あとがき愛読党ブログ

本文まで読んでいることを保証するものではありません

あとがき28 未発の可能性:『原平三追悼文集』(私家版、1992)

 年の瀬、京大前の古本屋で珍しいものを見つけた。
 戦前の、シリーズものの予約募集冊子である。日本史関係でいくつか買うことにしたが、まったく知らなかったシリーズものばかりでおもしろい。
 たとえば、蛍雪書院なる版元の、『歴史學叢書 日本研究篇』なる企画。

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全10巻のラインナップは以下の通りである。
(1)日本の文化:圭室諦成
(2)日本の政治:渡辺保ほか
(3)日本の外交:高橋磌一ほか
(4)日本の社会:風間泰男ほか
(5)日本の経済:中村吉治ほか
(6)日本の技術:遠藤元男ほか
(7)日本の思想:川崎庸之ほか
(8)日本の芸術:森末義彰ほか
(9)日本の近代:原平三ほか
(10)日本の現代:津吉英夫
 だが、全国の図書館の蔵書の状況を見るに、どうやらこれは2冊しか出なかったらしい。「豫約會員にだけ頒布致します」と謳っていたのに、これはちょっとひどい。残る8冊は、誰も手に取ることのない書物となったのだ。こうした未発の可能性を指し示す点に、予約募集の魅力があるのだろう。
 さて、第9巻として予定されていた『日本の近代』の総説は、原平三という人物に任される予定となっていた。

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これをみて私は、「ああ、原平三は、近代史家としてここまで期待されていたのだなあ」と腑に落ちた気持ちになった。原平三こそ、未発の可能性を体現する人物だからである。

 

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 私が原平三の名前を知ったのは、2016年秋の東大史料編纂所の大展示「史料を後世に伝える営み」である。「原平三日記 疎開関係手帖」というごく小さな古い手帳が出典されていた。1944年、戦火の拡大にともない、史料編纂所は所蔵資料の大規模な疎開を行う。そのきっかけとなったのが、原平三だったという。

 原平三は当時、文部省の維新史料編集官であり、郷里・長野県上田市に維新史料を疎開させる担当者であった。そのため史料編纂所にも疎開を奨めたのだという。
 原平三は1908(明治41)年生まれ。1933(昭和8)年に東大の国史学科を卒業し、以後、文部省維新史料編纂事務局に勤務しながら、維新史関係の論文を30編ほど発表した。
 原は疎開作業中に招集され、1945年、戦死する。ついに生前原は一冊の著作をも出すことがなかったが、彼の論文は、『幕末洋学史の研究』(新人物往来社、1992年)、『天誅組挙兵始末考』(同、2011年)のかたちで刊行されている。維新史料編纂会からは、戦後の明治史をリードする井上清、小西四郎、遠山茂樹、吉田常吉など錚々たる人物が出ている。本来ならそれに原平三が加わるはずだったと、宮地正人は『天誅組挙兵始末考』の解題で述べている。

 

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 惜しまれながらも若くして戦場で没した歴史学者、原平三。どのような人物だったのか気になっていたところ、高野山の奇傑・S博士から、思いがけず『原平三追悼文集』(私家版、1992)なる本を貸していただくことができた。

父は、太平洋戦争で、フィリピン・ミンダナオ島ダバオにて昭和二十年四月十九日戦死いたしました。

という「あとがき」の書き出しの通り、原の長女である小見寿氏がまとめたものである。

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大久保利謙、児玉幸多、小西四郎、遠山茂樹など、東大国史学科や文部省などで原と付き合いのあった歴史家たちが多数追悼文を寄せている。

丸坊主の原さんが京子ちゃんをだいて、哲ちゃんの手を引いて、突然私の家に見えた。頭に手をあてて「とうとう来たよ」と笑っていた。「こんな年輩の者まで来るのではね」といわれた。余りに淡々とした話しぶりに、私の方があせりにも似たものを感じた。後で考えれば、あきらめたということであったのかもしれない。今でも時たまこの時の原さんの淋しい笑顔を夢の中で見る。―遠山茂樹(二十三回忌寄せ書きより)

本書を一読して感慨深いのは、遺されたものたちの思いの強さと色褪せなさだ。二十三回忌、三十三回忌、四十七回忌と節目節目で旧友や家族が集い、原を追悼してきた記録が本書でひとつになった。未発の可能性、むしられた芽としての原がいかに大きな存在だったがわかる。

ライトニングトーク:「1192(イイクニ)作ろう鎌倉幕府」は なぜ消えたのか

忘年会で即興でライトニングトークをやらされることになったので、ブログで再現します。題して、「「1192(イイクニ)作ろう鎌倉幕府」はなぜ消えたのか」。

忙しい方は、スライド部分だけ飛ばして読んでもらっても大丈夫です。

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お話させていだだきます。

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鎌倉幕府の成立は1192年と、長らく学校の現場では教わってきました。

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ところが、最近では否定されているとよく言われていますね。

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教科書からも消えてしまいました。

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なぜか。今回はその背景を説明したいと思います。f:id:pino_quincita:20171210230353p:plain

まず、その前提を確認しましょう。1192年、源頼朝が「今日から幕府やります!」と宣言したわけではありません。

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1192年に起きたこと。それは、頼朝が征夷大将軍に任じられたことです。

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鎌倉幕府成立に関することがらを年表形式で振り返っておきましょう。

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問題となるのは、征夷大将軍になったことを、幕府の成立とみなしてよいか?ということになります。

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しかし新事実が明かされました。

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頼朝、途中で将軍辞めてます。

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by 朝井リョウ

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論拠となるのは、石井良助氏の論文「鎌倉幕府職制二題」です。

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論文の内容を要約すると、1194年ごろに頼朝が征夷大将軍を辞任していたことを論証したものです。

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さてここで湧いてくる疑問。

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頼朝は鎌倉幕府の創業者なのに、将軍辞めてどうなっちゃったの?引退しちゃったの?

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回答。頼朝は…

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将軍辞めても、鎌倉幕府のトップに立ち続けてます。

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つまり。

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頼朝にとって将軍の位は、あってもなくても大丈夫な称号だったのです。将軍になる前から武士たちを従えていますし、将軍を辞めてからも同様です。

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つまり。

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頼朝の将軍任官は、鎌倉幕府成立の指標とはいえないのです。

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ちなみに、幕府のトップになったら必ず征夷大将軍になるという認識は、少なくとも頼朝以降に成立します。

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つまり、このような論拠をもって、f:id:pino_quincita:20171210225247p:plain

1192年は、鎌倉幕府の成立年とはいえないとされたのです。

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ちなみに。

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論拠となった石井良助氏の論文「鎌倉幕府職制二題」が発表されたのは、驚くなかれ…

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今からはるか前の1931年です。

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ある説が提起されたのち、学界で認められ、教科書に載り、世の中に浸透していくまで80年かかるというのが、今回の事例から得られる教訓といえましょう。

 

付記:少し細かい根拠は以下の記事参照。最初は別のニュースサイトに書いた記事だったんだけど、勝手に転載されてますね。何なんでしょう。

1192(イイクニ)作ろう鎌倉幕府はなぜ定説ではなくなったのか?| MUSEY MAG[ミュージーマグ]

 

 

ジョジョ実写映画はけっこうおもしろかったです

ジョジョファンです。雑誌もコミックスも欠かさず買ってます。

 

第4部が実写映画化すると聞いて、超不安でした。「胃がケイレンし胃液が逆流した。ヘドをはく一歩手前さ!」って気持ちでした。

http://i.gzn.jp/img/2017/04/27/jojo-movie-trailer/00.jpg

warnerbros.co.jp

でも原作ファンなので劇場に行きました。そしたら、(まあ物足りないところもありますが)けっこうおもしろく観れました。

 

※「街並みがスペインすぎる」「仗助とか承太郎の髪型がヘンすぎる」という違和感をグッと呑み込んだのも大きい気がします。これが許せないひとはかなり苦痛だと思います。

 

ハードルは低かったとはいえ、意外におもしろかったのはなんでだろう?と考えてたのですが、その理由は、原作だと影の薄い東方良平(仗助のじいちゃん)とアンジェロ(殺人鬼のスタンド使い)のキャラが立っていたことにあるのではと思いいたりました。

 

東方良平は、長年街を守ってきたベテラン警官ですが、アンジェロに殺されてしまいます。そして仗助が「じいちゃんの代わりにこの街を守る」と決意させる、重要な役割をになっています。ところが原作だと、東方良平の描写はとても少なく、仗助が主人公のストーリーを開始するためだけにその場で作ったという感じで、あんまり思い入れできないキャラでした。

 

※余談ですが、荒木がストーリーの都合上作った「人情おじいちゃんキャラ」としては、他に『バオー来訪者』の六助じいさんが思い浮かびます。読むたびに白々しいな〜〜と感じてました。

 

映画版での東方良平は、街の不良に「ゴミくらい自分で捨てんか」と小言をいいながら、「また何かあったら連絡しろよ」と声をかける…みたいに、街を見守っているとか、家族を大事に思っている具体的な描写がいくつも追加されていました。國村隼の演技力もあいまって、とても魅力的なキャラクターになったと思います。承太郎よりも印象に残ってるかもしれません。「あ〜、この映画って、東方良平の「黄金の精神」が仗助に受け継がれるってのがテーマなんだな〜」と素直に納得できる、重みのあるキャラになっていました。

 

また原作のアンジェロは、感情の起伏の大きさで何をしでかすかわからないシリアルキラーぶりを印象づけていました。一方映画版では、オムライスを解剖するように食べるとか、じっとりした演出の積み重ねで「こいつヤバイな…」と思わせるキャラになっています(山田孝之も上手かったです)。テンションの高い原作のアンジェロとはまた違う解釈でキャラが作られていて、それなりに成功してたと思います。

 

ジョジョの原作(とくに昔の)は、セリフや感情の過剰さでキャラ付けする傾向があります。映画版の東方良平やアンジェロの滲み出るような描写によるキャラ付けは、ジョジョっぽくないといってしまえばそれまでですが、実写映画らしさを活かした演出になっていたと思います。前半をひっぱるこの2人をちゃんと描いたのが、作品が意外におもしろかった理由だと私は考えています。

あとがき27 バブル期の日本人がどれだけバグってたか見てほしい: 叢書「思想の海へ [解放と変革]」刊行のことば(社会評論社、1989)

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 自分は中高生のころ岩波文庫の末尾にある岩波茂雄の(実は三木清の草なんだって)「読書子に寄す―岩波文庫発刊に際して―」が好きで好きで、何度も読み返して、「読者は自己の欲する時に自己の欲する書物を各個に自由に選択することができる。」の文に動かされ、「うおお買わなきゃ」と書店に走り、「携帯に便にして価格の低きを最主とす」の言に化されて、新たな文庫本をわざわざポケットにねじ込んだりしたものだった。

 それはさておき、この「読書子に寄す―岩波文庫発刊に際して―」にせよ、○○文庫や○○新書などシリーズものの「刊行のことば」は、版元の意気込みとともに、図らずも時代を映す鏡になっていることが多い。岩波文庫なら、円本の流行と戦前の教養主義を、青版岩波新書(1949)なら敗戦後の民主化を、というように。

 今回紹介するのは、1989年、バブル真っ盛りに書かれた叢書の「刊行のことば」だ。社会評論社という出版社があった。今でもある。このとき創設20周年ということで、「思想の海へ [解放と変革]」全31巻という一大叢書を企画した、ということだ。ともかく、バブル期のバグった感じが全面に出ているので、見てほしい。

刊行のことば

 江戸期から昭和・戦後期まで三百年間、日本人自身が時代の最先端において手作りしてきた〈生ける思想〉の集大成(アンソロジー)をおとどけします。
 私たちは何者であったのか? この世紀末に何者であるのか? 二一世紀に向けて私たちは何者になろうとするのか?
 ジャパン・アズ・ナンバーワンの極頂に立って、虚空に向けてジャンプしなければならないすべての日本人に、この“聖歌”をリレーします。
 未来に向かって漕ぎ戻れ、この滾滾たる思想の水脈を!七色の虹(レインボー)を二一世紀の宇宙に架けよう!江戸は黄(イエロー)、明治・大正は橙(オレンジ)、文化は藍(インディゴ)、反天皇制は赤(レッド)、フェミニズムは紫(パープル)、周辺は緑(グリーン)、昭和は青(ブルー)……
 虹立ちぬ、いざ生きやめも!
 ポスト昭和の到来を画する、気鋭の編集・スタッフによる巨大な紙碑(モニュメント)。現代のシャープなズーム・アップ。社会評論社二十年にわたる蓄積を世に問う記念出版。
 世紀末危機のただなか、二一世紀へと向けて、思想を持たなければ生きられない時代が到来します。私たちの一人ひとりが自らを解き放たなければならない、生き方を変えなければならない。この近過去の日本人自身の結晶を〈生ける糧〉として。
 一九八九年十月

 

 たいへん険しいものがある。エズラ・ヴォーゲルにもこの気持ちを分けてあげたい。

 ちなみにこの叢書は、近世・近代日本の思想的な文章をテーマごとに集めたアンソロジーで、各巻のタイトルも、『島々は花綵―ヤポネシア弧は物語る―』(25巻)、『方法の革命=感性の解放―徳川の平和(パックス・トクガワナ)の弁証法―』(2巻)、『フェミニズム繚乱―冬の時代への烽火―』(23巻)あたりは通底する言語センスを感じる(なお巻によって、内容の出来不出来の差はけっこうあるらしい)。

 以上の「刊行のことば」をツイッター上で放流したところ、それなりに反響があった。

 やはり80年代ニッポンのノリはこんなんだったらしい。

 また、このころ話題になっていた、メティ(笑)こと経済産業省が直々に作った「日本の伝統的な価値観をまとめたコンセプトブック」であるところの『世界が驚くニッポン!』が、「日本スゴイ!」の共通点から連想・比較されることも多かったようだ。

  ご指摘の通りで、官製「日本スゴイ」がこの味を出せるとは思えないし、この「刊行のことば」からは、なにかを咀嚼し内面化しないと出ない凄みがある。

 ちなみにこの叢書の徳をひとつ挙げておくなら、予定していた全31巻が、すべて刊行されていること(NDL-OPACで調べた限り)―これは素直にスゴイ!と言いたい。 

あとがき26 デジタル人文学のために?:大森金五郎編『史籍解説』(三省堂、1937)

 先日古本屋で、大森金五郎編『史籍解説』という小さな本を買った。これは戦前に作られた史籍専門の解題集(初版は1937年、三省堂。のち覆刻版が1979年に村田書店から出る。私が買ったのは復刻版)で、『古事記』だとか『吾妻鏡』だとかの書名を挙げたのち、巻数、内容、著者、編纂沿革、注意などの諸事項を簡単に解説している。収録書目は328点。

 なお編者の大森金五郎は学習院大教授として有名な国史学者。早稲田大学での講義をきっかけとしてこの解題を編んでいたが、出版直前に死去してしまい、期せずして遺著となってしまったという(「はしがき」、「本書出版にあたって」)。

 正直なところ、内容には誤りも少なくない。現在から見て間違っているのはともかく、初版刊行時(1937年)の水準からみてもどうなの?というところはままある。

 また、『日本書紀』の次に江戸時代の『日本書紀通証』が出てくるように、古代・中世の史料と近世の和学者の著作が混ぜこぜで掲載されているのも―19世紀的な歴史学の在り方を伝えていてたいへん興味深いが―現代の読者はちょっととまどうだろう。ということで、いま普通に使うには向いていない代物だ。

 およそ解題というのは、目録と違い、研究の進展に伴う内容の陳腐化の程度が大きい。今ならば、日本史専門の辞典の諸項目、あるいは『国史大辞典』から解題系の記事を抜き出した『日本史文献解題辞典』などを使うべきだろう。

日本史文献解題辞典

日本史文献解題辞典

 

  だが、前時代の骨董品に見える『史籍解説』は、(大上段に振りかぶっていうと)デジタル人文学にとって大きな価値を秘めている。
 本書は、同時代の史学者が手に取ることのできた、戦前に刊行されていた史料集をかなり網羅している。そして、当時の刊行物の少なからざる部分はパブリック・ドメイン化し、国立国会図書館デジタルコレクションなどで公開されている。つまり、『史籍解説』には、今ウェブで見ることができる史料がたくさん記されているのだ。

 ためしに第一篇「概説」の書目を挙げてみよう。これらの多くはデジコレ等で閲覧することができる。

  • 大日本史
  • 野史
  • 本朝通鑑
  • 国史大系
  • 群書類従
  • 続群書類従
  • 国史大系
  • 改定史籍集覧
  • 続史籍集覧
  • 存採叢書
  • 国書刊行会出版書
  • 故実叢書
  • 古事類苑
  • 史料大観
  • 史料通覧
  • 日本教育文庫
  • 日本古代法典
  • 大日本租税志
  • 日本田制史
  • 大日本農史
  • 大日本貨幣史
  • 大日本駅逓志稿
  • 稿本日本帝国美術略史
  • 工芸志料
  • 日本教育史資料
  • 外交志稿
  • 海軍歴史
  • 陸軍歴史
  • 日本戦史
  • 古今要覧稿
  • 本朝軍器考
  • 読史余論
  • 官制沿革略史

 ※今「大日本史」や「野史」を使うヤツなんているのか!?というのはさておき…

 あとがき愛読と銘打ちながら、このブログには、ウェブでの史料をまとめた記事がいくつかある。かつて自分は、国会図書館デジコレの有象無象の山から、日本中世史の史料集を抜き出してリストアップできないかと試してみたことがあった。

atogaki.hatenablog.com

 そのときはいろいろな検索を試して使えそうな史料集をかき集めたのだが、あの時この『史籍解説』を知っていれば…と思う*1

 しかも、戦前の史料解題として、『史籍解説』には類書がない。戦前の国史学では、国文学と比べて解題に対する意識が低く、戦前版の『国史大辞典』(吉川弘文館)や『国史辞典』(冨山房)にも史料解題の記事は少なかった。戦前期において史籍専門の解題書は、この『史籍解説』以外現れなかったという(熊田淳美『三大編纂物の出版文化史』勉誠出版)。

三大編纂物 群書類従・古事類苑・国書総目録 の出版文化史

三大編纂物 群書類従・古事類苑・国書総目録 の出版文化史

 

  研究書と比べて、史料翻刻は時代が進んでもあまり古びず、戦前、あるいは江戸時代のものでも十分に使用に耐える場合が多い。本書をたよりにしてデジコレの大海を探検すれば、簡単にウェブで一次史料の翻刻にアクセスできる。これは、図書館があまりにも遠方だとか、研究機関に所縁がないとか、海外に住んでいるとかの日本史を学ぶ人々にとって、大きな助けになるのではないだろうか。いわゆるデジタル人文学にもひとつの貢献をなすだろう。

 だが、戦前の史料集がウェブで流布していることに批判的な意見もある。たとえば、鎌倉期の公家日記のひとつ「勘仲記」(「兼仲卿記」とも)に関していえば、戦前の史料大成版はミスの多い謄写本を底本にしているので、善本である自筆本を底本にした史料纂集版(現在刊行中)を使うのがもっともよい。ところがウェブ公開されてるからといって戦前の史料大成版をみな使うようになってしまえば、せっかく厳密に新訂版を出している意味がないではないか…という意見である。良くないテキストを流布させるなというのも一理ある。

 だが、国会図書館でデジタル化に取り組んだ担当者はこう言う。

実際、戦前の日本の植民地になっていた時代の朝鮮に関する資料も利用が多いが、時代背景や、当時の日本人の朝鮮半島に関する知識や考え方などを知らずにそういった資料を読むことで、一方的な視点から書かれた内容を鵜呑みにしてしまう危険性はある。

 それでも、逆に言えば、戦前の日本人が、朝鮮半島をどのように捉えていたのか、という資料が、容易に手に入るようになった、ということが、日本社会の知的活動を活性化する可能性に、我々は、いや少なくとも私は賭けたい。

―大場利康「図書館が資料をデジタル化するということ」(楊暁捷・小松和彦荒木浩編『デジタル人文学のすすめ』、勉誠出版、2013)

デジタル人文学のすすめ

デジタル人文学のすすめ

 

  デジタル化でウェブに出てきた史料は、悪い本ばかりではない。たとえば南北朝期の播磨国の地誌「峰相記」の最古写本(斑鳩寺蔵、永正8年写)は戦前に影印版が出ており、以下のようにデジコレで公開されている。

国立国会図書館デジタルコレクション - 斑鳩寺と峰相記

 国会図書館のデジコレをはじめ、ウェブの世界には、意義や価値づけがされずただおびただしい資料がナマで放り出されているのが現状だ。そこに分け入り価値あるものを引き出すためのサーチライトとして、『史籍解説』のような戦前の古い解題書が役に立つのではないか。これが、今回の私のささやかな気づきだ。

 

……ところが、難点がひとつある。肝心の『史籍解説』自体が、デジコレでウェブ公開されていないのだ*2戦後再刊されてしまっているからだろうか(覆刻した村田書店は1990年代に活動を停止しているように見えるが)*3。ということで、なんとも締まらないオチになってしまうのだった。

*1:といっても、私が書いた記事に挙げてあって、『史籍解説』にないものも多い。当時刊行中だった史料大成がないのはともかく、文科大学史誌叢書や大日本史料を挙げてないのは何事か、大森金五郎。また同時代人も指摘するように、仏書や地誌を丸ごと落としているのもよくない。

*2:なお、デジコレで公開されている大森金五郎述『国史概説』(日本歴史地理学会、1910)に付録として日本歴史地理学会編「国史問答」がついている。これは第1問~50問までは大森が史籍を解説したもので、『史籍解説』の第1篇「概説」とほぼ構成が同じであるため、種本となったものと思われる。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/769275/105
これを使えば多少は『史籍解説』の代わりになるかもしれない。

*3:「保護期間満了であれば、現在の入手可能性の有無に関係なくインターネット公開可能であり、覆刻されているかは関係ない。大森金五郎”編”と表示されており、他の著作者がいる可能性があるので非公開なのではないか」と大場利康氏からご教示を得たので、本文の表現を修正した。

あとがき25 或る古文書学徒の死:勝峯月渓『古文書学概論』(目黒書店、1930)

 

古文書学入門

古文書学入門

 

  佐藤進一『古文書学入門』には、参考にすべき古文書学の名著が冒頭に掲げられている。一人の著者が書きおろした古文書学の体系書を以下にピックアップしてみよう。

  • 久米邦武『古文書学講義』(1902年完結。早稲田大学出版部)
  • 勝峯月渓『古文書学概論』(初刊は目黒書店、1930年)
  • 黒板勝美『日本古文書様式論』(1903年提出博士論文。『虚心文集 第6』の一部として1940年刊行)
  • 相田二郎『日本の古文書』上下(1945年成稿。書刊は岩波書店、1949-54年)
  • 伊木寿一『日本古文書学』(雄山閣、1958年)
  • 中村直勝『日本古文書学』上中下(角川書店、1971-1977年)
  • 佐藤進一『古文書学入門』(初刊は法政大学出版局、1971年)

 久米を始め、ほとんどの人物は著作集が編まれるような大学者ばかりである。ところがそのなかに、勝峯月渓という見慣れない人物がいる。『古文書学概論』を除き勝峯の著作や論文は見当たらず、いわば無名の人物だ。

 しかし、勝峯の『古文書学概論』は835ページという大著であり、また上で挙げた体系書のなかでは、久米に次いで早く刊行されている。そのため、それなりに珍重されたようである。たとえば伝説的な古書肆の反町茂雄も、古文書を扱う上で勝峯本をよく利用したという。

まだ参考書の多くない時代には、勝峯月渓さんの「古文書学概論」と首っ引きでした。

反町茂雄『日本の古典籍―その面白さその尊さ―』p137

 刊行当時のある書評を見ても良書として称賛されている*1。刊行の50年後(1970年)に国書刊行会から勝峯本が復刊されているのも、その価値を表しているといえよう。

古文書学概論 (1970年)

古文書学概論 (1970年)

 

 

 勝峯月渓とはいかなる人物なのだろうか。『古文書学概論』の序文や『京都帝国大学一覧』、あるいは後述する丸山二郎論文から彼の略歴を簡単にまとめておこう。
 生年は1899、没年は1928年*2。夭逝した人物である。『古文書学概論』は彼の死後に刊行されたもので、遺著となる。

 三重県妙心寺派の禅寺に生まれ、京都花園中学校を経て1918第三高等学校入学。1921年に京都帝国大学文学部史学科に入り、国史学を専攻した。卒業は、1924年3月である。卒業論文の題は「徳川時代初期の宗教政策」。このとき史学科を卒業したのは彼だけだった。

 卒業時の京大国史講座の陣容を見ておこう。

 勝峯は卒業と同時に京大の大学院に所属する。専攻の題目は「日本近世宗教史」。その間、京大国史研究室の副手を務めた。1925年から大谷大学と花園中学校で教鞭をとるようになった。1927年3月、京大の副手と花園中学を辞し、同年4月から大谷大学で古文書学の講義を担当することとなった。1928年秋に没するまでの1年半講義を行った。大谷大学は1922年に大学令による設立が認可され、翌年に文学部を開設するという拡充期にあったので、古文書学の講座が新設されたのだろう。

 『古文書学概論』を見てみよう。三浦周行の「序」と西田直二郎の「序」、そして編集を担当した勝峯と同世代の徳重浅吉(京大卒。のち大谷大学教授)の「例言」が冒頭に掲げられている。
 三浦周行の「序」(昭和4年12月付け)では、三浦の古文書学講義を受講しており、京大の古文書の整理を副手として行った実績を見込み、勝峯を大谷大の講師に推薦したことが、本書のできるきっかけだったことがつづられる。
 西田直二郎の「序」(昭和5年1月7日付け)では、勝峯の古文書学が三浦に学ぶところが多いと述べられる。また、生前の勝峯が本書の元となる「七冊の草稿」を携え、刊行を西田に相談としたという。
 徳重浅吉の「例言」は、勝峯が心血を注いだ原稿を刊行する苦労と使命感、そして補訂と図版選択の方針などが記されている。
 序と例言は、この若き学徒の遺著が、三浦周行ら京大の学風を継いだ古文書学の大著であることを語っている。

 

 ところが、これとまったく異なる証言がある。
 丸山二郎が戦後に記した「古文書學についての二三の覺書 」という小文がある*3。丸山は東大の黒板勝美の弟子で、黒板から引き継いだ『新訂増補国史大系』の完成に尽力した人物である。

 これはあらゆる意味で衝撃的な文章である。
 丸山は、勝峯の知人だった。1927年はじめ、丸山は勝峯から、東大で丸山が受けた黒板勝美の古文書学講義のノートを見せてほしいと頼まれた。ちょうど大谷大学で古文書学の講義の準備をしていたころである。丸山の文章を引こう。

色々話をすると、勝峯君は悲痛というより以上、自分に古文書学を講じよというのは死ねというのも同じと云って、大谷大学にて古文書学を講義することになったわけを流涕の中に話した。

すでに尋常ではない。勝峯曰く、なんと彼は古文書学概説を受けたことがないので、黒板の講義ノートをすべて筆写したいのだという。丸山も当惑しただろう。彼は当代随一の古文書研究者・三浦周行の門下生なのだから。

それ程なら、その頃の三浦博士や外の方に又は友人学生等から聞くなりノートを借用することも出来ないものかなど話した私は、勝峯君の話を聞いて却って気の毒になって、私のノートについて説明した上に、その希望のまゝに全部のノートを貸して別れて姫路に帰った。

丸山は「勝峯君の話」の込み入った内容を敢えて書いていない。当時京都帝大で古文書学の講義はなかったのだろうか?三浦周行と勝峯とのあいだに何かわだかまりでもあったのだろうか?すべては想像するしかない。

 

1928年夏、2人はたまたま京都駅で邂逅する。

学生当時のまゝに無口で昨年の如くに沈痛そのものゝ様子であった。昨年私のノートを写したことや古文書学講義の件については二人共一言も口外することのないまゝに分かれた。

これが勝峯と丸山との最後の会話となった。1928年11月20日、勝峯は死ぬ。『古文書学概論』には一切書いていないが、実は自殺であった。即位の大典で昭和天皇伊勢神宮に参詣する同じ日に、地元・宇治山田の鉄道に飛び込んだのだという。

 死の翌々年、『古文書学概論』が出版される。丸山曰く、その構成や方法論、分類法はかなり黒板講義ノートに近かったという。黒板はそれと知らずにこの勝峯本を入手し、大いに共鳴して精読していたため、いたたまれなくなり、自分が黒板のノートを提供したことを告白した、と丸山は述べている。
 丸山は、『古文書学概論』を黒板古文書学の亜流だと断定し、生前にこの草稿を見たという西田直二郎の序文を疑う。また、このような形で出版することを勝峯が希望していたことを疑う。一方で、これを黒板古文書学の全くの盗作であるという評価を下すことはせず、2年間の大谷大学での古文書学講義を「全く死闘に近い勉強であったろう」と同情を交えながら回想する。
 勝峯の涙、そして沈痛な面持ちの裏になにがあったのか。そして突然の自死とどうつながっているのか。残されたものは多くを語らない。また丸山の実体験に基づく証言も裏付けるものがなく、検証する術がない。真相に近づきうる方法のひとつは、『古文書学概論』のテキストを黒板の著作と突き合せ、どの点が引き写しで、どの点が勝峯によって生み出されたものかを綿密に検討することだろう。しかしそれは、あとがき愛読の範囲をとうに超えているのであった。

*1:武田勝蔵の新刊紹介。『史学』9(3)、1930年。

http://ci.nii.ac.jp/naid/110007472869

*2:http://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/00028369

*3:『駒澤史学』(4)、1954年。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006999290

あとがき24 憲法上諭誤記事件を検証する:大日本帝国憲法(1889)

 なんと今回は憲法の話だ。もちろんブログのポリシー通り、本文には一切触れない。

 1889年(明治22)2月11日、大日本帝国憲法が発布された。その華やかな式典のウラで、3つの珍事件が起きたことが伝えられている。
伊藤博文枢密院議長が、式典で使う憲法原本を官邸に忘れてきた。
森有礼文部大臣が式典に来ないと思いきや、なんとその朝に暗殺されていた。
憲法の上諭に日付の誤記があった。

 こんなドタバタな幕開けでも、憲政はここから130年間続いてきたのだから、世の中なんとかなるものだ。

 しかしこの3つのうちでも、憲法上諭誤記事件は、多少あとを引いたためか、諸書でよく取り上げられる。諸書の記述をまとめると事件の顛末は以下のようになる。

憲法上諭(前文とされる場合もあるが正確ではない)のうち、「明治十四年十月十二日ノ詔命ヲ履踐シ」とすべき部分を、「十月十四日」と誤記した。
②式典で天皇が誤記をそのまま朗読してしまった。
官報もその誤記を残したまま発行されてしまった。
④起草者の井上毅は責任を取り進退伺を出したが、お咎めなしとなった。

 ちなみに上諭とは何か。六法などに載る大日本帝国憲法はたいてい、告文、憲法発布勅語、上諭、憲法本文の四つのパートに分かれている。上諭は、憲法本文を天皇が裁可したことを示す文章で、御名御璽と内閣大臣の副署がなされている。憲法原文はここを見てほしい。

 ①はつまり、帝国憲法制定のきっかけとなった国会開設の勅諭(1881)の日付を間違えたのである。ありがちな凡ミス。しかも一世一代の場で、かの正確無比な井上毅がやらかしてしまうのだから、ウラ取りと確認がいかに大切なことかと実感する。

 これには井上毅も非常な責任を感じたらしく、「死を以て申訳するの外なくと既に決する所」(『明治大正政界側面史』)だったらしい。「大日本帝国憲法上諭文中に、十四年十月十二日と有之候処、十月十四日と誤写仕、其侭御発布相成候段、全く私一人の不注意の責無所遁*1」という同年2月13日付の井上の進退伺が残されており、また同日付の元田永孚宛の書簡で「願わくは厳重之処罰を受け候事に有之度奉冀候」と書いているという(陸奥小太郎「憲法上諭文の誤謬と井上毅の進退伺」、『明治文化』9(11)、1936)。これらは④を裏付ける事実だ。

 また日付が誤記のままの官報1889年2月11日付官報号外)も残っており、訂正記事(1889年2月14日付官報「正誤」)も残っている。これは③の裏付けとなる。

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 さてここで、「ウラ取りは大事」の教訓にのっとり、憲法原本で誤記はどうなっているのか見てみたい。

 憲法の原本、つまり御名御璽と大臣副署がなされた御署名原本は国立公文書館のデジタルアーカイブで見ることができる。ところが驚くなかれ、原本の上諭に誤記がないのだ。正しく「十月十二日」となっている。修正の痕跡もまったくない。高精細画像が提供されているのでよーくみてほしい。

www.digital.archives.go.jp

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発布式当日朝に横死した森有礼が上諭に署名しているから、この原本が発布式の事前に作られてたことは確実。ミステリーだ。

 ありうる可能性を挙げてみよう。
・発布式ののち、誤記のある紙だけ差し替えた。
天皇が読み上げたのはこの原本ではなく、別の原稿であり、そこに誤記があった。
天皇は誤記を読み上げておらず、実際は官報のみの誤りだった。

 結論からいうと、第三の説、つまり、天皇が誤記をそのまま朗読してしまった(②)というのがガセではないか、と私は思う。それでは、諸書で②がどう書かれているのかくわしく見てみよう。

●瀧井一博『文明史のなかの明治憲法』(講談社選書メチエ)pp148-pp149
発布式当日の「三つの椿事」に触れている。

最後に、井上毅の日付誤記事件である。この日天皇が発布式で朗読し、官報にも掲載された憲法上諭文中に、日付の誤記があった。

はっきりと、天皇が誤記を朗読したと書いてある。これ以下の詳細(井上毅の進退伺など)は、私が冒頭で述べたとおりの記述だ。

文明史のなかの明治憲法 (講談社選書メチエ)

文明史のなかの明治憲法 (講談社選書メチエ)

 

「三つの椿事」について瀧井本が典拠にしている文献のひとつが憲法学者大石眞が著した次の文献である。
●大石眞『日本憲法史の周辺』(成文堂、1995)pp244-pp245

いずれにせよ、記録に照会せず、記憶に頼った記述を鵜呑みにしたため(…)そのまま天皇が朗読し、官報号外の載せるところになってしまったわけである。

日本憲法史の周辺 (成文堂選書)

日本憲法史の周辺 (成文堂選書)

 

 なお大石眞は別の文献で以下のようにも書いている。
●大石眞『日本憲法史 第2版』(有斐閣、2005)pp237

天皇が読み上げた告文中の明治十四年の立憲政体詔書の日付の誤りが発見されたりして

「告文」には明治14年の詔勅は登場しないので、これは「上諭」の誤り。ただ、誤記を天皇が朗読したという認識は一貫している。

日本憲法史

日本憲法史

 

次に、ちょっとした読物になるが、 

●近藤金廣「憲法誤記事件始末」(同『紙幣寮夜話』、原書房、1977)
天皇が誤記を朗読するさまが、どこかで見てきたのかというぐらい、おもしろおかしく書かれている。

「十月十四日の詔命を履践し……」
力強い天皇のお声が、一語々々はっきりと耳の底によみがえってくる。
「しまった。」
井上はつぶやいたが後の祭だった。

紙幣寮夜話 (1977年)

紙幣寮夜話 (1977年)

 

 この近藤金廣が編集した

大蔵省印刷局編集『大蔵省印刷局百年史 第2巻』(1972)pp544

でも、同じ記述が見える。

それは慎重の上にも慎重を期したはずの憲法前文に思いもよらぬ誤りがあり、それがそのまま官報号外に掲載されてしまったからである。(…)しかも憲法発布の大典で、明治天皇がそのままこれを朗読してしまわれたから、事は一層めんどうになった。

 これら近藤金廣が依拠しているのが

尾佐竹猛『日本憲政史大綱 下』(日本評論社、1939)pp798-801

だ。

尾佐竹猛著作集 (第8巻)

尾佐竹猛著作集 (第8巻)

 

 しかしこれは尾佐竹猛のオリジナルな話ではない。尾佐竹はふたつの文献を典拠にしている。ひとつが上述の陸奥小太郎「憲法上諭文の誤謬と井上毅の進退伺」(1936)。そしてもうひとつが下記の林田本だ。

林田亀太郎『明治大正政界側面史 上巻』(大日本雄弁会、1926)pp204-pp205

瀧井本、佐藤本、尾佐竹本、すべてこれを参照している。おそらく憲法発布式の三椿事をまとめて書いたものの元祖なのだろう。

事実から云えば只僅に二日の差、至って軽微の様だが、事態から云えば重大である。何となれば天皇に虚偽の時日を朗読させ申したからである。

林田亀太郎の政治史

林田亀太郎の政治史

 

  ちなみに、これらの文献を簡潔にまとめたものとして

●長田博「帝国憲法の前文の誤記について」(『北の丸』第7号、1976)

があり、私もかなり参照したが、誤記を天皇が朗読したかどうかにはあまり関心が注がれておらず、旧説を踏襲しているように読める。

 ともあれ、天皇が誤記をそのまま朗読してしまった(②)という言説の源流にまで一応たどりつくことができた。それでは実際に、1889年の憲法発布式でなにがあったのかを探ってみよう。

 当時の官報1889年2月12日付官報)には簡潔な式次第が書かれている。

内大臣高御座に進て憲法を奉る。勅語あり。憲法を総理大臣に下付せられ、総理大臣進みて敬礼し拝受して退く。式畢りて入御。

この「勅語あり」のなかに上諭が含まれるかどうかがカギになりそうだ。

 次に、伊藤博文の手元に集まった憲法関係の資料を編纂した『憲法資料』を見てみよう。そこに、当日の式次第が掲載されている。

国立国会図書館デジタルコレクション - 憲法資料. 上巻

次、内大臣〔三条実美〕筥を開け、詔書を上る。
次、詔書を宣読し給う。畢て、
 此間祝砲執行
 詔書並びに憲法典範を総理大臣に下付し給う。総理大臣〔黒田清隆〕之を奉じて内閣書記官長をして奉持せしめ、更に進んで奉答す。畢て、
入御
議員退出

 三条実美詔書憲法、典範を入れた箱を捧げ持っていた)が渡し天皇が読み上げた「詔書」は、明らかに「憲法」「典範(皇室典範)」と書き分けられており、別物のように読める。国立公文書館デジタルアーカイブで見た通り、憲法原本は上諭と本文が一体化しているから、天皇が読み上げた「詔書」は上諭ではないのではないか、という疑いが生じる。

 次に、明治天皇一代の実録である『明治天皇紀』明治22年2月11日条を見てみよう。膨大な量があるため、当日の概要のみを記す。

紀元節御親祭。

・・午前9時、出御。賢所に渡御し、御拝。皇室典範並びに憲法制定の告文を奏する。

・・次に皇霊殿を御拝、再び告文を奏する。次に神殿に御拝。入御。

憲法発布式。

・・午前10時、内閣総理大臣枢密院議長、内閣大臣ほか諸官参集。

・・午前10時40分、天皇出御し高御座に立御。三条実美(内大臣)、箱から憲法を取り出し憲法天皇に渡す。

・・天皇憲法を受けとり、勅語を賜う。

・・天皇、総理大臣の黒田清隆憲法を授ける。これにて式終わり。

そして、天皇が朗読した勅語として『明治天皇紀』が掲げているのは、六法などでも引用されている憲法発布勅語だ。つまり、上諭ではない。最初にのべた憲法の4パートに即して整理すると

●告文…午前9時からの宮中三殿における御親祭で、皇祖皇宗に対し天皇が朗読。

憲法発布勅語…午前10時40分からの正殿における発布式で、総理大臣ら諸官に対して天皇が朗読。

●上諭・憲法本文…天皇朗読せず。

つまり、天皇憲法上諭の誤記をそのまま朗読してしまった(②)というのは、あとから生まれた俗説なのではないかと結論できる。

 

******

 そうすると、井上毅が責任を感じていたのは何になるのだろうか。井上の進退伺には「十月十四日と誤写仕」としか書いていないので、実態としては誤記のまま官報等を流通させてしまったことにつきるのかもしれない。これらの点は、当時の書簡や日記などの一次史料を漁れば明らかにできるかもしれない。

 ともあれ、100年間ぐらい言われてきたことを覆すこともできるぐらい、ウラを取り、出典にあたることは大切だ。特にデジタルアーカイブが充実し、出典を探すコストがかなり下がってきた現在では、さらに重要になっている。井上毅が残した一文字の誤記から得られる教訓は大きく、恐ろしい。

 

追記:なおこの記事を書くにあたって、猫の泉(@nekonoizumi )さんからのご教示を参考にした。ここで感謝の意を述べたい。

*1:以下引用史料は適宜現代表記に改める。