あとがき愛読党ブログ

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あとがき28 未発の可能性:『原平三追悼文集』(私家版、1992)

 年の瀬、京大前の古本屋で珍しいものを見つけた。
 戦前の、シリーズものの予約募集冊子である。日本史関係でいくつか買うことにしたが、まったく知らなかったシリーズものばかりでおもしろい。
 たとえば、蛍雪書院なる版元の、『歴史學叢書 日本研究篇』なる企画。

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全10巻のラインナップは以下の通りである。
(1)日本の文化:圭室諦成
(2)日本の政治:渡辺保ほか
(3)日本の外交:高橋磌一ほか
(4)日本の社会:風間泰男ほか
(5)日本の経済:中村吉治ほか
(6)日本の技術:遠藤元男ほか
(7)日本の思想:川崎庸之ほか
(8)日本の芸術:森末義彰ほか
(9)日本の近代:原平三ほか
(10)日本の現代:津吉英夫
 だが、全国の図書館の蔵書の状況を見るに、どうやらこれは2冊しか出なかったらしい。「豫約會員にだけ頒布致します」と謳っていたのに、これはちょっとひどい。残る8冊は、誰も手に取ることのない書物となったのだ。こうした未発の可能性を指し示す点に、予約募集の魅力があるのだろう。
 さて、第9巻として予定されていた『日本の近代』の総説は、原平三という人物に任される予定となっていた。

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これをみて私は、「ああ、原平三は、近代史家としてここまで期待されていたのだなあ」と腑に落ちた気持ちになった。原平三こそ、未発の可能性を体現する人物だからである。

 

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 私が原平三の名前を知ったのは、2016年秋の東大史料編纂所の大展示「史料を後世に伝える営み」である。「原平三日記 疎開関係手帖」というごく小さな古い手帳が出典されていた。1944年、戦火の拡大にともない、史料編纂所は所蔵資料の大規模な疎開を行う。そのきっかけとなったのが、原平三だったという。

 原平三は当時、文部省の維新史料編集官であり、郷里・長野県上田市に維新史料を疎開させる担当者であった。そのため史料編纂所にも疎開を奨めたのだという。
 原平三は1908(明治41)年生まれ。1933(昭和8)年に東大の国史学科を卒業し、以後、文部省維新史料編纂事務局に勤務しながら、維新史関係の論文を30編ほど発表した。
 原は疎開作業中に招集され、1945年、戦死する。ついに生前原は一冊の著作をも出すことがなかったが、彼の論文は、『幕末洋学史の研究』(新人物往来社、1992年)、『天誅組挙兵始末考』(同、2011年)のかたちで刊行されている。維新史料編纂会からは、戦後の明治史をリードする井上清、小西四郎、遠山茂樹、吉田常吉など錚々たる人物が出ている。本来ならそれに原平三が加わるはずだったと、宮地正人は『天誅組挙兵始末考』の解題で述べている。

 

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 惜しまれながらも若くして戦場で没した歴史学者、原平三。どのような人物だったのか気になっていたところ、高野山の奇傑・S博士から、思いがけず『原平三追悼文集』(私家版、1992)なる本を貸していただくことができた。

父は、太平洋戦争で、フィリピン・ミンダナオ島ダバオにて昭和二十年四月十九日戦死いたしました。

という「あとがき」の書き出しの通り、原の長女である小見寿氏がまとめたものである。

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大久保利謙、児玉幸多、小西四郎、遠山茂樹など、東大国史学科や文部省などで原と付き合いのあった歴史家たちが多数追悼文を寄せている。

丸坊主の原さんが京子ちゃんをだいて、哲ちゃんの手を引いて、突然私の家に見えた。頭に手をあてて「とうとう来たよ」と笑っていた。「こんな年輩の者まで来るのではね」といわれた。余りに淡々とした話しぶりに、私の方があせりにも似たものを感じた。後で考えれば、あきらめたということであったのかもしれない。今でも時たまこの時の原さんの淋しい笑顔を夢の中で見る。―遠山茂樹(二十三回忌寄せ書きより)

本書を一読して感慨深いのは、遺されたものたちの思いの強さと色褪せなさだ。二十三回忌、三十三回忌、四十七回忌と節目節目で旧友や家族が集い、原を追悼してきた記録が本書でひとつになった。未発の可能性、むしられた芽としての原がいかに大きな存在だったがわかる。