あとがき愛読党ブログ

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あとがき34 書名は短いほうがいい?:東川徳治編『典海』(法政大學出版部、1930)

 学術的な編纂物の名は、短いほうがなぜか本格的な感じがしませんか?

 たとえば、小学館日本国語大辞典』は、これ以上ないシンプルかつ力強い書名だが、すこし味気ない。東京大学出版会が刊行している『古語大鑑』は、よくぞその書名で出してくれたという感じだ。
 『平安遺文』『鎌倉遺文』がもし『編年古文書集 平安時代篇』だとか『鎌倉時代文書集成』という書名だったら、こんなに愛着は湧かなかったかもしれない。
 4文字タイトルあたりから品格が漂ってくる。『広辞苑』のように3文字だとなおさら。さすがに1文字だと『詩』『書』『礼』……と聖典になってしまうので、2文字タイトルが至高なのではないか。

 さて、こんな本がある。
 東川徳治編『典海』(法政大學出版部、1930)

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典海標題

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 なんと、2文字書名、しかも「編」とあるが、実質的に東川ひとりの著作なのだ。……で、いったい何の本?
 著者の東川徳治(1870-1938)は高知の人。その生涯は以下の年譜に詳しい。

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 東川は、台湾旧慣調査会にあって台湾での立法事業や『清国行政法』の編纂にかかわった縁で、中国法制史の専門家となったという。この編纂事業には織田萬、狩野直喜、浅井虎夫、加藤繫など、法制史・東洋史学者として名を成す人々が加わっていた。大日本帝国の植民地経営上で、法制史学と実務との協調が見られたのは興味深い。手に入りやすいところだと、すこし前に復刊された浅井虎夫『新訂 女官通解』には嵐義人「浅井虎夫先生と『女官通解』」としてこの事業についても触れられている。 

新訂 女官通解 (講談社学術文庫)

新訂 女官通解 (講談社学術文庫)

 

  東川は台湾旧慣調査会での職務のなかで難解な法制用語に苦しめられたことで、独力での辞書編纂をこころざした(『典海』序)。苦心惨憺のうえ昭和5年(1930)に法政大学出版部から刊行したのが、『典海』だ。ときに東川、60歳。題意は「典海ハ経国済民ニ関スル法典ノ語海ナリトノ義、約言スレバ法制経済ニ関スル辞典ナリ」(増訂版新序)ということらしい。もっとも、辞書編纂にあたって相談に乗ってもらった穂積陳重とは「法制辞典」というシンプルな題にすると約束していたけれども、純法制以外の用語も収録するということで「典海」に改めたらしい。2文字書名に、こだわりがあったのではないか。

 さて、昭和8年(1933)には、発行者を東川徳治自身、発売所を松雲堂に変更して、『典海』の増訂版が刊行された。

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 発行所が法政大学出版局から変更されたわけは、増訂版の「新序」で分かる。どうやら金銭上の行き違いがあったようで、元出版局の「某君」とのやりとりが「ここまで書かなくてもいいのに……」というくらい細かく記されている。そうとう腹に据えかねたのだろうか。なお初版の序と読みくらべると、「某君」の名前もわかってしまう。この記事によれば、当時仕事で負債を作り投身自殺しかけたような人物だったらしいので、金銭がらみで問題があったのは事実かもしれない。

 増訂版で残念なのは、「此ノ題名ニ就キテハ惑フ者アルガ如シ」ということで、無味乾燥な『支那法制大辞典』に改題されてしまったことだ。戦後には『中国法制大辞典』(燎原, 1979)として再復刊されている。復刊されるたびに書名が変わる辞書というのもめずらしい。書名には、下方硬直性があるようだ。

あとがき33 索引になった男:『群書索引・広文庫概要』(昭和51年4月6日)

Great Books of the Western World という名著全集の特徴は、このためにモーティマー・J. アドラーによって考案されたシントピコンにあるという。

第1巻と第2巻は、シントピコン索引で構成されています。シントピコン索引を利用すると、特定の主題、たとえば勇気や民主主義といったことが、膨大な全集のどこで論じられているのかを知ることができます。歴史に名を残した偉人たちが、その主題についてどのように論じ、それぞれの主張にはどのような違いがあるのかを体系的に学ぶことができる、画期的な索引です。
https://www.britannica.co.jp/products/greatbooks.html

 「索引」というと、現代のわれわれのイメージでは一冊の本の末尾についているものだが、何点もの書物を対象にすることで索引があらたな価値を生み出すことを、シントピコンは教えてくれる。
 しかしシントピコンはアドラーだけが考えついたものではない。Great Books of the Western Worldは「130人による517編」が対象だが、十万巻の書物を貫通する索引を一生涯かけて作った人物が近代日本にいた。それが物集高見(1847-1928)である。

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若き日の物集高見肖像

物集高見『ことばのはやし』『日本大辞林』 より。

 

「シントピコンはアドラーだけが考えついたものではない」と先ほど述べたが、むしろ日本においては伝統的に、索引作りの行為に高い位置づけが与えられていた。たとえば和学者・小山田与清は膨大な蔵書を活かして『群書捜索目録』など総合索引を編纂している。これら江戸期の索引学者のいとなみは、岡村敬二『江戸の蔵書家たち』(吉川弘文館、2017)参照。

江戸の蔵書家たち (読みなおす日本史)

江戸の蔵書家たち (読みなおす日本史)

 

 

この時期の大規模索引は、近年梅田径氏の尽力でゆまに書房から続々と復刊されている。 

なお、近代日本の索引史については、 稲村徹元『索引の話』 (日本図書館協会、1977)に簡潔にまとまっている。

 国学者物集高見がみずから索引作りに邁進し『群書索引』と『広文庫』を編纂したのも、江戸期以来の伝統を背負ったものと考えられる。『群書索引』(洋装本3冊)は、「阿(あ)」「愛(あい)」「愛縁仏(あいえんぶつ)」……と事項が50音順に配列され、各項には、その事物が出現する書名と巻数・丁数などが列挙される。『広文庫』(洋装本20冊)は『群書索引』を発展させたもので、書名等のみならず、関係個所の原文が抜書されており、類書として活用できる。

 物集高見の偉大な点は、初志貫徹して完成させたこと、そして全巻刊行したところにある。

 物集高見がこれらの編纂をはじめたきっかけは、明治19年(1886)、帝国大学教授という高官にあったときだった。ある日の昼食時、法学者の穂積陳重と隣の席になった。穂積は隠居制度について研究中だったが、資料不足を嘆いていた。物集は、日ごろから書物を読むたび索引を取っていたので、隠居に関する記事を集め、翌週穂積に渡した。穂積は短期間に多くの資料を集めたことに穂積は驚嘆して、物集にこう勧めた。それらの索引を整理増補して刊行せよ、そうすれば学界に対して大きな利益をもたらす……と。

 まさかこの勧めが、悪魔のささやきとなるとは。物集は索引作りに没頭しはじめ、家に引きこもって余人との交わりを断ち、帝大の職も辞すに至った。資料集めと刊行(自分で広文庫刊行会という出版社も立ち上げた)のため借金を重ね、家は傾いたという。編集作業の労苦でみずからは視力を失った。長男・高量は編集・刊行の業務に従事させられ、家族は借金取りに追われ辛酸を舐めたという。(以上、物集高量「思い出すことども」)

 並々ならぬ苦労によって刊行された『群書索引』『広文庫』は驚嘆の念をもって迎え入れられたが、一方で、その質については、―特に『古事類苑』とも比較されて―疑問を投げかけるものもあった。口の悪い川瀬一馬は「『広文庫』は後からできたものですが、どうしてああいうものになったのか、自分のために作ったとしても、私は余り役に立たぬ内容だと思います*1」と述べ、剛直な坂本太郎は「欠点だらけで、学問研究の用にはあまり有効でない。多大の費用をかけてまで出版するほどの価値には乏しいという感じがする。(…)著者の境遇に対する同情と、努力に対する敬意とが、他の顧慮をうわまわって、出版を実現させたのではなかろうか」とまで言っている*2。 

日本における書籍蒐蔵の歴史 (読みなおす日本史)

日本における書籍蒐蔵の歴史 (読みなおす日本史)

 

  しかし、だからこそ自分は、「なんでこんなん作っちゃったんだろう」と、『群書索引』『広文庫』と物集父子に大きな興味を抱いている。その自分が、とある古本屋で一冊の書を得た。それが『群書索引・広文庫概要』(名著普及会、1976)である。

 ながらく絶版となっていた『群書索引』『広文庫』は戦後に復刊される。それを担ったのが、名著普及会というものものしい名の出版社である。代表取締役の小関貴久は、かの大漢和辞典を刊行した大修館の鈴木一平の教えを受け、学術的価値のある大出版を志していた(大漢和の経緯はブログの過去記事参照)。小関は復刊を企画し、まずは著者の遺族を探し出そうとする。奇跡的だったのは、編集・刊行を担っていた高見の息子・物集高量が97歳で存命だったことである(電話帳で調べたら出てきてビックリしたらしい)。もっとも、都内の家で生活保護を受けながら一人暮らしという窮状ではあったけれども。

 小関らは陋屋を訪ねて、再刊を乞うた。物集翁は言う。

「それは、あたしには嬉しいことですけど……この本をお出しになると、あなたの会社はつぶれますよ」
 それでも名著普及会は復刊を成し遂げた。その記念に出されたのが、本書である。

(余談ながら、物集高量はこののちも長生きし、100歳のときには自伝を出版して『徹子の部屋』に出演したり、好色ジジイキャラで謎のブレイクを遂げていく。その数奇な人生をここで書く余裕はないが、まずはWikipediaなどを見てほしい)

 さて、『概要』はいくつもの大学図書館が所蔵しており、「日本の古本屋」でも何冊も取り扱っているので、特段貴重な本というわけでもないのだが、うれしいことに、①「群書索引・広文庫」の内容見本、②パンフレット、そして③献呈札の3点が挟み込まれていた。
 ①はホッチキス留め冊子、10頁。A5判。主な内容は以下の通り。

  • 小関貴久「「群書索引」「広文庫」の再刊にあたって」
  • 物集高見博士の略歴」
  • 物集高量「父と私が精魂をこめたこの本」
  • [「群書索引」「広文庫」とは?]
  • 「群書索引・広文庫の生い立ち」
  • 「未曾有の大事業 広文庫・群書索引を推す」
  • 諸橋轍次、山岸徳平、久松潜一、河鰭実英、市古貞次、長谷章久、樋口清之朝倉治彦の推薦の辞
  • 「古事類苑と広文庫・群書索引を比べてみると」
  • 「群書索引」内容見本
  • 「広文庫」内容見本
  • 「名著普及会取り扱い書籍一覧」

このうち末尾三項目以外は、『概要』に収録されている。

 ②はふたつ折、8頁。A4判。新聞・雑誌等で報じられた『群書索引』『広文庫』関係記事を版面そのまま再録している。

  • 朝日新聞 11月8日号(「ひと」物集高量)
  • サンケイ新聞 3月10日号(俳優福田豊土氏のインタビュー。物集高量を映像化する構想を語る)
  • 週刊読書人 昭和51年2月2日号 紀田順一郎氏書評
  • 読売新聞 昭和51年3月26日号 「貧窮の老学者に暖かい春が」
  • 読売新聞 昭和51年4月8日号 「かくしゃくの物集翁に驚き」
  • サンケイ新聞夕刊 昭和51年4月8日号 「元気な97歳の物集氏」
  • 東京新聞 昭和51年4月12日号 「物集学術賞や後援会を設置」
  • 文化通信 昭和51年4月12日号 「報われた出版の精神」
  • 毎日新聞 昭和51年4月7日号 「後援会が祝賀パーティー
  • 朝日新聞 昭和51年4月4日号 「国文学の「物集高量」先生、97歳」
  • サンデー毎日 1976年5月2日 「悲運と強運を共有した大古典文献百科」
  • 出版クラブだより 昭和51年1月10日 今井育雄「物集高量翁との出会い」

このうち末尾の今井育雄(名著普及会出版部長)の文章は、『概要』に収録されている。また上記の記事により、昭和51年4月6日に再刊記念パーティー学士会館で行われたことが分かる。『群概要』の背に「昭和五十一年四月六日 広文庫出版記念」と書かれているのは、このパーティーで本書が配布されたことを推測させる。

 ③は3.5×19.5。表面は「謹呈 群書索引/広文庫 概要 名著普及会」。裏面は「昭和五十年秋再刊に臨みて 高量」として、再刊した『群書索引』『広文庫』に変態仮名を残したことを述べ、その8種を示す。これも『概要』題紙裏に収録されている。

 そして本体である『概要』は、主に①の内容見本を再録し、『群書索引』・『広文庫』の緒言や凡例など、そして内容見本があわさった書物である。自分のようなあとがき愛読者にはもってこいの1冊というわけだ。これは、付属物①②③が残っていたからこそ判明するのである。

 ③は『概要』の付属物だが、①は『概要』に先行するものであるし、③は内容から出版記念パーティーのあとに発行されたものだから、『概要』と一体ではなかったはずである。旧蔵者はこれらをなんらかのかたちで手に入れ、何気なく『概要』に挟み込んでおいたのであろう。そのおかげを今自分が蒙り、先人の学問的伝統にたどりつく索引となっているのは、ゆかりである

*1:川瀬一馬『日本における書籍蒐蔵の歴史』

*2:坂本太郎「『古事類苑』と『広文庫』」(『坂本太郎著作集 第10巻』吉川弘文館、1971)

あとがき32 「価値自由」をめぐって:安藤英治『マックス・ウェーバー研究』(未来社、1965)

 かつて私は、「あとがき」の必要性を論じて以下のように書いた。

しかし、私はあえてあとがきの必要性を説きたい。
 あとがきはなぜ必要なのか?それは、「経験」(「私事」)と「学問」との関係にわたる問題なのだ。
 マックス・ウェーバーの議論を引くまでもなく、いかに「客観的」な学問上の考証も、「主観的」な関心や観点なくしては出発できない。関心や観点は畢竟、生い立ち、家庭の状況、住んだ土地、時代との出会いなど、学者の個人的な経験に根差す。
そのような書き手の経験を盛り込めるのは、あとがきが最も適している。

atogaki.hatenablog.com

 

 ここで言うまでもなかろうと思って引用しなかったのはもちろん、マックス・ウェーバーの「客観性論文」こと、『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』であり、そこに記されたWertfreiheit、そしてそれを「没価値性」ではなく「価値自由」、すなわち科学的認識から価値判断を排除するのみならず、自分のもつ価値基準を鋭く意識する義務もあるのだとしてきた、戦後日本のウェーバー読解を念頭に置いていた。

社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」 (岩波文庫)

社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」 (岩波文庫)

 

 これは歴史学にとっても無縁ではない。
 戦後の石母田正による津田左右吉を相手取った実証的歴史学批判は、眼が冴えるようなものがある(いずれも同『歴史と民族の発見』東京大学出版会、1952所収)。

歴史学界には、自分は一貫した体系も方法も、またそれらの前提となる立場ももたないという学者が、あるいはそれを誇りとしてさえいる歴史学者が、まだ多く存在しています。

批評者にとっては、一つの学問に理論的なもの、方法的=哲学的なものがあればあるほど、それだけそれは実証的ではないというふうにかんがえられているようであります。

石母田正歴史学の方法についての感想」[1950]

 こちらはもっと手厳しい。

ことに歴史学ほど包括的な思考力を必要とするものはないことを認識しないばかりでなく、むしろ無性格、無思想をその誇りとさえする。〔…〕客観的歴史学は恥ずべき無節操であり、その無性格は奴隷の無性格にすぎなかった
いわゆる実証主義は歴史と現実にたいして謙虚なように見えて事実はおそるべき暴力を現実世界に加える力をその機能としている。それは〔…〕歴史を素材としてばらばらにし、安易な社会や人間に対する常識を以てそれをつなぎ合わせて行く

石母田正「政治史の課題」[1947]

歴史と民族の発見―歴史学の課題と方法 (平凡社ライブラリー)

歴史と民族の発見―歴史学の課題と方法 (平凡社ライブラリー)

 

  もっと引用したい個所は多いが、とりあえずこれで止めにしておく。これをマルキシストの偏執的攻撃と片づけることはできないのは、上記の戦後日本ウェーバー読解と響きあっているからである。自分の内的な価値基準を自覚していない”エセ価値自由”は、自分はどんな価値からも自由!と宣言しながら、実のところ安易な常識に縛られており、あまつさえそれをもって誇りとして「傾向者」への攻撃に乗り出してくるのだ…という石母田の批判は、実に示唆的である。

 

 そんな「価値自由」をめぐる議論を前提としつつ、「さすがにここまでしなくても……」というのが、今回紹介する安藤英治『マックス・ウェーバー研究』(未来社、1965)の「あとがき」である。

マックス・ウェーバー研究―エートス問題としての方法論研究

マックス・ウェーバー研究―エートス問題としての方法論研究

 

 著者は「ウェーバーの教えに従い、学者は自己の立場を明確にする義務に従わねばならない」という信念のもと、28ページにも及ぶ濃密な「あとがき」をものしている。戦中派(1921生)らしく、病、学問、共産主義、周囲の転向、ウェーバーとの出会い、”自発的”従軍、兵営生活、敗戦、母の死、就職……と怒涛の来し方が語られる。とにかく長い。「自分の精神史を書いたのでは毛頭ない」といいつつ、結局自分史を語りまくっている。

 さらに匂うのは、丸山眞男との関係である。この長い「あとがき」で丸山は7回も登場する。はじめは「同級の親友丸山邦男君の兄上、当時帝大(東大)生だった丸山真男氏」なのに、その次からは「丸山真男兄」、「真男兄」として、べたべたである。「真男兄」からの啓示、「真男兄」の回答、「真男兄」を介したウェーバーとの出会い、「真男兄」のあっせんによる就職、「真男兄」からの痛烈な一喝、すべてがその都度「真男兄」に導かれてノコトデアッタ、「真男兄」、「真男兄」、「真男兄」……。「におわせ」というにはあまりにも露骨すぎる。

 著者は兵営生活でも”ヴェルト・フライハイト”が一瞬たりとも頭を離れず、駆け足のときも、カッターを漕ぐときも、教官に殴られているときも”ヴェルト・フライハイト”だったらしい。まあそれはいいだけど、こういう自己の語りが「あとがき」からあふれ出して本文の領域にまで充満してきたらどうなるのだろうと、それはそれで物憂いのであった。

あとがき31 陰謀はどこだ?:フィリップ・ロス『プロット・アゲンスト・アメリカ』

 2018年5月、アメリカの作家・フィリップ・ロスが世を去った。本記事はロス追悼のため開かれた読書会「ロスろす会」で私がしゃべったペーパーが元になっている。

課題書

フィリップ・ロス作・柴田元幸訳『プロット・アゲンスト・アメリカ―もしアメリカが…―』(集英社、2014、原著2004)

 あらすじ

「だって歴史って何だ?」と父は、夕食時にありがちな、上機嫌な教師気分のときに、はじめから答えのわかっている問いを口にした。「歴史ってのは、あらゆるところで起きているすべてのことさ。ここニューアークだってそのなかに入っている。ここサミット・アベニューだって入っている。普通の人間の身に、わが家で起きていること、それだっていつの日か歴史になるのさ」(p245)

 「もしもアメリカが親ナチスになったら…」という歴史改変小説。1940年の大統領選、突如共和党候補として、飛行家にして反ユダヤ主義者のC・リンドバーグが立候補する。その知名度と「戦争か、リンドバーグか」という争点の単純化で、孤立主義の支持を得て現職のローズヴェルトに圧勝する。リンドバーグ政権下、ナチスと協定が結ばれ欧州戦線は放置され、一方国内では次第にユダヤ人への圧力が強まっていく。その中で、主人公フィリップ・ロス少年の家庭と彼が住む小さな世界も引き裂かれていく。勤勉な父は失職、従兄はナチスとの戦闘で足を失い自暴自棄、兄はユダヤ同化政策によって親リンドバーグに、叔母は政権寄りのラビと結婚し社会的上昇を果たす。1942年、リンドバーグ政権を唯一正面から批判してきたユダヤ系ジャーナリストのウォルター・ウィンチェルは大統領選出馬を宣言し、激烈な反政権運動を開始する。これによって全米が騒然となり、ユダヤ人襲撃がはじまった。ウィンチェルは街頭で暗殺され、ローズヴェルトらによる葬式で反政権の動きが活性化する。緊張が最高潮となった最中、突如リンドバーグ大統領は航空中に失踪する。政権は混乱するが、結局は選挙によってローズヴェルトが再選し、アメリカは連合国側として参戦していく。

感想

 トランプ政権が誕生し(リンドバーグと同じくアメリカ優先、孤立主義!)、中間選挙で前大統領のオバマが活動するという現状をまさに予言していたような作品で、眩暈がした。しかし、ここまで予言的だと本作の読みが限定されてしまい、テクストにとっては不幸かもしれない。単なる予言的中という以上の興味深さが本作品にはある。
 本作で出てくる人物は(ロス家の人間も含め)ほとんどが実在の人物である。リンドバーグも実際に親ナチスとして有名であり、共和党大統領候補として担ぎ上げようという動きもあった。巻末には、あとがきの代わりに、大量の参考文献リスト、主要人物の実際の年譜、実際のリンドバーグの演説などが収載されている。

 あらすじとして述べたような(架空の)政治過程を追いつつ、視点は成長したフィリップ・ロスであり、ロス家で起こったことと、当時の報道と、後年手に入った資料や談話などで小説は構成される。つまり、政権内部の真実は書き手にも読者にもよくわからない。
 タイトルの「プロット」はすなわち「陰謀」だが、作中で言及される「陰謀」はひとつではない。ユダヤ人とローズヴェルトによるアメリカを戦争に巻き込む陰謀(リンドバーグ曰く)、リンドバーグによるユダヤ人を弾圧する陰謀(ウィンチェル曰く)、ユダヤ人と民主党によるリンドバーグを拉致し開戦する陰謀(ウィーラー大統領代理曰く)、ナチスによるリンドバーグを手先にして米国を操る陰謀(ラガーディアNY市長、エヴリン叔母ら曰く)、ウィーラー大統領代理による違憲の陰謀(リンドバーグ夫人曰く)……。特にラストにかけては両陣営が互いの「陰謀」を言及し畳みかけるような展開となっていく。小説形式の叙述も中断し、「ニューアーク・ニューズリール・シアターのアーカブより」として、年表のように資料が並ぶ形式にとって代わられる。唯一真実らしく登場するのは、叔母(政権中枢に縁故がある)が述べる、「かつて誘拐されたリンドバーグの赤ん坊は実はナチスの下で養育されており、人質にされたリンドバーグナチスに操られ、用済みになったので拉致されたのだ」という筋書きだが、主人公の母には正気を失っていると判断されてしまう。事実は錯綜し、真実は主人公フィリップ少年も我々読者もわからない。
 思うにこれは、典型的な陰謀論的思考である。陰謀論の特徴は、「特定の個人ないし勢力が、状況をすべてコントロールしているはずだ」と想定して、真犯人探しをすることにある。しかし、たいていの場合、状況をすべてコントロールできているのは希で、実際には、ユダヤ人はおろか、ホワイトハウスナチスですら、完璧に状況を動かすことはできなかったであろう。この作品で唯一状況をコントロールできそうなのは、作者であるフィリップ・ロス本人であるが、その分身(子供ロスと筆者ロス)は明らかに断片的な事実しか掴んでいない。そこにおもしろさがある。
 しかし、「特定の誰かが状況をコントロールしているわけではないので、陰謀論は杞憂だ」と切って捨てるのもの問題である。作中のホームステッド法42(ユダヤ人を田舎に分散移住させる法)をウィンチェルがラジオで「強制収容所だ」とこき下ろすのに対し、親リンドバーグとなった兄は「強制収容所なんかないよ! 一言残らず嘘だよ、あんたら大衆をラジオの前に釘付けにするための駄法螺だよ!」と激昂する。実のところ、ホームステッド法24は、移住のための自発的意思を一応は保障しており、強制収容所とは異なる。ウィンチェルの批判は当たらないともいえる。しかしそこに罠があり、個別的には多少妥当でも、匿名的に行われる不正義があり、全体的な傾向にならないと認識できないときがある。誰かの陰謀というわけでもないのに次第に不正義がじわじわ進行しているとき、我々はなにができるのか? 本作はそう問いかけているように思える。

 ロスが示すひとつの回答は、最終章にある。ウィンチェル暴動からリンドバーグ失踪、新政権の発足にいたる政治上の過程が点描されたのち、章が替わって話が巻き戻り、反ユダヤ人暴動のなかで、孤立した知りあいのユダヤ人少年を主人公の一家が救出するエピソードが描かれる。大きな状況のうねりのなかで、半径5mのなかにいるものを救うとき、「わが家で起きていること」も「歴史」になったのだ。

あとがき30 奥書の1945:相田二郎写「書札次第」

 本ブログ初の、奥書記事である。

 相田二郎(あいだ, にろう, 1897-1945)は東京帝国大学史料編纂官の中世史家、古文書学者であり、佐藤進一の師匠格としても知られる。惜しくも終戦間近に夭逝したが、もし戦後も生きのびていれば、黒板勝美・辻善之助亡き後の史料編纂所を支える存在となっただろう。

日本の古文書〈上〉 (1949年)

日本の古文書〈上〉 (1949年)

 

 史料編纂所には、遺族から寄贈された相田二郎の臨写本がいくつか収められている。昔の学者は、みずから筆をとって現物そっくりの写本を作ることができたのだ。

 相田二郎書写本のなかに非常に印象的な奥書を発見したので紹介したい。書名は「書札次第」、底本は内閣文庫本という*1室町将軍の書札礼を記した書物である。画像史料編纂所が公開しているので、そちらも参照してほしい。

昭和二十年四月廿七日起筆、本所架蔵図書長野県下ヘ疎開搬出作業廿九日ヨリ始マリ五月二日終ル、コノ間余暇ニ書写ノ功ヲ遂グ、五月二日史料編纂 所ニ於テ録記ス

 おりしも大戦最末期、東京大空襲でも幸い無傷だった史料編纂所は、貴重な史
資料を疎開させるため急ピッチで作業を進めていた。そのなかで相田二郎はこの写本を作っていたのである。編纂所が内閣文庫から借りていた史料を、公務とは別に写していたのだろう。激務のなかでも、墨付全37丁を写 すのに1週間ほどしかかかっていない。私にはわからないが、写本作りはそんなスピードでできるのだろうか?

 そしてこの奥書を書いた翌月(6月22日)、疎開先の長野県で病にかかり、突如相田二郎は没する。享年49歳。死する年に出るはずであった原稿は、戦後、門人や元同輩の尽力により、大著『日本の古文書』上下巻として岩波書店から発刊された。

*1:国立公文書館デジタルアーカイブ内で検索した限りでは、底本を特定することはできなかった。

追記(8/25):国立公文書館で調査したところ、「文章之次第」(請求記号:153-0461)の臨模であることが分かった。筆跡から丁替わりまで忠実に書写している。調査に帯同せられた谷口雄太氏に感謝したい。

あとがき29 注の多い本:石井良助『新版 中世武家不動産訴訟法の研究』(高志書院、2018)

瀬野 昔の方の論文には、註はありませんものね。註ができたのは昭和に入ってからくらいでしょう? 註というのは読む人に一々後ろを見ろというもので失礼だと言われた年輩の先生もいらっしゃった。

―玉村 竹二, 瀬野 精一郎, 今泉 淑夫「禅宗史研究60年―上―(国史学界の今昔-28-)」、『日本歴史』(526)、1992

 瀬野(1931年生まれ)のいうことに反証を出すことは難しくないが、確かに昔の日本史学の論文に注は多くない。であれば、1938年に出たこの本は、さぞかし異様でかつ「失礼」な作品であっただろう。石井良助のデビュー作、『中世武家不動産訴訟法の研究』(初刊弘文堂書房)である。

 ”不動産訴訟”とは、史料用語でいう「所務沙汰」のことであり、所領などに関する鎌倉・室町幕府の訴訟制度を解明した巨編である。簡潔な本文に対して付く注の数は総計975。いずれも膨大な史料引用で満ちている。ここまで古文書を引用した研究書は、当時なかったのではないだろうか。

 そして、内容は体系的、網羅的、かつ詳細である。「中世の人間たちに、裁判はどうやったらいいのか、教えてやっているような本」(笠松宏至『徳政令岩波新書、1983)といわれるゆえんである。

徳政令――中世の法と慣習 (岩波新書)

徳政令――中世の法と慣習 (岩波新書)

 

  『中世武家不動産訴訟法の研究』は中世法制史研究の金字塔であり、現在でも現役の輝きを失っていない。これなくしては佐藤進一や笠松宏至のような後進が育つことはなかっただろう。

 ところが、この中世法研究の金字塔は、なかなか手に取れるものではなかった。

なぜか本書は一九三八年に弘文堂書房より刊行された後、いちども増刷、改版されることなく今に至っており、日本中世史研究者必備の書と言われながら、近年では古書店の店頭にすら見かけることのなくなった超稀覯本となっている。もはやベテラン研究者ですら、かろうじて図書館で借りたコピー製本を座右に於いているという状況であろう。

―清水克行「『新版 中世武家不動産訴訟法の研究』編集後記」

  私が見た限りでも、ある古本サイトで7万円で売られていた形跡があったのみで、市場に出てくることすらない貴重書だった。なぜ復刊しないのかと、つねづね悲憤慷慨していたところ、なんと高志書院によって、版面を組みなおした新版として出版されることになった。

新版 中世武家不動産訴訟法の研究

新版 中世武家不動産訴訟法の研究

 

 真に学術的な意味のある復刊を心から喜びたい。その上で、「中世の人間たちに、裁判はどうやったらいいのか、教えてやっている」石井説の良さも悪さも、それが後進に与えた影響も評価できるものと思われる。 

 

 

 

あとがき28 未発の可能性:『原平三追悼文集』(私家版、1992)

 年の瀬、京大前の古本屋で珍しいものを見つけた。
 戦前の、シリーズものの予約募集冊子である。日本史関係でいくつか買うことにしたが、まったく知らなかったシリーズものばかりでおもしろい。
 たとえば、蛍雪書院なる版元の、『歴史學叢書 日本研究篇』なる企画。

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全10巻のラインナップは以下の通りである。
(1)日本の文化:圭室諦成
(2)日本の政治:渡辺保ほか
(3)日本の外交:高橋磌一ほか
(4)日本の社会:風間泰男ほか
(5)日本の経済:中村吉治ほか
(6)日本の技術:遠藤元男ほか
(7)日本の思想:川崎庸之ほか
(8)日本の芸術:森末義彰ほか
(9)日本の近代:原平三ほか
(10)日本の現代:津吉英夫
 だが、全国の図書館の蔵書の状況を見るに、どうやらこれは2冊しか出なかったらしい。「豫約會員にだけ頒布致します」と謳っていたのに、これはちょっとひどい。残る8冊は、誰も手に取ることのない書物となったのだ。こうした未発の可能性を指し示す点に、予約募集の魅力があるのだろう。
 さて、第9巻として予定されていた『日本の近代』の総説は、原平三という人物に任される予定となっていた。

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これをみて私は、「ああ、原平三は、近代史家としてここまで期待されていたのだなあ」と腑に落ちた気持ちになった。原平三こそ、未発の可能性を体現する人物だからである。

 

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 私が原平三の名前を知ったのは、2016年秋の東大史料編纂所の大展示「史料を後世に伝える営み」である。「原平三日記 疎開関係手帖」というごく小さな古い手帳が出典されていた。1944年、戦火の拡大にともない、史料編纂所は所蔵資料の大規模な疎開を行う。そのきっかけとなったのが、原平三だったという。

 原平三は当時、文部省の維新史料編集官であり、郷里・長野県上田市に維新史料を疎開させる担当者であった。そのため史料編纂所にも疎開を奨めたのだという。
 原平三は1908(明治41)年生まれ。1933(昭和8)年に東大の国史学科を卒業し、以後、文部省維新史料編纂事務局に勤務しながら、維新史関係の論文を30編ほど発表した。
 原は疎開作業中に招集され、1945年、戦死する。ついに生前原は一冊の著作をも出すことがなかったが、彼の論文は、『幕末洋学史の研究』(新人物往来社、1992年)、『天誅組挙兵始末考』(同、2011年)のかたちで刊行されている。維新史料編纂会からは、戦後の明治史をリードする井上清、小西四郎、遠山茂樹、吉田常吉など錚々たる人物が出ている。本来ならそれに原平三が加わるはずだったと、宮地正人は『天誅組挙兵始末考』の解題で述べている。

 

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 惜しまれながらも若くして戦場で没した歴史学者、原平三。どのような人物だったのか気になっていたところ、高野山の奇傑・S博士から、思いがけず『原平三追悼文集』(私家版、1992)なる本を貸していただくことができた。

父は、太平洋戦争で、フィリピン・ミンダナオ島ダバオにて昭和二十年四月十九日戦死いたしました。

という「あとがき」の書き出しの通り、原の長女である小見寿氏がまとめたものである。

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大久保利謙、児玉幸多、小西四郎、遠山茂樹など、東大国史学科や文部省などで原と付き合いのあった歴史家たちが多数追悼文を寄せている。

丸坊主の原さんが京子ちゃんをだいて、哲ちゃんの手を引いて、突然私の家に見えた。頭に手をあてて「とうとう来たよ」と笑っていた。「こんな年輩の者まで来るのではね」といわれた。余りに淡々とした話しぶりに、私の方があせりにも似たものを感じた。後で考えれば、あきらめたということであったのかもしれない。今でも時たまこの時の原さんの淋しい笑顔を夢の中で見る。―遠山茂樹(二十三回忌寄せ書きより)

本書を一読して感慨深いのは、遺されたものたちの思いの強さと色褪せなさだ。二十三回忌、三十三回忌、四十七回忌と節目節目で旧友や家族が集い、原を追悼してきた記録が本書でひとつになった。未発の可能性、むしられた芽としての原がいかに大きな存在だったがわかる。