あとがき2 刊行遅延20年:塩尻公明・木村健康訳『ミル 自由論』(岩波文庫、1971年)
世に出でて花を咲かせた一冊の本の根本には、関わった多くの人間の苦悩と葛藤が埋まっている。それをうかがい知る窓が、あとがきである。
それゆえ、苦悩が大きければ大きいほど、葛藤が深ければ深いほど、あとがきは渋く味わい深いものとなる。
ということで、今回は吉野源三郎の話だ。
- 作者: J.S.ミル,John Stuart Mill,塩尻公明,木村健康
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1971/10/16
- メディア: 文庫
- 購入: 16人 クリック: 117回
- この商品を含むブログ (58件) を見る
塩尻公明・木村健康訳『ミル 自由論』(岩波文庫、1971年)は珍しく、「訳者あとがき」のあとに、別個に共訳者の「解説」と、さらに別の「あとがき」がついている。さらに珍しいことに、その「あとがき」を書いているのは、担当編集者だった吉野源三郎なのだ。『君たちはどう生きるか』で有名な岩波書店の社員だ。
吉野によるこの「あとがき」が、絶品なのだ。あとがき界ではかなり有名な部類に入ると思うが、このブログも始めたばかりだから、こういう古典名作あとがきも紹介していきたいと思う。
吉野が『ミル 自由論』の翻訳を計画したのは1938年のことだ。当初訳者を引き受けたのは自由主義者として名高い河合栄次郎だった。しかし、河合事件により東大教授の職を河合が逐われ、戦況も悪化していくなか、1944年に当の河合は死去。計画は頓挫した。
ところが戦後、吉野の前に、『自由論』の訳稿を持ってある男が現れた。その名は塩尻公明(当時神戸大学)。河合栄次郎の薫陶を受けた塩尻は、河合と相談した上『自由論』の翻訳を完成させていたのだ。
渡りに船。鴨にネギ。この原稿を使って、岩波文庫で『ミル 自由論』が出版される運びとなった。まさにこのとき、1950年。
しかし、そこで技術的なアクシデントが起きる。戦後になり新字・新カナ遣いとなったため、戦中に書かれた訳稿を改訂する必要が出てきたのだ。編集部と著者塩尻とのあいだで相談した結果、その作業は編集者の吉野に一任されることになった。
吉野は自分の仕事のかたわら、その改訂作業に取り組みこととなる。しかしそれは、恐るべき悲劇の序章だった…。
仕事は遅々として進まず、私は常に、塩尻君に対して弁解のことばに苦しむ思いを重ねていた。
『自由論』に関する仕事は、中絶、中絶の連続であった。そして歳月が飛ぶように過ぎていった。
吉野がなんとか作業の4分の1を終えたとき、なんとすでに1969年となっていた*1。「19年かけてこの進捗状況!?」と、この「あとがき」をはじめて読んだ私は仰天した。人間仕事の遅早はしょうがないけど、限度ってもんがあるでしょう。
しかしその年(1969年6月)にとんでもないニュースが吉野を襲う。訳者・塩尻公明が、急逝したのである。
私は、「悔を千載に残す」とはこのことかと思った。焼鏝のような熱い悔であった。そして、心の中で灰をかぶって奈良の葬儀にかけつけた。塩尻君は、私に託すといった以上、最後まで督促じみたことは一言も洩らされなかったのである。
読んでいるこちらが心苦しくなる状況だ。つらい、つらすぎる。
しかし、その次の段落で私はまた腰を抜かす。
私の訳文整理は1970年の夏に、やっと完了した
やればできるじゃん。やればできるじゃねーか!!
「目的が定まったときに 出る人の力、それがいったいどれ程のものか。ひとは時に、トイレに行くことさえ 面倒だと思う。しかし同じ人間がバケーションの為なら何万キロも離れた海外へ旅行する…」という(バキより)。19年かかって4分の1の仕事も、本気で1年やれば4分の3できるということか。
結局塩尻の校閲は不可能なので、別人がその任にあたり、共訳者として名を連ねるかたちで、岩波文庫『ミル 自由論』は1971年に出版された。河合栄次郎にこれを依頼したときからあしかけ33年間。その過程を、すべて見てきたのは編集者である吉野だけであり、この「あとがき」はあらゆる意味で書かれねばならなかった*2。