―列伝〈4〉 (ちくま学芸文庫)

史記〈8〉―列伝〈4〉 (ちくま学芸文庫)

 

 

**********

 

 『史記』巻一百三十「太史公自序」は、「序」という名を冠するが、実際には『史記』の最末尾に置かれている。つまり、あとがきである。漢代では、「序」を書末に配することが多く、『淮南子』『漢書』『説文解字』等でも、自序を末尾に置いている。
 この「太史公自序」は、大まかに、四つの部分に分けられる。

  • 一、太古の重黎氏から司馬談司馬遷の父)に到るまでの、司馬氏の系譜
  • 二、司馬談の学問・官職についての記述。
  • 三、司馬遷学術と、『史記』執筆の経緯。
  • 四、『史記』一百三十篇についての説明。各篇の意義・編纂動機について一篇ずつ簡潔に述べる。

 現代の我々から見ると、「一」「二」は全くの蛇足である。「三」も冗長である。当時としても、これほど長々と自分語りを行なった「序」は、珍しい。

 

**********

 

 ややまわりくどくなるが、「太史公自序」について考える前に、先秦・前漢期の「序」の体例について、少し説明したい*1

 古代の文献で「序」(叙)と言うと、まずは「詩序」・「書序」が挙げられる。これらは『詩経』に含まれる各詩、『書経』に含まれる各演説について、それぞれどのような人物がどのような経緯で作った(と伝えられている)のかについて、述べた文章である。『孟子』万章下にも「詩・書を読む際には、それぞれの作者を知らなければならない」と言う。詩・書を教授・伝承する過程で徐々に形成されたのが、これら「詩序」「書序」だったのだろう。

詩経 (講談社学術文庫)

詩経 (講談社学術文庫)

 

  

中国古典文学大系 (1)

中国古典文学大系 (1)

 

   諸子の学術でも、「序」とは銘打たないものの、「詩序」・「書序」と同じように、文献の作者や学派の開祖とされる人物について解説する文章が作成された。例えば、『管子』戒篇で管仲の死後に斉が乱れた話が掲載され、『韓非子』初見秦・存韓の両篇では韓非が秦王に説いた言葉が掲載されている。これらの文言は、管仲・韓非がどの時代のどのような人物であったかを示して読者の利便を図るために、後人が執筆・収録したのであろう。司馬遷よりも後になるが、前漢末の劉向が宮中の書物を校定した際に、各書に「叙録」を付した。これも、それぞれの文献の作者・学術の始祖について紹介した文で、基本的には『管子』・『韓非子』に管仲・韓非を紹介する篇が付加されたのと意味は同じである。

管子 中 新釈漢文大系 (43)

管子 中 新釈漢文大系 (43)

 

 

韓非子〈第4冊〉 (岩波文庫)

韓非子〈第4冊〉 (岩波文庫)

 

  以上は、いずれも著者自身の手になるものではない。詩・書の実際の作者を考えるというのはナンセンスであるが、文体からも、本文と「序」の作者が異なることは明らかである。『管子』戒篇の管仲臨終譚が管仲の作でないことは、誰にでも分かるだろう(そもそも『管子』自体が管仲の作とは考え難いが、戒篇に到っては、管仲に仮託する意図すらないのである)。

 

 一方、人物についての説明ではなく、その文献・学術を概観する「序」も、しばしば制作された。例えば、『易経』の「序卦」は、易の六十四卦全てについて、一つ一つ順序づけて解説している。また、『荘子』天下篇は、『荘子』の学術が他の諸子よりも優れていることを述べている。

 

易―中国古典選〈10〉 (朝日選書)

易―中国古典選〈10〉 (朝日選書)

 

 

荘子 第4冊 雑篇 (岩波文庫 青 206-4)

荘子 第4冊 雑篇 (岩波文庫 青 206-4)

 

  文献の内容を解説する「序」の中には、著者自身の手になるものもある。まず挙げるべきは、『呂氏春秋』の「序意」である。この「序意」は、『呂氏春秋』の中の「十二紀」のみに対する「序」ではあるが、呂不韋たちが壮大な意図によって「十二紀」を執筆したことを述べる。従来の「序」はいずれも後人の手になるものであるし、そもそもこれらの文献自体が、長い年月をかけて徐々に形成されたものであった。個々の学派の中で形成された言説が少しずつ書き留められ、多くの人々による改変・増補を経て徐々に成長していったものである。こういった経緯で成立した文献であるから、原著者による序文などあろうはずもない。一方、『呂氏春秋』八覧・六論・十二紀の二十万字余りは、呂不韋の元に集った食客たちによって一気呵成に編纂され、最初から全篇が定まった文献として問世した。咸陽の市中に掲げて、「一字でも改めることができれば千金を下賜する」と述べた話すらあるように、学派内で徐々に言説を形成するという従来の学術とは異なり、いきなり膨大な分量の定本を作り上げたのが、『呂氏春秋』の特色である。そして、著作の完成と同様に、序の作成もまた、呂不韋たちの手によって行なわれたのであった。

呂氏春秋〈下〉 (新編漢文選―思想・歴史シリーズ)

呂氏春秋〈下〉 (新編漢文選―思想・歴史シリーズ)

 

  『淮南子』の「要略」も、その名に「序」字を冠していないが、『呂氏春秋』の「序意」と同様の性格を持つ自序である。『淮南子』は『呂氏春秋』同様、大勢の人数を以って一気呵成に編まれた文献であり、『管子』や『荘子』などがそれぞれの学派内で伝承されながら徐々に形成された文献群であるのとは、異なる。思うに、『呂氏春秋』や『淮南子』の母体となったのは、一時期に一人の権力者の下に参集した学者たちであり、その権力者が世を去った後にも脈々と学派集団が継続するということは考え難い。従って、後世にその編纂の意図が語り継がれる可能性は低く、呂不韋や劉安といった権力者本人が存命の内に序を書いておく必要があったのではなかろうか。

訳注「淮南子」 (講談社学術文庫)

訳注「淮南子」 (講談社学術文庫)

 

  「要略」の特色は、『淮南子』全篇それぞれについて順序立てて解説している点である。これには、編纂の意図を示すということ以外に、各篇の散佚を防ぐ目的もあったように考えられる。当時は文章を竹や帛に記しており、書物が非常にかさばるため、各文献は基本的に一篇ごとに流通していた。このようにばらばらに流通していた上に、古代の書物には書名・篇名・著者名を記す習慣も無かった。それでも学派内で伝承されているうちは把握のしようがあるが、学派集団が衰えてしまえば、ばらばらの篇について「これとこれは同じ文献の一部分ずつで、これは違う」といった選別をすることは、非常に難しくなる。そこで「要略」のように、全篇について解説する篇を残しておけば、『淮南子』にどのような篇があり、それらがどのように並んでいたかが分かる。

 

 以上のことから、『史記』以前のあとがきは、以下の二種類にまとめられる。

  • 甲、作者もしくは学派の始祖について、その時代・人物・言行について紹介し、読者の利便を図ったもの。後人による執筆。
  • 乙、その文献の内容・章立てを概説したり、その学術の意義を主張したりしたもの。作者自身によって執筆されることもあった。

 「甲」は学術の流別を把握する助けとなり、「乙」は文献の内容を把握する助けとなる。『史記』の「太史公自序」は両種を兼ね備えている点、そして何より著者自らが「甲」の内容を記した点で、従来に無いあとがきと謂える。(二歩/以下続)

 

続きはコチラ

あとがき8 【ゲスト投稿】長大なる自分語りの祖 : 司馬遷『史記』その② - あとがき愛読党ブログ

 

*1:なお、「序」には「端緒」という意味の他、「順序づける」「述べる」という意味がある。例えば、『易経』の「序卦」と『呂氏春秋』の「序意」とで「序」のニュアンスは異なるが、ここではそれらの違いについての議論はスキップして、単に司馬遷以前の「序」として論じた。