あとがき愛読党ブログ

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あとがき31 陰謀はどこだ?:フィリップ・ロス『プロット・アゲンスト・アメリカ』

 2018年5月、アメリカの作家・フィリップ・ロスが世を去った。本記事はロス追悼のため開かれた読書会「ロスろす会」で私がしゃべったペーパーが元になっている。

課題書

フィリップ・ロス作・柴田元幸訳『プロット・アゲンスト・アメリカ―もしアメリカが…―』(集英社、2014、原著2004)

 あらすじ

「だって歴史って何だ?」と父は、夕食時にありがちな、上機嫌な教師気分のときに、はじめから答えのわかっている問いを口にした。「歴史ってのは、あらゆるところで起きているすべてのことさ。ここニューアークだってそのなかに入っている。ここサミット・アベニューだって入っている。普通の人間の身に、わが家で起きていること、それだっていつの日か歴史になるのさ」(p245)

 「もしもアメリカが親ナチスになったら…」という歴史改変小説。1940年の大統領選、突如共和党候補として、飛行家にして反ユダヤ主義者のC・リンドバーグが立候補する。その知名度と「戦争か、リンドバーグか」という争点の単純化で、孤立主義の支持を得て現職のローズヴェルトに圧勝する。リンドバーグ政権下、ナチスと協定が結ばれ欧州戦線は放置され、一方国内では次第にユダヤ人への圧力が強まっていく。その中で、主人公フィリップ・ロス少年の家庭と彼が住む小さな世界も引き裂かれていく。勤勉な父は失職、従兄はナチスとの戦闘で足を失い自暴自棄、兄はユダヤ同化政策によって親リンドバーグに、叔母は政権寄りのラビと結婚し社会的上昇を果たす。1942年、リンドバーグ政権を唯一正面から批判してきたユダヤ系ジャーナリストのウォルター・ウィンチェルは大統領選出馬を宣言し、激烈な反政権運動を開始する。これによって全米が騒然となり、ユダヤ人襲撃がはじまった。ウィンチェルは街頭で暗殺され、ローズヴェルトらによる葬式で反政権の動きが活性化する。緊張が最高潮となった最中、突如リンドバーグ大統領は航空中に失踪する。政権は混乱するが、結局は選挙によってローズヴェルトが再選し、アメリカは連合国側として参戦していく。

感想

 トランプ政権が誕生し(リンドバーグと同じくアメリカ優先、孤立主義!)、中間選挙で前大統領のオバマが活動するという現状をまさに予言していたような作品で、眩暈がした。しかし、ここまで予言的だと本作の読みが限定されてしまい、テクストにとっては不幸かもしれない。単なる予言的中という以上の興味深さが本作品にはある。
 本作で出てくる人物は(ロス家の人間も含め)ほとんどが実在の人物である。リンドバーグも実際に親ナチスとして有名であり、共和党大統領候補として担ぎ上げようという動きもあった。巻末には、あとがきの代わりに、大量の参考文献リスト、主要人物の実際の年譜、実際のリンドバーグの演説などが収載されている。

 あらすじとして述べたような(架空の)政治過程を追いつつ、視点は成長したフィリップ・ロスであり、ロス家で起こったことと、当時の報道と、後年手に入った資料や談話などで小説は構成される。つまり、政権内部の真実は書き手にも読者にもよくわからない。
 タイトルの「プロット」はすなわち「陰謀」だが、作中で言及される「陰謀」はひとつではない。ユダヤ人とローズヴェルトによるアメリカを戦争に巻き込む陰謀(リンドバーグ曰く)、リンドバーグによるユダヤ人を弾圧する陰謀(ウィンチェル曰く)、ユダヤ人と民主党によるリンドバーグを拉致し開戦する陰謀(ウィーラー大統領代理曰く)、ナチスによるリンドバーグを手先にして米国を操る陰謀(ラガーディアNY市長、エヴリン叔母ら曰く)、ウィーラー大統領代理による違憲の陰謀(リンドバーグ夫人曰く)……。特にラストにかけては両陣営が互いの「陰謀」を言及し畳みかけるような展開となっていく。小説形式の叙述も中断し、「ニューアーク・ニューズリール・シアターのアーカブより」として、年表のように資料が並ぶ形式にとって代わられる。唯一真実らしく登場するのは、叔母(政権中枢に縁故がある)が述べる、「かつて誘拐されたリンドバーグの赤ん坊は実はナチスの下で養育されており、人質にされたリンドバーグナチスに操られ、用済みになったので拉致されたのだ」という筋書きだが、主人公の母には正気を失っていると判断されてしまう。事実は錯綜し、真実は主人公フィリップ少年も我々読者もわからない。
 思うにこれは、典型的な陰謀論的思考である。陰謀論の特徴は、「特定の個人ないし勢力が、状況をすべてコントロールしているはずだ」と想定して、真犯人探しをすることにある。しかし、たいていの場合、状況をすべてコントロールできているのは希で、実際には、ユダヤ人はおろか、ホワイトハウスナチスですら、完璧に状況を動かすことはできなかったであろう。この作品で唯一状況をコントロールできそうなのは、作者であるフィリップ・ロス本人であるが、その分身(子供ロスと筆者ロス)は明らかに断片的な事実しか掴んでいない。そこにおもしろさがある。
 しかし、「特定の誰かが状況をコントロールしているわけではないので、陰謀論は杞憂だ」と切って捨てるのもの問題である。作中のホームステッド法42(ユダヤ人を田舎に分散移住させる法)をウィンチェルがラジオで「強制収容所だ」とこき下ろすのに対し、親リンドバーグとなった兄は「強制収容所なんかないよ! 一言残らず嘘だよ、あんたら大衆をラジオの前に釘付けにするための駄法螺だよ!」と激昂する。実のところ、ホームステッド法24は、移住のための自発的意思を一応は保障しており、強制収容所とは異なる。ウィンチェルの批判は当たらないともいえる。しかしそこに罠があり、個別的には多少妥当でも、匿名的に行われる不正義があり、全体的な傾向にならないと認識できないときがある。誰かの陰謀というわけでもないのに次第に不正義がじわじわ進行しているとき、我々はなにができるのか? 本作はそう問いかけているように思える。

 ロスが示すひとつの回答は、最終章にある。ウィンチェル暴動からリンドバーグ失踪、新政権の発足にいたる政治上の過程が点描されたのち、章が替わって話が巻き戻り、反ユダヤ人暴動のなかで、孤立した知りあいのユダヤ人少年を主人公の一家が救出するエピソードが描かれる。大きな状況のうねりのなかで、半径5mのなかにいるものを救うとき、「わが家で起きていること」も「歴史」になったのだ。