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あとがき愛読党ブログ

本文まで読んでいることを保証するものではありません

あとがき27 バブル期の日本人がどれだけバグってたか見てほしい: 叢書「思想の海へ [解放と変革]」刊行のことば(社会評論社、1989)

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 自分は中高生のころ岩波文庫の末尾にある岩波茂雄の(実は三木清の草なんだって)「読書子に寄す―岩波文庫発刊に際して―」が好きで好きで、何度も読み返して、「読者は自己の欲する時に自己の欲する書物を各個に自由に選択することができる。」の文に動かされ、「うおお買わなきゃ」と書店に走り、「携帯に便にして価格の低きを最主とす」の言に化されて、新たな文庫本をわざわざポケットにねじ込んだりしたものだった。

 それはさておき、この「読書子に寄す―岩波文庫発刊に際して―」にせよ、○○文庫や○○新書などシリーズものの「刊行のことば」は、版元の意気込みとともに、図らずも時代を映す鏡になっていることが多い。岩波文庫なら、円本の流行と戦前の教養主義を、青版岩波新書(1949)なら敗戦後の民主化を、というように。

 今回紹介するのは、1989年、バブル真っ盛りに書かれた叢書の「刊行のことば」だ。社会評論社という出版社があった。今でもある。このとき創設20周年ということで、「思想の海へ [解放と変革]」全31巻という一大叢書を企画した、ということだ。ともかく、バブル期のバグった感じが全面に出ているので、見てほしい。

刊行のことば

 江戸期から昭和・戦後期まで三百年間、日本人自身が時代の最先端において手作りしてきた〈生ける思想〉の集大成(アンソロジー)をおとどけします。
 私たちは何者であったのか? この世紀末に何者であるのか? 二一世紀に向けて私たちは何者になろうとするのか?
 ジャパン・アズ・ナンバーワンの極頂に立って、虚空に向けてジャンプしなければならないすべての日本人に、この“聖歌”をリレーします。
 未来に向かって漕ぎ戻れ、この滾滾たる思想の水脈を!七色の虹(レインボー)を二一世紀の宇宙に架けよう!江戸は黄(イエロー)、明治・大正は橙(オレンジ)、文化は藍(インディゴ)、反天皇制は赤(レッド)、フェミニズムは紫(パープル)、周辺は緑(グリーン)、昭和は青(ブルー)……
 虹立ちぬ、いざ生きやめも!
 ポスト昭和の到来を画する、気鋭の編集・スタッフによる巨大な紙碑(モニュメント)。現代のシャープなズーム・アップ。社会評論社二十年にわたる蓄積を世に問う記念出版。
 世紀末危機のただなか、二一世紀へと向けて、思想を持たなければ生きられない時代が到来します。私たちの一人ひとりが自らを解き放たなければならない、生き方を変えなければならない。この近過去の日本人自身の結晶を〈生ける糧〉として。
 一九八九年十月

 

 たいへん険しいものがある。エズラ・ヴォーゲルにもこの気持ちを分けてあげたい。

 ちなみにこの叢書は、近世・近代日本の思想的な文章をテーマごとに集めたアンソロジーで、各巻のタイトルも、『島々は花綵―ヤポネシア弧は物語る―』(25巻)、『方法の革命=感性の解放―徳川の平和(パックス・トクガワナ)の弁証法―』(2巻)、『フェミニズム繚乱―冬の時代への烽火―』(23巻)あたりは通底する言語センスを感じる(なお巻によって、内容の出来不出来の差はけっこうあるらしい)。

 以上の「刊行のことば」をツイッター上で放流したところ、それなりに反響があった。

 やはり80年代ニッポンのノリはこんなんだったらしい。

 また、このころ話題になっていた、メティ(笑)こと経済産業省が直々に作った「日本の伝統的な価値観をまとめたコンセプトブック」であるところの『世界が驚くニッポン!』が、「日本スゴイ!」の共通点から連想・比較されることも多かったようだ。

  ご指摘の通りで、官製「日本スゴイ」がこの味を出せるとは思えないし、この「刊行のことば」からは、なにかを咀嚼し内面化しないと出ない凄みがある。

 ちなみにこの叢書の徳をひとつ挙げておくなら、予定していた全31巻が、すべて刊行されていること(NDL-OPACで調べた限り)―これは素直にスゴイ!と言いたい。 

あとがき26 デジタル人文学のために?:大森金五郎編『史籍解説』(三省堂、1937)

 先日古本屋で、大森金五郎編『史籍解説』という小さな本を買った。これは戦前に作られた史籍専門の解題集(初版は1937年、三省堂。のち覆刻版が1979年に村田書店から出る。私が買ったのは復刻版)で、『古事記』だとか『吾妻鏡』だとかの書名を挙げたのち、巻数、内容、著者、編纂沿革、注意などの諸事項を簡単に解説している。収録書目は328点。

 なお編者の大森金五郎は学習院大教授として有名な国史学者。早稲田大学での講義をきっかけとしてこの解題を編んでいたが、出版直前に死去してしまい、期せずして遺著となってしまったという(「はしがき」、「本書出版にあたって」)。

 正直なところ、内容には誤りも少なくない。現在から見て間違っているのはともかく、初版刊行時(1937年)の水準からみてもどうなの?というところはままある。

 また、『日本書紀』の次に江戸時代の『日本書紀通証』が出てくるように、古代・中世の史料と近世の和学者の著作が混ぜこぜで掲載されているのも―19世紀的な歴史学の在り方を伝えていてたいへん興味深いが―現代の読者はちょっととまどうだろう。ということで、いま普通に使うには向いていない代物だ。

 およそ解題というのは、目録と違い、研究の進展に伴う内容の陳腐化の程度が大きい。今ならば、日本史専門の辞典の諸項目、あるいは『国史大辞典』から解題系の記事を抜き出した『日本史文献解題辞典』などを使うべきだろう。

日本史文献解題辞典

日本史文献解題辞典

 

  だが、前時代の骨董品に見える『史籍解説』は、(大上段に振りかぶっていうと)デジタル人文学にとって大きな価値を秘めている。
 本書は、同時代の史学者が手に取ることのできた、戦前に刊行されていた史料集をかなり網羅している。そして、当時の刊行物の少なからざる部分はパブリック・ドメイン化し、国立国会図書館デジタルコレクションなどで公開されている。つまり、『史籍解説』には、今ウェブで見ることができる史料がたくさん記されているのだ。

 ためしに第一篇「概説」の書目を挙げてみよう。これらの多くはデジコレ等で閲覧することができる。

  • 大日本史
  • 野史
  • 本朝通鑑
  • 国史大系
  • 群書類従
  • 続群書類従
  • 国史大系
  • 改定史籍集覧
  • 続史籍集覧
  • 存採叢書
  • 国書刊行会出版書
  • 故実叢書
  • 古事類苑
  • 史料大観
  • 史料通覧
  • 日本教育文庫
  • 日本古代法典
  • 大日本租税志
  • 日本田制史
  • 大日本農史
  • 大日本貨幣史
  • 大日本駅逓志稿
  • 稿本日本帝国美術略史
  • 工芸志料
  • 日本教育史資料
  • 外交志稿
  • 海軍歴史
  • 陸軍歴史
  • 日本戦史
  • 古今要覧稿
  • 本朝軍器考
  • 読史余論
  • 官制沿革略史

 ※今「大日本史」や「野史」を使うヤツなんているのか!?というのはさておき…

 あとがき愛読と銘打ちながら、このブログには、ウェブでの史料をまとめた記事がいくつかある。かつて自分は、国会図書館デジコレの有象無象の山から、日本中世史の史料集を抜き出してリストアップできないかと試してみたことがあった。

atogaki.hatenablog.com

 そのときはいろいろな検索を試して使えそうな史料集をかき集めたのだが、あの時この『史籍解説』を知っていれば…と思う*1

 しかも、戦前の史料解題として、『史籍解説』には類書がない。戦前の国史学では、国文学と比べて解題に対する意識が低く、戦前版の『国史大辞典』(吉川弘文館)や『国史辞典』(冨山房)にも史料解題の記事は少なかった。戦前期において史籍専門の解題書は、この『史籍解説』以外現れなかったという(熊田淳美『三大編纂物の出版文化史』勉誠出版)。

三大編纂物 群書類従・古事類苑・国書総目録 の出版文化史

三大編纂物 群書類従・古事類苑・国書総目録 の出版文化史

 

  研究書と比べて、史料翻刻は時代が進んでもあまり古びず、戦前、あるいは江戸時代のものでも十分に使用に耐える場合が多い。本書をたよりにしてデジコレの大海を探検すれば、簡単にウェブで一次史料の翻刻にアクセスできる。これは、図書館があまりにも遠方だとか、研究機関に所縁がないとか、海外に住んでいるとかの日本史を学ぶ人々にとって、大きな助けになるのではないだろうか。いわゆるデジタル人文学にもひとつの貢献をなすだろう。

 だが、戦前の史料集がウェブで流布していることに批判的な意見もある。たとえば、鎌倉期の公家日記のひとつ「勘仲記」(「兼仲卿記」とも)に関していえば、戦前の史料大成版はミスの多い謄写本を底本にしているので、善本である自筆本を底本にした史料纂集版(現在刊行中)を使うのがもっともよい。ところがウェブ公開されてるからといって戦前の史料大成版をみな使うようになってしまえば、せっかく厳密に新訂版を出している意味がないではないか…という意見である。良くないテキストを流布させるなというのも一理ある。

 だが、国会図書館でデジタル化に取り組んだ担当者はこう言う。

実際、戦前の日本の植民地になっていた時代の朝鮮に関する資料も利用が多いが、時代背景や、当時の日本人の朝鮮半島に関する知識や考え方などを知らずにそういった資料を読むことで、一方的な視点から書かれた内容を鵜呑みにしてしまう危険性はある。

 それでも、逆に言えば、戦前の日本人が、朝鮮半島をどのように捉えていたのか、という資料が、容易に手に入るようになった、ということが、日本社会の知的活動を活性化する可能性に、我々は、いや少なくとも私は賭けたい。

―大場利康「図書館が資料をデジタル化するということ」(楊暁捷・小松和彦荒木浩編『デジタル人文学のすすめ』、勉誠出版、2013)

デジタル人文学のすすめ

デジタル人文学のすすめ

 

  デジタル化でウェブに出てきた史料は、悪い本ばかりではない。たとえば南北朝期の播磨国の地誌「峰相記」の最古写本(斑鳩寺蔵、永正8年写)は戦前に影印版が出ており、以下のようにデジコレで公開されている。

国立国会図書館デジタルコレクション - 斑鳩寺と峰相記

 国会図書館のデジコレをはじめ、ウェブの世界には、意義や価値づけがされずただおびただしい資料がナマで放り出されているのが現状だ。そこに分け入り価値あるものを引き出すためのサーチライトとして、『史籍解説』のような戦前の古い解題書が役に立つのではないか。これが、今回の私のささやかな気づきだ。

 

……ところが、難点がひとつある。肝心の『史籍解説』自体が、デジコレでウェブ公開されていないのだ*2戦後再刊されてしまっているからだろうか(覆刻した村田書店は1990年代に活動を停止しているように見えるが)*3。ということで、なんとも締まらないオチになってしまうのだった。

*1:といっても、私が書いた記事に挙げてあって、『史籍解説』にないものも多い。当時刊行中だった史料大成がないのはともかく、文科大学史誌叢書や大日本史料を挙げてないのは何事か、大森金五郎。また同時代人も指摘するように、仏書や地誌を丸ごと落としているのもよくない。

*2:なお、デジコレで公開されている大森金五郎述『国史概説』(日本歴史地理学会、1910)に付録として日本歴史地理学会編「国史問答」がついている。これは第1問~50問までは大森が史籍を解説したもので、『史籍解説』の第1篇「概説」とほぼ構成が同じであるため、種本となったものと思われる。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/769275/105
これを使えば多少は『史籍解説』の代わりになるかもしれない。

*3:「保護期間満了であれば、現在の入手可能性の有無に関係なくインターネット公開可能であり、覆刻されているかは関係ない。大森金五郎”編”と表示されており、他の著作者がいる可能性があるので非公開なのではないか」と大場利康氏からご教示を得たので、本文の表現を修正した。

あとがき25 或る古文書学徒の死:勝峯月渓『古文書学概論』(目黒書店、1930)

 

古文書学入門

古文書学入門

 

  佐藤進一『古文書学入門』には、参考にすべき古文書学の名著が冒頭に掲げられている。一人の著者が書きおろした古文書学の体系書を以下にピックアップしてみよう。

  • 久米邦武『古文書学講義』(1902年完結。早稲田大学出版部)
  • 勝峯月渓『古文書学概論』(初刊は目黒書店、1930年)
  • 黒板勝美『日本古文書様式論』(1903年提出博士論文。『虚心文集 第6』の一部として1940年刊行)
  • 相田二郎『日本の古文書』上下(1945年成稿。書刊は岩波書店、1949-54年)
  • 伊木寿一『日本古文書学』(雄山閣、1958年)
  • 中村直勝『日本古文書学』上中下(角川書店、1971-1977年)
  • 佐藤進一『古文書学入門』(初刊は法政大学出版局、1971年)

 久米を始め、ほとんどの人物は著作集が編まれるような大学者ばかりである。ところがそのなかに、勝峯月渓という見慣れない人物がいる。『古文書学概論』を除き勝峯の著作や論文は見当たらず、いわば無名の人物だ。

 しかし、勝峯の『古文書学概論』は835ページという大著であり、また上で挙げた体系書のなかでは、久米に次いで早く刊行されている。そのため、それなりに珍重されたようである。たとえば伝説的な古書肆の反町茂雄も、古文書を扱う上で勝峯本をよく利用したという。

まだ参考書の多くない時代には、勝峯月渓さんの「古文書学概論」と首っ引きでした。

反町茂雄『日本の古典籍―その面白さその尊さ―』p137

 刊行当時のある書評を見ても良書として称賛されている*1。刊行の50年後(1970年)に国書刊行会から勝峯本が復刊されているのも、その価値を表しているといえよう。

古文書学概論 (1970年)

古文書学概論 (1970年)

 

 

 勝峯月渓とはいかなる人物なのだろうか。『古文書学概論』の序文や『京都帝国大学一覧』、あるいは後述する丸山二郎論文から彼の略歴を簡単にまとめておこう。
 生年は1899、没年は1928年*2。夭逝した人物である。『古文書学概論』は彼の死後に刊行されたもので、遺著となる。

 三重県妙心寺派の禅寺に生まれ、京都花園中学校を経て1918第三高等学校入学。1921年に京都帝国大学文学部史学科に入り、国史学を専攻した。卒業は、1924年3月である。卒業論文の題は「徳川時代初期の宗教政策」。このとき史学科を卒業したのは彼だけだった。

 卒業時の京大国史講座の陣容を見ておこう。

 勝峯は卒業と同時に京大の大学院に所属する。専攻の題目は「日本近世宗教史」。その間、京大国史研究室の副手を務めた。1925年から大谷大学と花園中学校で教鞭をとるようになった。1927年3月、京大の副手と花園中学を辞し、同年4月から大谷大学で古文書学の講義を担当することとなった。1928年秋に没するまでの1年半講義を行った。大谷大学は1922年に大学令による設立が認可され、翌年に文学部を開設するという拡充期にあったので、古文書学の講座が新設されたのだろう。

 『古文書学概論』を見てみよう。三浦周行の「序」と西田直二郎の「序」、そして編集を担当した勝峯と同世代の徳重浅吉(京大卒。のち大谷大学教授)の「例言」が冒頭に掲げられている。
 三浦周行の「序」(昭和4年12月付け)では、三浦の古文書学講義を受講しており、京大の古文書の整理を副手として行った実績を見込み、勝峯を大谷大の講師に推薦したことが、本書のできるきっかけだったことがつづられる。
 西田直二郎の「序」(昭和5年1月7日付け)では、勝峯の古文書学が三浦に学ぶところが多いと述べられる。また、生前の勝峯が本書の元となる「七冊の草稿」を携え、刊行を西田に相談としたという。
 徳重浅吉の「例言」は、勝峯が心血を注いだ原稿を刊行する苦労と使命感、そして補訂と図版選択の方針などが記されている。
 序と例言は、この若き学徒の遺著が、三浦周行ら京大の学風を継いだ古文書学の大著であることを語っている。

 

 ところが、これとまったく異なる証言がある。
 丸山二郎が戦後に記した「古文書學についての二三の覺書 」という小文がある*3。丸山は東大の黒板勝美の弟子で、黒板から引き継いだ『新訂増補国史大系』の完成に尽力した人物である。

 これはあらゆる意味で衝撃的な文章である。
 丸山は、勝峯の知人だった。1927年はじめ、丸山は勝峯から、東大で丸山が受けた黒板勝美の古文書学講義のノートを見せてほしいと頼まれた。ちょうど大谷大学で古文書学の講義の準備をしていたころである。丸山の文章を引こう。

色々話をすると、勝峯君は悲痛というより以上、自分に古文書学を講じよというのは死ねというのも同じと云って、大谷大学にて古文書学を講義することになったわけを流涕の中に話した。

すでに尋常ではない。勝峯曰く、なんと彼は古文書学概説を受けたことがないので、黒板の講義ノートをすべて筆写したいのだという。丸山も当惑しただろう。彼は当代随一の古文書研究者・三浦周行の門下生なのだから。

それ程なら、その頃の三浦博士や外の方に又は友人学生等から聞くなりノートを借用することも出来ないものかなど話した私は、勝峯君の話を聞いて却って気の毒になって、私のノートについて説明した上に、その希望のまゝに全部のノートを貸して別れて姫路に帰った。

丸山は「勝峯君の話」の込み入った内容を敢えて書いていない。当時京都帝大で古文書学の講義はなかったのだろうか?三浦周行と勝峯とのあいだに何かわだかまりでもあったのだろうか?すべては想像するしかない。

 

1928年夏、2人はたまたま京都駅で邂逅する。

学生当時のまゝに無口で昨年の如くに沈痛そのものゝ様子であった。昨年私のノートを写したことや古文書学講義の件については二人共一言も口外することのないまゝに分かれた。

これが勝峯と丸山との最後の会話となった。1928年11月20日、勝峯は死ぬ。『古文書学概論』には一切書いていないが、実は自殺であった。即位の大典で昭和天皇伊勢神宮に参詣する同じ日に、地元・宇治山田の鉄道に飛び込んだのだという。

 死の翌々年、『古文書学概論』が出版される。丸山曰く、その構成や方法論、分類法はかなり黒板講義ノートに近かったという。黒板はそれと知らずにこの勝峯本を入手し、大いに共鳴して精読していたため、いたたまれなくなり、自分が黒板のノートを提供したことを告白した、と丸山は述べている。
 丸山は、『古文書学概論』を黒板古文書学の亜流だと断定し、生前にこの草稿を見たという西田直二郎の序文を疑う。また、このような形で出版することを勝峯が希望していたことを疑う。一方で、これを黒板古文書学の全くの盗作であるという評価を下すことはせず、2年間の大谷大学での古文書学講義を「全く死闘に近い勉強であったろう」と同情を交えながら回想する。
 勝峯の涙、そして沈痛な面持ちの裏になにがあったのか。そして突然の自死とどうつながっているのか。残されたものは多くを語らない。また丸山の実体験に基づく証言も裏付けるものがなく、検証する術がない。真相に近づきうる方法のひとつは、『古文書学概論』のテキストを黒板の著作と突き合せ、どの点が引き写しで、どの点が勝峯によって生み出されたものかを綿密に検討することだろう。しかしそれは、あとがき愛読の範囲をとうに超えているのであった。

*1:武田勝蔵の新刊紹介。『史学』9(3)、1930年。

http://ci.nii.ac.jp/naid/110007472869

*2:http://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/00028369

*3:『駒澤史学』(4)、1954年。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006999290

あとがき24 憲法上諭誤記事件を検証する:大日本帝国憲法(1889)

 なんと今回は憲法の話だ。もちろんブログのポリシー通り、本文には一切触れない。

 1889年(明治22)2月11日、大日本帝国憲法が発布された。その華やかな式典のウラで、3つの珍事件が起きたことが伝えられている。
伊藤博文枢密院議長が、式典で使う憲法原本を官邸に忘れてきた。
森有礼文部大臣が式典に来ないと思いきや、なんとその朝に暗殺されていた。
憲法の上諭に日付の誤記があった。

 こんなドタバタな幕開けでも、憲政はここから130年間続いてきたのだから、世の中なんとかなるものだ。

 しかしこの3つのうちでも、憲法上諭誤記事件は、多少あとを引いたためか、諸書でよく取り上げられる。諸書の記述をまとめると事件の顛末は以下のようになる。

憲法上諭(前文とされる場合もあるが正確ではない)のうち、「明治十四年十月十二日ノ詔命ヲ履踐シ」とすべき部分を、「十月十四日」と誤記した。
②式典で天皇が誤記をそのまま朗読してしまった。
官報もその誤記を残したまま発行されてしまった。
④起草者の井上毅は責任を取り進退伺を出したが、お咎めなしとなった。

 ちなみに上諭とは何か。六法などに載る大日本帝国憲法はたいてい、告文、憲法発布勅語、上諭、憲法本文の四つのパートに分かれている。上諭は、憲法本文を天皇が裁可したことを示す文章で、御名御璽と内閣大臣の副署がなされている。憲法原文はここを見てほしい。

 ①はつまり、帝国憲法制定のきっかけとなった国会開設の勅諭(1881)の日付を間違えたのである。ありがちな凡ミス。しかも一世一代の場で、かの正確無比な井上毅がやらかしてしまうのだから、ウラ取りと確認がいかに大切なことかと実感する。

 これには井上毅も非常な責任を感じたらしく、「死を以て申訳するの外なくと既に決する所」(『明治大正政界側面史』)だったらしい。「大日本帝国憲法上諭文中に、十四年十月十二日と有之候処、十月十四日と誤写仕、其侭御発布相成候段、全く私一人の不注意の責無所遁*1」という同年2月13日付の井上の進退伺が残されており、また同日付の元田永孚宛の書簡で「願わくは厳重之処罰を受け候事に有之度奉冀候」と書いているという(陸奥小太郎「憲法上諭文の誤謬と井上毅の進退伺」、『明治文化』9(11)、1936)。これらは④を裏付ける事実だ。

 また日付が誤記のままの官報1889年2月11日付官報号外)も残っており、訂正記事(1889年2月14日付官報「正誤」)も残っている。これは③の裏付けとなる。

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 さてここで、「ウラ取りは大事」の教訓にのっとり、憲法原本で誤記はどうなっているのか見てみたい。

 憲法の原本、つまり御名御璽と大臣副署がなされた御署名原本は国立公文書館のデジタルアーカイブで見ることができる。ところが驚くなかれ、原本の上諭に誤記がないのだ。正しく「十月十二日」となっている。修正の痕跡もまったくない。高精細画像が提供されているのでよーくみてほしい。

www.digital.archives.go.jp

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発布式当日朝に横死した森有礼が上諭に署名しているから、この原本が発布式の事前に作られてたことは確実。ミステリーだ。

 ありうる可能性を挙げてみよう。
・発布式ののち、誤記のある紙だけ差し替えた。
天皇が読み上げたのはこの原本ではなく、別の原稿であり、そこに誤記があった。
天皇は誤記を読み上げておらず、実際は官報のみの誤りだった。

 結論からいうと、第三の説、つまり、天皇が誤記をそのまま朗読してしまった(②)というのがガセではないか、と私は思う。それでは、諸書で②がどう書かれているのかくわしく見てみよう。

●瀧井一博『文明史のなかの明治憲法』(講談社選書メチエ)pp148-pp149
発布式当日の「三つの椿事」に触れている。

最後に、井上毅の日付誤記事件である。この日天皇が発布式で朗読し、官報にも掲載された憲法上諭文中に、日付の誤記があった。

はっきりと、天皇が誤記を朗読したと書いてある。これ以下の詳細(井上毅の進退伺など)は、私が冒頭で述べたとおりの記述だ。

文明史のなかの明治憲法 (講談社選書メチエ)

文明史のなかの明治憲法 (講談社選書メチエ)

 

「三つの椿事」について瀧井本が典拠にしている文献のひとつが憲法学者大石眞が著した次の文献である。
●大石眞『日本憲法史の周辺』(成文堂、1995)pp244-pp245

いずれにせよ、記録に照会せず、記憶に頼った記述を鵜呑みにしたため(…)そのまま天皇が朗読し、官報号外の載せるところになってしまったわけである。

日本憲法史の周辺 (成文堂選書)

日本憲法史の周辺 (成文堂選書)

 

 なお大石眞は別の文献で以下のようにも書いている。
●大石眞『日本憲法史 第2版』(有斐閣、2005)pp237

天皇が読み上げた告文中の明治十四年の立憲政体詔書の日付の誤りが発見されたりして

「告文」には明治14年の詔勅は登場しないので、これは「上諭」の誤り。ただ、誤記を天皇が朗読したという認識は一貫している。

日本憲法史

日本憲法史

 

次に、ちょっとした読物になるが、 

●近藤金廣「憲法誤記事件始末」(同『紙幣寮夜話』、原書房、1977)
天皇が誤記を朗読するさまが、どこかで見てきたのかというぐらい、おもしろおかしく書かれている。

「十月十四日の詔命を履践し……」
力強い天皇のお声が、一語々々はっきりと耳の底によみがえってくる。
「しまった。」
井上はつぶやいたが後の祭だった。

紙幣寮夜話 (1977年)

紙幣寮夜話 (1977年)

 

 この近藤金廣が編集した

大蔵省印刷局編集『大蔵省印刷局百年史 第2巻』(1972)pp544

でも、同じ記述が見える。

それは慎重の上にも慎重を期したはずの憲法前文に思いもよらぬ誤りがあり、それがそのまま官報号外に掲載されてしまったからである。(…)しかも憲法発布の大典で、明治天皇がそのままこれを朗読してしまわれたから、事は一層めんどうになった。

 これら近藤金廣が依拠しているのが

尾佐竹猛『日本憲政史大綱 下』(日本評論社、1939)pp798-801

だ。

尾佐竹猛著作集 (第8巻)

尾佐竹猛著作集 (第8巻)

 

 しかしこれは尾佐竹猛のオリジナルな話ではない。尾佐竹はふたつの文献を典拠にしている。ひとつが上述の陸奥小太郎「憲法上諭文の誤謬と井上毅の進退伺」(1936)。そしてもうひとつが下記の林田本だ。

林田亀太郎『明治大正政界側面史 上巻』(大日本雄弁会、1926)pp204-pp205

瀧井本、佐藤本、尾佐竹本、すべてこれを参照している。おそらく憲法発布式の三椿事をまとめて書いたものの元祖なのだろう。

事実から云えば只僅に二日の差、至って軽微の様だが、事態から云えば重大である。何となれば天皇に虚偽の時日を朗読させ申したからである。

林田亀太郎の政治史

林田亀太郎の政治史

 

  ちなみに、これらの文献を簡潔にまとめたものとして

●長田博「帝国憲法の前文の誤記について」(『北の丸』第7号、1976)

があり、私もかなり参照したが、誤記を天皇が朗読したかどうかにはあまり関心が注がれておらず、旧説を踏襲しているように読める。

 ともあれ、天皇が誤記をそのまま朗読してしまった(②)という言説の源流にまで一応たどりつくことができた。それでは実際に、1889年の憲法発布式でなにがあったのかを探ってみよう。

 当時の官報1889年2月12日付官報)には簡潔な式次第が書かれている。

内大臣高御座に進て憲法を奉る。勅語あり。憲法を総理大臣に下付せられ、総理大臣進みて敬礼し拝受して退く。式畢りて入御。

この「勅語あり」のなかに上諭が含まれるかどうかがカギになりそうだ。

 次に、伊藤博文の手元に集まった憲法関係の資料を編纂した『憲法資料』を見てみよう。そこに、当日の式次第が掲載されている。

国立国会図書館デジタルコレクション - 憲法資料. 上巻

次、内大臣〔三条実美〕筥を開け、詔書を上る。
次、詔書を宣読し給う。畢て、
 此間祝砲執行
 詔書並びに憲法典範を総理大臣に下付し給う。総理大臣〔黒田清隆〕之を奉じて内閣書記官長をして奉持せしめ、更に進んで奉答す。畢て、
入御
議員退出

 三条実美詔書憲法、典範を入れた箱を捧げ持っていた)が渡し天皇が読み上げた「詔書」は、明らかに「憲法」「典範(皇室典範)」と書き分けられており、別物のように読める。国立公文書館デジタルアーカイブで見た通り、憲法原本は上諭と本文が一体化しているから、天皇が読み上げた「詔書」は上諭ではないのではないか、という疑いが生じる。

 次に、明治天皇一代の実録である『明治天皇紀』明治22年2月11日条を見てみよう。膨大な量があるため、当日の概要のみを記す。

紀元節御親祭。

・・午前9時、出御。賢所に渡御し、御拝。皇室典範並びに憲法制定の告文を奏する。

・・次に皇霊殿を御拝、再び告文を奏する。次に神殿に御拝。入御。

憲法発布式。

・・午前10時、内閣総理大臣枢密院議長、内閣大臣ほか諸官参集。

・・午前10時40分、天皇出御し高御座に立御。三条実美(内大臣)、箱から憲法を取り出し憲法天皇に渡す。

・・天皇憲法を受けとり、勅語を賜う。

・・天皇、総理大臣の黒田清隆憲法を授ける。これにて式終わり。

そして、天皇が朗読した勅語として『明治天皇紀』が掲げているのは、六法などでも引用されている憲法発布勅語だ。つまり、上諭ではない。最初にのべた憲法の4パートに即して整理すると

●告文…午前9時からの宮中三殿における御親祭で、皇祖皇宗に対し天皇が朗読。

憲法発布勅語…午前10時40分からの正殿における発布式で、総理大臣ら諸官に対して天皇が朗読。

●上諭・憲法本文…天皇朗読せず。

つまり、天皇憲法上諭の誤記をそのまま朗読してしまった(②)というのは、あとから生まれた俗説なのではないかと結論できる。

 

******

 そうすると、井上毅が責任を感じていたのは何になるのだろうか。井上の進退伺には「十月十四日と誤写仕」としか書いていないので、実態としては誤記のまま官報等を流通させてしまったことにつきるのかもしれない。これらの点は、当時の書簡や日記などの一次史料を漁れば明らかにできるかもしれない。

 ともあれ、100年間ぐらい言われてきたことを覆すこともできるぐらい、ウラを取り、出典にあたることは大切だ。特にデジタルアーカイブが充実し、出典を探すコストがかなり下がってきた現在では、さらに重要になっている。井上毅が残した一文字の誤記から得られる教訓は大きく、恐ろしい。

 

追記:なおこの記事を書くにあたって、猫の泉(@nekonoizumi )さんからのご教示を参考にした。ここで感謝の意を述べたい。

*1:以下引用史料は適宜現代表記に改める。

あとがき23 原態本の発見?:丸山眞男『現代政治の思想と行動』(未來社、1956-57)

 あとがき愛読党員たるもの、かの丸山眞男の名著『増補版 現代政治の思想と行動』の「増補版への後記」にいつかは向きあわなくてはならない。今回はそれへの布石ということで、その旧版についての小ネタを取り上げたい。

〔新装版〕 現代政治の思想と行動

〔新装版〕 現代政治の思想と行動

 

  テクストを追求するものにとって、原態(オリジナル)は特別な意味を持っている。目の前にあるテクストよりもさらなる古態本、できれば原態本を手に取りたいという欲望が、眼には見えない『〈原〉源氏物語』や『〈原〉太平記』を研究上仮設させてきた。

 さて、丸山眞男の『現代政治の思想と行動』は戦後からの10年間丸山が時局と関わりつつ発信した成果がまとめられた論文集だ。増補版に先立つ旧版は、日頃あまり意識していないが、上下巻の分冊で刊行されている(増補版で合冊された)。実は、旧版よりも先立つ『〈原〉現代政治の思想と行動』を推測するための資料を自分は私蔵している。画像を見てほしい。

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 これは、とある方から譲り受けた石母田正『古代末期政治史序説(上)』初版本(未来社、1956.11.15)にはさみこまれていた未來社の新刊広告だ。ウラ面が石母田の、そしてオモテ面がかの『思想と行動』の予告になっている。これは多分国会図書館も持ってないレアものだ。

 戦後を代表する知識人のふたりが奇しくも同じチラシに名を連ねているのはなかなか感慨深いのだが、気になるのは、予告されている『思想と行動』の内容が、われわれが知っているものと多少違うことだ。

 チラシの末尾にはこう書かれている。

十一月末刊 A5判上製函入 四〇〇頁 予価四八〇円

 しかし、実際に出た『思想と行動』は上下巻に分冊されており(上巻280円、下巻350円)、しかもハードカバーではなく軽装だった。
※ちなみに軽装にしたのは出版社ではなく丸山の希望で(「増補版への後記」より)、戒能通孝から「貧弱な装幀」と文句を言われたらしい(丸山「三十五年前の話」)。出版日付も、上巻は1956年12月15日、下巻は1957年3月30日で、チラシの予定よりも遅れている。

 「目次」として出ている内容予告にも異同がある。チラシから引用しよう。

目次
第一部 現代日本政治の精神状況
超国家主義の論理と心理 日本ファシズムの思想と運動 軍国支配者の精神形態 ある自由主義者への手紙 恐怖の時代 日本におけるナショナリズム 講和問題によせて 「現実」主義の陥穽
第二部 イデオロギーの政治学
西欧文化と共産主義の対決 ラスキのロシヤ革命観とその推移 ファシズムの諸問題 軍国主義ナショナリズムファシズム スターリン批判における政治の論理
第三部 政治的なるものとその限界
科学としての政治学 人間と政治 肉体文学から肉体政治まで 権力と道徳 支配と服従 政治権力の諸問題 政治的無関心

表記の相違は以下の通り(左がチラシ;右が刊行本)
・西欧文化と共産主義の対決→西欧文と…
・ラスキのロシヤ革命観とその推移→…ロシ革命観…
軍国主義ナショナリズムファシズムナショナリズム軍国主義ファシズム
スターリン批判における政治の論理→スターリン批判における政治の論理
・政治的なるものとその限界→政治的なるものとその限界
政治的無関心→(収録されず)
 だいたいは細かい表記の違いだが、「西欧文化」と「西欧文明」は実質的意味まで変わってくるかもしれない。
 そして、刊行時には収録されなかった「政治的無関心」。これは、丸山が『政治学辞典』(平凡社、1956)に執筆した大項目「政治的無関心」のことだろう。『政治学辞典』に執筆した項目のうち、いくつかは(統合や加筆を経て)『思想と行動』に収録されているのでありうべき話だ。ちなみに「政治的無関心」は、松本礼二が編んだアンソロジー『政治の世界』(岩波文庫、2014年)に入っている。

政治の世界 他十篇 (岩波文庫)

政治の世界 他十篇 (岩波文庫)

 

  そしてこのチラシがはさまっていた『古代末期政治史序説(上)』初版本の奥の近刊案内には

A5判 400頁 予価450円 12月上旬刊

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とあり、チラシの予告からさらに変更されている。

 このチラシや『古代末期政治史序説(上)』が発行された1956年11月ごろ、丸山はいったい何をしてたのだろうか。
 『思想と行動』刊行のころを丸山が回顧した「三十五年前の話」(『ある軌跡―未來社40年の記録―』)というエッセイを見てみよう。
1956年11月、丸山は『思想と行動』の追記と補注の執筆真っ最中だった。11月1日と7日の2回に分けて第一部の追記と補注の原稿を編集に渡し、第一部の追記・補注を最終的に書き上げたのが12月2日(上巻刊行の2週間前!)だったらしい。1966年の座談会(「未來社の15年・その歴史と課題」)でも、西谷能雄(未來社編集者)と丸山はこう回想している。

西谷 やっと緒についてくれたのはいいんだけど、僕はそれで〔既発表の論文のままで〕、並べればいいと思っていたら、今度は、本文のあとに註つけにゃいかんって、それでまた時間がかかり出したんでね(…)
丸山 一気にいったですね。あれは松本君〔松本昌次。未來社社員〕が大変だったですね。それは印刷所でも書いたし、どこでも書いた。だから一瀉千里。自分でも俺は一体遅筆なのか、速筆なのか分からないと思うくらいでしたね。一旦書き出したら…。

 どうやら編集と丸山のあいだで齟齬があり、編集の予想以上に丸山が土壇場でがんばりだして、加筆しまくってたらしい。ちょっと迷惑な話だ。上下巻になってしまった事情はよく分からなかったが、12月の時点で第一部の加筆までしか完成していないので、第二部・三部の追記・補注を書く時間を考えて一冊にするのをあきらめ、分冊にしたというところじゃないだろうか。ということで、丸山が旧版での「後記」に書いていた

 おわりに本書が陽の目を見るまで丸六年も辛抱強く待ってくれた、出版社長というより友人の西谷能雄氏と、最後の急ピッチの仕上げに大変迷惑をかけた松本昌次氏はじめ未来社の人々の尽力に感謝してペンをおく。

というのはダテではないのだ。

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 ということで、今回はチラシから『〈原〉現代政治の思想と行動』を仮構してみたのだが、もしも『源氏物語』や『太平記』並みに丸山のテクストが研究されている世になったら、この“原態本”をことさらに言いつのり、表記の違いや未収録稿についてこねくりまわした博論の一本でも書けるかもしれない。また、そのような原態・古態への過剰な遡及志向が戒められ、テクストの複数性云々が言われて久しいから、その観点からもう一本書けるかもしれない。自分に見えるのは、年末進行のなかで版元と丸山がドタバタしている風景なのだが。

あとがき22 あとがき史上最高傑作!:諸橋轍次『大漢和辞典』(大修館書店、1955-60)

 ある方からこんなことを言われた。
「最近キミのブログ、本文のこと書き過ぎ!」
 ギクリ。確かに最近、あとがきにひっかけて書きたいことを書くばかりで、肝心のあとがき自体と真剣に向きあってないかもしれない。図星だった。
 そこで改めて、誰もが読んでおもしろいあとがきの条件を考えてみた。
①本文は不滅の価値がある。
②仕事への使命感や熱いパッションが噴出している。
③困難を乗り越えている。
④使命のために、自分のさまざまなものを捧げている。
⑤(④によって)偉業(①)を成し遂げている。

 この5条件をみごとにクリアしているのが、『大漢和辞典』(大修館)の「出版後記」だ。まさにあとがき史上の最高傑作といっていいのではないか。

大漢和辞典 全15巻セット 別巻『語彙索引』付

 筆者は鈴木一平、大漢和を出版した大修館書店の創業者。この「出版後記」は、ネットで全文読むことができる。

kanjibunka.com

 ぜひ実際に読んでほしいのだけど、とにかくおもしろい。アツい。心あるひとならば、必ず動かされる。
 以下、冒頭の5条件にのっとって、この「出版後記」のよさを説明していきたい。

①本文は不滅の価値がある。

 『大漢和辞典』は漢和辞典の最高峰だ。1925年に大修館書店鈴木一平に構想され、漢学者の諸橋轍次に依頼されてから、戦争をはさんで、1960年に初版13巻が完結するまで、実に35年の年月をかけた大事業だった。親字数約5万、熟語数約53万。出版当時は世界最大の漢字辞典だった。その後、中国の『漢語大詞典』や台湾の『中文大辞典』などこれに匹敵するものも出てきたけれども、現在でもいまだに大漢和の価値は失われていない。日本人が中国学を学ぶ際の参考文献に必ず大漢和はある。また、文字コードにまで大漢和の影響が及んでいる。

 このように大漢和は、今後も語り継がれる不滅の価値をもっている。

②仕事への使命感や熱いパッションが噴出している。

 大漢和のすごいところは、このような大事業が、君主や国ではなく、民間の一出版社と研究者によってなしとげられたことにある。「出版後記」を見てみよう。

当時(三十八歳)私は「いやしくも出版は天下の公器である、一国文化の水準とその全貌を示す出版物を刊行せねばならぬ。これこそ出版業者の果さ ねばならぬ責務である。」と固く信じ、先ず生命力の永い良い辞書の出版を考えた。

 そう志した鈴木一平は、漢学者の諸橋轍次と一冊ものの漢和辞典を出版する契約を結ぶ。ところが数年後、鈴木は諸橋から、漢和辞典が、当初とは似ても似つかぬ長大なものになりそうだということを告げられる。鈴木は決意した。

今後その辞書が一揃いでも世の中に残る限り、私自身の生命が形を変えて永遠に持続するのだと思うに至り、自らを励まし、私の資力と体力の一切を 注入して、この事業完遂に一生を捧げようと決心した。

③困難を乗り越えている。

 大漢和編集・出版の困難さは、大修館のHPの解説、あるいは大漢和辞典 - Wikipedia

をみてほしい。

kanjibunka.com

 古今の文献からの語彙集め、出典探し、そして幾度にもわたる校正など、読むだけで気の遠くなる編集作業が、諸橋を中心とした漢学者たちによって行なわれた。

 そして出版側にも、活字という大きな問題があった。大漢和は5万の親字を載せるが、当時活字の漢字は8000字程度しかなかったらしい。ということで、鈴木は活字職人数十名を使い、何十万もの活字を新たに彫る作業から始めなくてはいけなかった。大漢和は、出版史上でも大きな挑戦だったのだ。

 工場を特別に作り、最終原稿を活字に組み置いて原版を作っていくそばから、校正刷りがなされ、補訂されていく。一応刊行できるかたちになったのが1941年。折しも戦時であり、政府から用紙の配給をどうにか獲得して第一巻を出したときは、すでに1943年になっていた。編纂を依頼した1925年には、鈴木38歳、諸橋42歳。第1巻が出たとき、ふたりはもう還暦かそれに届きそうな歳になっていた。

 ところが国の方針による企業合併のあおりを受け、2巻目がなかなか発行できない。そうこうしているうちに戦況は日増しに悪化し、1945年2月、米軍の空襲によって、大修館書店の事務所、特設工場、倉庫、そして大漢和編纂の資料、組み置いていた原版、何十万もの活字の母型はすべて失われてしまった。20年間心血を注いだもののほとんどが失われてしまったのだった。

④使命のために、自分のさまざまなものを捧げている。

 しかし諸橋は、いざというときに備え、全ページ分の校正刷りを3ヶ所に疎開させていた。これが戦後、大漢和を改めて出版するときのもとになる。

 だが、戦争が終結してもなかなか再起のときは訪れない。また1946年に、諸橋はほぼ失明状態におちいる。結局鈴木が出版計画を再始動させるのは、1950年になってしまった。

 このときにあたって鈴木はまたも一大決心をする。自分一代で事業が終わらないことを見越して、子どもたちの人生も大漢和に捧げることにしたのだ。

諸般の出版態勢を整えると共に、私はこの事業の完全なる遂行は私以外にはなしえないが、若し事業半ばに於て死亡し、この出版に支障を来すなら ば、諸橋先生ならびに今日まで御声援を頂いてきた方々に相済まぬという責任を痛感し、本来各方面に進むべく勉学中であった長男敏夫を、当時東京慈恵会医科大学から退学させて経営に参加させ、次男啓介は、旧制第二高等学校を卒業し、東京大学に入学準備中のものを断念させて写真植字を習得、技術を身につけさせ、更に三男荘夫の東京商科大学卒業を待って経理の実務につかせ、私亡き後でも、私の分身が必らずこの事業をなし遂げられるという万全の態勢をとり、父子二代の運命を賭けてやり抜く決意を固め、それを実行した。

 医師や東大へと歩むはずだった息子たちの進路を犠牲にして、一家で大漢和刊行事業のため尽くすことになったのだった。

⑤偉業を成し遂げている。

 このように多大な尽力と犠牲を払い、1955年に第1巻を発行。ちょうどこの歳に諸橋も開眼手術を受け、片目が使えるようになった。そして順調に刊行は進み、最終巻の13巻を1960年に出すことができた。

 昭和三十年文化の日、第一巻を発行してからここに四年余、今日生命に別条もなく、全十三巻を自分の手で完全に成し得て、感激正に無量である。学歴もなく才能も恵まれぬ私に、今日このような機会を与えて下さった諸橋先生及び編纂に関係された諸先生、事務遂行に協力を惜しまなかった関係各位、不断に激励を与えられた先輩諸士に対し、深甚なる謝意を表する。

 この辞典には、約三十五ヶ年間に亘る私の魂が打ち込んである。私存命中に再び版を新たにすることは出来まい。将来補筆出版の必要が生じた際は、 私の子孫が責任をもって、大修館書店の名前のもとに必らず遂行するよう申し置いて行く。この辞典が世の中に一揃いででも残って活用される限り、諸橋先生と共に私の生命が永遠に続くものと確信して、ここに出版後記とする。

  かくして世界最大を誇る漢字辞典の刊行が成し遂げられたのだった。

 

 …ということで、大漢和の威容を眼にすると、いつもこの「編集後記」と、鈴木や、諸橋や、これに関わった人々と年月のことを思ってしまう。このあとがきは、読むものに対して、自分が生きているのはなんのためだろう、ということまで考えさせてしまうおそろしい作品だ。このような理由から、自分は、大漢和の「出版後記」をあとがき史上の最高傑作だと主張したい。

あとがき21 人生有限、学無窮:竹内理三編『鎌倉遺文』(東京堂出版、1971-1995)

 みなさん、歴史家・竹内理三(1907~1997)をご存じだろうか。
 かつてある古代史のゼミで、先生がこう宣言した。
「みなさん、塙保己一と竹内理三には足を向けて寝てはいけませんよ」
 もちろん塙保己一は、江戸時代に『群書類従』を編纂した盲目の大学者だ。現代人なのに、それと肩を並べるとはなにごとか。
 写真でみる限り、竹内理三は、小柄なおじいさんだ。愛知県知多半島の田舎で生まれ、終生知多弁が抜けず、生まれつき体が弱かった。そんな小柄なおじいさんが、超人的としか言いようがない仕事を遺しているのである。

https://www.lib.city.chita.aichi.jp/tosho/rizou/rizo.jpg

 『竹内理三著作集』全8巻に及ぶような研究業績、そして数多くの事典、史料集、弟子の育成。とくに大書されるのが、『寧楽遺文』(全3冊、1943-1944)、『平安遺文』(全13冊、1946-1968)、『鎌倉遺文』(全46冊、1971-1995)の遺文シリーズだ。これにより、奈良・平安・鎌倉時代の日本にある古文書を、すべて活字で参照できるようになったのだ。古代・中世のことを知りたい人間で、竹内理三の学恩を受けてないものはいない。自分もそうだ。 

竹内理三著作集 (第1巻)

竹内理三著作集 (第1巻)

 

  竹内理三の人生をみて、ひときわ目を惹くのは『鎌倉遺文』の編纂だ。壮年のときに成し遂げた『平安遺文』の刊行で、竹内理三は朝日文化賞を受賞し、学会内外で確固たる名声を手にしていた。そこからさらに、『平安遺文』の数倍困難であろう『鎌倉遺文』編纂に乗り出したとき、竹内理三は64歳だった。そこから独力で執筆・編集・校正をこなし、半年で1冊という驚異的なペースで刊行していった。予定を大幅に超過し、正編・補遺編併せて46巻を刊行し終えたとき、竹内理三は88歳になっていた。

鎌倉遺文〈古文書編 第42巻〉

鎌倉遺文〈古文書編 第42巻〉

 

   ゲーテミケランジェロを称えて「シックストゥス礼拝堂を見ないでは、一人の人間が何をなし得るかを眼のあたりに見てとることは不可能である」と喝破した*1が、私は、『鎌倉遺文』にそれを見る。

 あるとき畏友が、自分に言った。
「竹内理三がよく揮毫する言葉、知ってる?『人生有限、学無窮』だって」
『人生有限、学無窮』!まさに竹内理三の生き方そのものではないか。
 深く感銘を受けた自分は、竹内理三のことを話題にするたびに、この言葉を思い出した。
 そして数年後。この畏友とまた竹内理三について話していると、彼はまた自分にこう言った。
「『人生有限、学無窮』…これって、教えてくれたの、お前だよね」
 えっ、自分は、そっちに聞いたんだけど…。
「あれ、この名言、お前に聞いたものだとばっかり…」
 なんと、お互いがお互いに教わったと称しているのだ。こんなこと、あるんだろうか。
 正直なところ、数年のあいだ『人生有限、学無窮』!とほうぼうに言ってきたので、誰から教わったのかはかなりあいまいな記憶になってしまっている。もしかしたら、記憶が逆転しているのかもしれない。
 ともかく、これによって、『人生有限、学無窮』が出処不明の名言になってしまった。

 さて、出典を探すためGoogleで検索してみると、twitterの歴史家botなるアカウントが引っかかる。

 これにはちゃんと「竹内理三の揮毫より」と注記がついている。だったら、出処を探るのも簡単なんじゃないのか?

「シシシシ 残念だけど、それはムリだね」
「え?」
「なんでムリだって分かるんだよ」
「なぜって、そりゃ……そいつの開発者、俺だもん」
(映画『サマーウォーズ』より)

 そう、その歴史家botにタレこんでこの『人生有限、学無窮』を入れてもらったのは、他でもない自分なのだ。そして、この歴史家botは、夜ごとに胞子を噴出する茸のように、今や出処不明となってしまったこの名言を、この数年間ウェブ上に拡散してきたことになる。

 そして、拡散は別のところにも及んでしまったようだ。たとえばこの書籍の一節。

 休日は昼過ぎまで寝ていたり、パチンコで時間をつぶすだけの暮らしで空しくならないだろうか。

 人生有限、学無窮。

 これは歴史学者の竹内理三が揮毫した言葉である。人生は有限であるけれども、学ぶのは無限だ、という意味である。

成毛眞『日本人の9割に英語はいらない』、祥伝社、2011年

 さらっと通読してみたところ、著者独自のソースを持っているわけではなさそうなので、歴史家botによってこの『名言』を知ったに違いない。そして、2013年にはこの本の文庫版が出ているので、それなりに売れて世間の目に触れているようなのだ。

 名言、名エピソードは出典があやふやでも広まってしまいやすい。たとえば、夏目漱石がI love you. を「月がきれいですね」と見事に訳したというハナシが代表的だ。

「月が綺麗ですね」検証

 自分が軽率なことをしたばっかりに、この出処不明の名言がさらに拡散されてしまうことになったら…。少年時代のブラック・ジャックを手術したとき体内にメスを置き忘れてきたことに気づき(とんだすっとこどっこいだ)苦悩する本間丈太郎先生のように、頭を抱えることになった。なによりも、出典を解明しないことには、史料から明らかなこと以外は何ひとつ言明してはならないと弟子を誡めた竹内理三の主義に反するではないか。

 ということで、『人生有限、学無窮』の出典を調べてみた。

①『古代文化』第50巻第11号(1998年)

 とりあえずGoogle booksで「人生有限、学無窮」と検索してみたら発見。実物を見てみると、『竹内理三 人と学問』という本の短いレビューがあった。そこにはこうある。

(…)今更その経歴・業績については云々するまでもなく、ここでは明石一紀氏の『竹犂庵先生遺語』より、数ある竹内氏の人間性を示すに足る語録よりその幾つかを紹介しておきたい。

 『人生有限』『学無窮』『自分には厳しく、他人には寛容に』『人生の成功の秘訣は、運・鈍・根である』(…)

 おお、『人生有限、学無窮』!どうやら、『竹内理三 人と学問』に出典があるようだ。

②『竹内理三 人と学問』(東京堂出版、1998年)

 これは竹内理三が没したのち、周囲のひとびとによって編まれた追悼本だ。

竹内理三―人と学問

竹内理三―人と学問

 

 そのなかに、明石一紀撰「竹犂庵先生遺語」という記事がある。竹犂とは竹内理三の雅号だ。そのなかに「学無窮」と「人生有限」の二語が収録されている。ところが、この二つはお互いずいぶん離れたところに配置されており、連結されたひとつの名言とはなっていないのだ。引用しておこう。

☆学には窮まり無し(「学無窮」)

ゼミ修了の記念アルバムの巻頭に、この言葉を書き添え、送り出してくれた。

そしてそこからかなり離れた後の方に、

☆人生に限り有り(「人生有限」)

一方、学問には限りがない。従って………、となるわけだが、先生は深く色々な意味で用いたものと思われる。

という記述がある。内容的に関係しているという書きぶりだが、連結して揮毫されたとは書いていない。

 この「人生に限り有り」の方は、瀬野精一郎「意識過剰・増長・離婚」という記事から補遺として引用したものだという。次はそれにあたってみよう。

瀬野精一郎「意識過剰・増長・離婚」(『日本歴史』第591号、1997年)

 瀬野は竹内理三の弟子だ。記憶に残る師のことばがいくつか連ねられている。

(…)「彼には近寄るな」「学問は無限だが、人生には限りがある」「数代に渡って継承されるものでなければ真の学問ではない」(…)

 少しかたちは違うが、『人生有限、学無窮』と意味は同じだ。そして、瀬野精一郎の蔵書に竹内理三が認めた揮毫の写真がふたつ載せられている。片方には「学無窮」、もう片方には「人生有限」と大書されている。

 ということで、『学無窮』と『人生有限』のふたつが揮毫されていることは確認できたのだが、これを竹内理三自身が連結させて使っていたという確証がほしい。その根拠は、たまたま目の前に現れた。

④竹内理三編『鎌倉遺文 古文書編 補遺第2巻』(東京堂出版、1995年)

 鎌倉遺文をめくっていて、ふと「序」を見ると、この言葉が眼に飛び込んできた。

恐らくなお未収録の文書はこれにとどまらないと思われる。多くの研究者によって未収録文書を補っていただくことは、編者が最も期待するところである。

 人生には限りがあるが、学問には窮まるところがない。真の学問の進歩のためには、一代で断絶することなく、何代にもわたって継承される必要があると信じる。(…)多くの研究者によって鎌倉遺文が多方面に活用されることを切望して止まない。

  平成七年二月三日

                    竹内理三

 この「序」は補遺編第2巻(補遺編は4巻まである)という中途半端な巻にあるが、意味は重い。鎌倉遺文には毎巻ごとに冒頭の「序」を竹内理三が執筆していたが、補遺2巻以降はこれが途絶え、最終巻(補遺編第4巻)の「あとがき」は弟子の瀬野精一郎が書いている。もはや、体力的に限界だったのだろうか。つまり、この補遺編第2巻の「序」が、鎌倉遺文の実質的な「あとがき」といってよい。

 そんな節目の文章に、「人生には限りがあるが、学問には窮まるところがない。」と書いているのには、偶然以上のものを感じる。この言葉に竹内理三自身が強い愛着を持っていることが、これで確かめられた。『人生有限、学無窮』という揮毫を認めていたとしても、おかしくはない、と言えるのではないだろうか。もちろん、実際に揮毫している事例が見つかるまで自分の義務は果たされないので、これは中間報告的なものだ。もし他に情報お持ちの方がいたら、ぜひ教えてほしい。

 

 *******

 

 というわけで今回は、竹内理三の名言の典拠を云々するだけで終わってしまった。竹内理三が遺した仕事がいかに偉大なのかは、おいおい書いていくことにしたい。

 

*1:ゲーテ『イタリア紀行(下)』、岩波文庫、p67