あとがき愛読党ブログ

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あとがき20 【祝・世界記憶遺産】「東寺百合文書」以前: 網野善彦『中世東寺と東寺領荘園』(東京大学出版会、1978)

ユネスコの記憶遺産(世界記憶遺産)に、東寺百合文書が認定された。

www.asahi.com

 日本のものが認定されてうれしいという以上に、東寺百合文書を保存し、整理し、公開してきたたくさんの人々、とくに所蔵している京都府立総合資料館の人々の尽力が報われたという意味で、たいへんおめでたいできごとだ。

  東寺百合文書は、京都の東寺教王護国寺)が伝えてきた、約25000通にもわたる中世文書の一大コレクションだ。加賀藩主前田綱紀が東寺に寄進した約100箱の桐箱に保管されていたことから、この名前がついている。東寺が伝えてきた中世文書(広義の東寺文書)は、おもに東寺(狭義の東寺文書)、京都府立総合資料館(東寺百合文書)、京都大学教王護国寺文書)の3ヶ所に分かれて所蔵されている。そのうち、量的にもっとも多い府立総合資料館蔵の東寺百合文書が、今回ユネスコの認定を受けた。

 マスコミでの報道では「寺院経営の文書」とされているが、全国に散らばる東寺の荘園経営が寺院経営の大きな部分を占めるので、日本の荘園研究にこの文書群は欠かせない。

 さて、そんな東寺百合文書とたいへん縁の深い人物が、歴史家の網野善彦だ。

 網野は、東寺百合文書を使って卒論(「若狭における封建革命」)を書き、のち左翼活動から脱落して高校教員となってから、学問的な再起を賭けて研究対象として選んだのも、東寺百合文書だった。
 はじめての網野の単著は東寺領の若狭国太良荘を描いた『中世荘園の様相』であり、出世作である『蒙古襲来』や『無縁・公界・楽』の端々にも東寺百合文書が使われている。網野の半生は、東寺百合文書とともにあった。

無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和 (平凡社ライブラリー (150))

無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和 (平凡社ライブラリー (150))

 

  ちなみに、そんな網野ですら

大学入学以前から古文書などに多少関心を持っておりましたが、そのころは「東寺百合文書」のことを「ユリ文書」と読むのだと思っておりました。大学に入学して先輩に「ユリ文書」とはどういうものかと聞くと、「何をばかなことを言っているのだ」と笑われ、そのときに「ヒャクゴウ文書」と読むと知ったのが、この文書との最初の出会いでした。

網野善彦東寺百合文書と中世史研究」(同『歴史としての戦後史学』、洋泉社、2007年、初出1998年)

歴史としての戦後史学―ある歴史家の証言 (洋泉社MC新書)

歴史としての戦後史学―ある歴史家の証言 (洋泉社MC新書)

 

  と言ってるから、みんなが「ユリ文書」「ユリ文書」と間違えるのもやむなし。この記事中では、親しみをこめて「東百(トーヒャク)」と呼ぶことにしたい。

 これら網野の東寺研究の集大成が、主著である『中世東寺東寺領荘園』(1978年)だ。堂々たる網野の初論文集である。

中世東寺と東寺領荘園

中世東寺と東寺領荘園

 

  この本は網野の激しい人生を表現せんとするアツい記述に溢れているのだが、それはまたの機会にとっておくとして、「あとがき」をみよう。「あとがき」には東寺文書とそれに関わるさまざまな人への謝辞がつづられている。ところが、肝心の京都府立総合資料館については、一言も触れられていない。なぜだろうか。

 それは、このときまだ府立総合資料館は東百を公開していなかったからだ。網野は、基本的には東百の原物に触れることなくこの論文集を書いたのである。

 東百はながらく東寺に秘蔵されてきた。それを京都府が購入したのは1967年、目録作成と整理が終わって全面公開されたのは1980年だ。それより以前、(ごくごくわずかの幸運な例外を除いて)研究者が東百を直に見ることは叶わなかった。

 東百はすべてが活字化されているわけではない。現在でもだ。網野の若いころならばなおさらだ。大正時代から東京大学史料編纂所の『大日本古文書家わけ第10 東寺文書』により東百の活字化が進められていたが、当時は第6巻(1939年刊)で止まっており、「い函」から「を函」の一部まで(5000通強)しかカバーしていなかったから、東百のトータルには遠く及ばない。

 ちなみに2015年現在、これは16巻まで出ている。またそれとはかぶらないように、府立総合資料館も2004年から『東寺百合文書』の刊行を始め、11巻まで出ている。二つ合わせて活字化が完了するのはいつになるのだろうか…。 

東寺百合文書〈11〉チ函(3)

東寺百合文書〈11〉チ函(3)

 

 原物も活字本もダメ。こんな状況で当時のひとびとは、どのようにして東百を参照したのだろうか。前置きが長くなってしまったが、今回は、府立総合資料館が東百を公開する以前のアクセス環境を「あとがき」も用いつつ再現してみたい。こんなことはちょっと上の世代には常識なのだろうが、そういう残りづらいことこそ言語化しておく価値があると、下の世代としては思う。

 

*********

 

 まずサンプルとして、『中世東寺東寺領荘園』のp434、第Ⅱ部第4章第4節の註(15)を見てみよう。

白河本八、寛正三年十二月十三日、乗琳房栄俊補任状(?)。この文書は書写が不完全と思われるが、ハ一三―二〇、年未詳十一月晦日、代官乗琳房栄俊注進状に「(…)」とある。この文書は恐らく寛正三年の文書であろう。

 ここでは以下の2通の文書が典拠として使われている。

A. (寛正3年?)11月30日代官乗琳房栄俊注進状(ハ13―20)

B. 寛正3年12月13日乗琳房栄俊補任状(?)(白河本八)

 このさりげない出典表記に、網野、ひいてはこの世代がどのようなかたちで東百を閲覧していたかが分かる。

東大史料編纂所影写本

 文書Aの方から見てみよう。この(ハ13―20)という番号はなにを指しているのだろうか。序章の註で網野はこのような断り書きを入れている。

以下「東百」と略称し、(…)引用に当っては函名及び、東京大学史料編纂所所蔵影写本の分類番号のみを掲げる。―『中世東寺東寺領荘園』p77

これは、東百原物ではなく、東大史料編纂所にある影写本(精巧なコピー)に付与されている記号だったのだ。「ハ13―20」は、東大影写本の「ハ函の13から20」を意味している。

 この当時、東百を引用するときは、東大影写本の記号で出典を表記するのがスタンダードだった。

 例えば、かの有名な「永仁の徳政令」。この有名な法令のもっとも整った条文は、東百のなかにある。東百が現在まで伝わらなければ、この有名すぎる法の全体像は分からなかったはずだ。

f:id:pino_quincita:20151010101707p:plain

hyakugo.kyoto.jp

徳政令―中世の法と慣習 (1983年) (岩波新書)

徳政令―中世の法と慣習 (1983年) (岩波新書)

 

 これは現在の府立総合資料館の整理番号であれば、”京函/48/2”から”京函/48/4”となる。ところが、鎌倉幕府法の権威である『中世法制史料集第一巻 鎌倉幕府法』(岩波書店)では、この「永仁の徳政令」の出典表記は、 「東寺百合文書京一至十五」となっている。京函であることまでは同じだが、そのあとの数字が異なる。この番号は、東大影写本のものだ。1955年初版の『中世法制史料集』が参照したのは、東大影写本だったのだ。

 また、網野と同世代の研究者である上島有の最初の論文集『京郊庄園村落の研究』(塙書房、1970年)を開いてみよう。上島は創設時から府立総合資料館で東百の整理に携わってきた功労者だが、この時期の論文のなかで東百を引用するときは、わざわざ断りをいれるまでもなく東大影写本の番号で出典を表記している。

http://www.hanawashobo.co.jp/contents/imgl/978-4-8273-1652-0.jpg

 なぜこのような出典表記がスタンダードだったのか。それはこの当時、東百を参照するもっとも一般的な方法が、東大影写本を見ることだったからなのだ。京都にある文書を見るためには東京に行かなければならない。このねじれた状況を、上島有はあとがきで書いている。

東寺百合文書は中世史研究の最高の史料として、明治時代から東京大学史料編纂所および京都大学文学部国史研究室において影写本が作成されて、学界において広く利用されてきた。しかしその原本は長く東寺に秘蔵されて、その価値の高さとその量の厖大さのゆえに、簡単に研究者が利用しうるような状態ではなかった。私が矢野庄や上久世庄の史料を収集するに際しては、原本が身近な東寺にあるにもかかわらず、東京大学史料編纂所の影写本を撮影するため、重いカメラをひっさげて、何度となく上京したものであった。そしてその度毎に、そう簡単に百合文書の原本は閲覧しうるものではないことが分かっておりながら、原本のある京都から、影写本をみるために上京することに、何んとなく矛盾を感じていたものである。

―上島有『京郊庄園村落の研究』あとがき

  そういう意味では、東大の出身でまず東京で就職した網野は比較的東百を参照しやすい環境にあった*1。網野は都立高校に勤務するかたわら、休みや研究日などを使ってバスに乗り東大史料編纂所まで通い、若狭国太良荘関係史料を中心に東百をエンピツで筆写する生活を続けていた(コピー機普及以前はこれがふつう)。この下積み時代、同じように太良荘関係史料を筆写するため京都からきていた若手研究者に、大山喬平(現京大名誉教授)がいる。

…私は東寺百合文書のなかの太良荘の文書を探しては、毎日、一点、一点、筆写していた。影写本がまだ緑色のハードカバーになる以前、薄茶色の和表紙のままのころである。七、八人の外部閲覧者のなかに、これも浅黒く精悍そうな顔つきの大柄な人物がいて、ずっと無言で百合文書の影写本を見ている。はじめは気がつかなかったが、出納で出し入れする影写本が、どうも私が見ている号数と同じあたりが多いらしい。百合文書のなかでも、太良荘関係が集中する部分があって、そういうあたりで私と衝突しているらしい。何となく気になりながら、互いに名乗りあうこともなく、一週間ばかりで私は京都に引き上げた。その人物が網野さんだった。

―大山喬平「出会いと衝突の日々」(岩波書店編集部編『回想の網野善彦』、岩波書店、2015年、初出2008年)

回想の網野善彦――『網野善彦著作集』月報集成

回想の網野善彦――『網野善彦著作集』月報集成

 

  東大影写本の淵源は、1886年から翌87年にかけて京都府と内閣臨時修史局(東大史料編纂所の前身)とが行なった東寺文書の悉皆調査までさかのぼる。この大規模な調査の結果をもとに影写本が作成され、1907年ごろにほぼ完成した。上島有は言う。

東寺百合文書が全面公開される昭和五十五年(1980)までは、史料編纂所の影写本が東寺文書に関する唯一の原点であった。―上島有「寺宝としての東寺百合文書の伝来」(京都府立総合資料館編著『東寺百合文書にみる日本の中世』、京都新聞社、1998)

 こうして戦後のある時期まで、数々の研究者たちが東大影写本を使って、東寺東寺領荘園の研究をしていたのだった*2

白河本東寺百合文書―東大影写本以前の近世写本たち

 次に、網野論文集に登場する、「白河本八」と出典が表記されるB文書について見てみよう。これは、国立国会図書館所蔵「東寺百合古文書」(通称白河本)という写本の第8冊を参照していることを示している。これは寛政年間に松平定信によって作られた東寺文書の写本だ。この白河本以外にも、文化年間に伴信友によって作られた写本「東寺古文零聚」(小浜市立図書館蔵)など、東大影写本以前の近世写本はいくつかある。

 これらの近世写本には、東大影写本や、教王護国寺文書などに入っていない文書がかなりの点数含まれていた。そのため、東百公開以前はこれらの近世写本もかなり頻繁に使われた。たとえば日本の荘園制理解の基礎を作った中田薫も、白河本に見える荘園史料を随所に用いている。寄進地系荘園の典型として教科書にいまだに載りつづけている鹿子木荘の関係史料も、中田は白河本を出典として議論している(『法制史論集』第2巻)。

(下の画像は東百「肥後国鹿子木庄条々事書案」の原物画像)

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 以上、まとめておこう。1970年代までの研究は、東大影写本がメインに用いられ、その穴を白河本などの近世写本によって補っていた。つまり、当時の史料(東百)へのアクセスは、松平定信や、国学者、修史局など19世紀の歴史学の成果を直接基盤としていたのだった。

府立総合資料館による公開、そして東寺百合WEBへ

 1967年、網野の状況は大きく変わる。網野は名古屋大学に転職し、翌年大学の予算で東寺百合文書の東大影写本、およびそれに含まれる「東寺廿一口供僧方評定引付」原本の写真本を購入できることとなった。これによって網野は勤務先で東寺研究を続ける条件を整えたのだった。

 しかし、まさに同じころ、東寺百合文書の状況も大きく変わる。1967年、京都府によって東寺百合文書が購入され、府立総合資料館によってその整理が始められる。この過程で、東大影写本やその他の写本でも紹介されていなかった数千点の文書が新たに存在することが分かった。

1967年、私が名古屋大学に赴任したこと、「百合文書」を京都府立総合資料館が引き取られることになると聞き、その現状を間接にうかがってみたところ何千通という新発見の文書が出現したことを知りました。しかも、その中に荘園関係の検注帳や散用状が多く含まれていると聞いて、その多さに愕然とするとともに、公開までの長い時間を考え、東寺の研究を正面からするのはあきらめざるを得ませんでした。やむなく方向転換し、荘園・公領の国別研究や非農業民の研究を始めたわけです。

網野善彦東寺百合文書と中世史研究」(同『歴史としての戦後史学』、洋泉社、2007年、初出1998年)

 史料アクセスの環境が変わったことで、網野の研究の方向性も変わってしまった。ただこの方向転換した路線の先には、「荘園公領制」論や、『無縁・公界・楽』につながる非農業民研究などの仕事がある。後年の網野のブレイクは、この一件なくしてはありえなかったかもしれない。

  その後府立総合資料館は東百の整理を続け、『東寺百合文書目録』(全5巻)を編み、ついに1980年、東百を全面公開する。そして2014年、全点デジタル画像をwebで閲覧できる東寺百合文書WEBを公開。これらの軌跡は私が語るまでもない。

hyakugo.kyoto.jp

 さて意外と顧られていないが、東百原物だけでなく、東大影写本や白河本など過去の写本も実はwebで閲覧することができる。というわけで、青年時代の網野になったつもりでこれらを見てみよう。Let's トーヒャク!

①A. (寛正3年?)11月30日代官乗琳房栄俊注進状(ハ13―20)

 東大影写本を底本としていた、文書Aだ。東大影写本は、史料編纂所のデータベースから閲覧することができる。ただ、史料編纂所DBの各レコードはURLが固定してない(不便!)ので、以下のURLから実際にアクセスして調べてみてほしい。

史料編纂所HPにアクセス

http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/index-j.html

・バナーの中央「データベース検索」をクリック

・「データベース検索」の注意書が表示されるので、中央下部の「データベース選択画面 」をクリック

・編纂所のさまざまなデータベースが表示されたぞ。左上の「史料の所在」カテゴリから、「所蔵史料目録データベース 」を選択

所蔵史料目録データベース 」の キーワード検索の画面に移るが、キーワードのボックスは使わず、「項目検索」をクリック
・項目検索の画面が開く。上半分のプルダウン「書名・史料名」を選択、ボックスに”東寺百合文書”と入力。下半分のチェックボックスの「影写本」にチェック。

・検索!ちなみにエンターキーを押しても検索されない仕様(ナンデ!?!?)なので、「検索」ボタンを押す。

・検索結果のレコードのうち、1番目のもの(請求記号が「3071.62-2」)の右の「全表示」をクリック。

・レコードの詳細画面が表示される。

 見れば分かるが、ズラズラと413点の項目が並んでいる。これが、明治期に作られた東百の影写本1冊1冊の書誌になっている。探している文書Aが収録されているのは、その227冊目だ。「227(ハ之部(2)(13-20)) 」という記載がある。その横の「イメージ」ボタンをクリックすれば、ついに網野たちが見た影写本の画像データを開くことができる。画像データの1点目は影写本の表紙だ。「ハ之部 自十三号至二十号 二」と注記されている。網野の「ハ13―20」という出典表記は、この冊に文書があるということを示していたのだ。ただ、この冊には33点文書が収録されており、網野の出典表記では33点のうちどれを指しているかは分からない。今からみるとずいぶんぼんやりとした出典の書き方だ。ちなみにこの冊の見開き換算で8番目の個所から、文書Aが影写されている。

ちなみに、東百WEBの原物画像データはこちら。

f:id:pino_quincita:20151004212620p:plain

hyakugo.kyoto.jp

東大影写本では封紙を写してしまっていて隠れていたのだが、原物では切封(文書の端を切り込んで紙ひもにしたもの。これで文書を巻く)がきれいに残っていることが分かる。

② B. 寛正3年12月13日乗琳房栄俊補任状(?)(白河本八)

 

  国会図書館所蔵の白河本を底本としていた文書Bを探しにいこう。国会図書館は所蔵の古典籍を順次デジタル化している。現在白河本も、国立国会図書館デジタルコレクションのなかで公開されている。

 デジコレの書誌では『東寺百合文書』となっている白河本の、第八冊目にB文書はある。以下のリンクをひらいてほしい。一番目の画像の左ページから、二番目の画像の右ページにかけて写されているのが、B文書だ。

 

国立国会図書館デジタルコレクション - 東寺百合文書. [8]

国立国会図書館デジタルコレクション - 東寺百合文書. [8]

 東百WEBのなかでこれに対応するのが、次の文書だ。くわしく言うと、ノ函/320/4/だ。

ノ函/320/4/:乗琳挙状|文書詳細|東寺百合文書

 ふたつの文書の画像を比較してみよう。

f:id:pino_quincita:20151004224752p:plain

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ふたつを比べて分かる通り、原物は折紙形式で、白河本では端裏書(「太山太良庄 寛正三」という注記)を写し落としてしまっている。何よりもミステリーなのは、「この文書は書写が不完全と思われる」と網野が書く通り、白河本のB文書の文言は一見写し落としを想像するぐらい中途ハンパなのだが、B文書の原物もその中途ハンパな文言は変わらないことだ。

 この文書ひとつで網野の論文の論旨が変わってしまうわけではない。しかし、この画像を目の前にしていると、網野はこの文書、見たかったんだろうなあ…と想像してしまう。青年時代の網野がどうしても見ることができなかったのものを、今はスマホで見れてしまう時代なのだ。

むすび

  東寺百合WEBの登場により、東百へのアクセス環境は劇的に変わった。近いうち、東百を論文で引用するときは、東寺百合WEBのURLで表記するのが一般的なお作法になるかもしれない。そういう論文がWEBで公開されれば、そのURLをキーに論文間でリンクが可能になり、新たな研究が…というのも妄想ではない、かもしれない。史料へのアクセス環境は、研究をも左右する。だとすれば、本稿のように史料アクセスの歴史をまとめておくこともなにがしかの意味があると思う。

*1:これは網野没後に行われた対談でポロっと言われていることだが、東大史料編纂所員だった笠松宏至は、東大国史の教員である宝月圭吾(網野の指導教官)の頼み入りで、東百の原物(!)を網野に閲覧させた。ちなみにそれが笠松と網野との初対面だったらしい(笠松宏至・勝俣鎮夫「網野善彦さんの思い出」、『回想の網野善彦』、初出2006年)。当時、公にはなっていなかったが、大日本古文書編纂のため、東百の原物の一部が史料編纂所に貸し出されおり、史料編纂所員は、研究者で唯一東百の原物に触れうる機会を持っていた。網野は大学時代以来の縁がある宝月を通じ、おそらくは内々に、これを手に取ることを実現したのだろう。なお網野の論文や本などにこの事実は触れられていない。ただそこで見たのは大した量ではないと想像されるので、基本的には影写本を参照するのは変わらなかっただろう。

*2:なお、上島有の回想にもある通り、京大にも東寺百合文書の影写本があるのだが、実際に自分で使ったことがないので今回は触れられなかった。詳細はおいおい調べていきたい