あとがき11 著者名を信じるな!? :大類伸『列強現勢史・ドイツ』(冨山房、1938年)
大類伸(オオルイ, ノブル, 1884-1975)という、変わった名前の大物西洋史家がいた。東北大の教授だった人物だ。ルネサンス研究など文化史で一ジャンルを築き、日本の城郭史にも詳しい。国会図書館の目録で調べると、大類の著作は100以上引っかかる。本来の中世文化史のみならず、著作の範囲は西洋史全般にわたっている。
それらの中に、1938・39年に富山房から出た『列強現勢史』という本が3冊ある。ロシア、ドイツ、東欧などの諸国の近現代史をまとめたものらしい。どれも今の新書1冊分ぐらいの分量はあるから、1年半で3冊というのはなかなか早い刊行スピードだ。
そのドイツ篇の序を見てみよう。
本書は列強の現勢を理解せんが為め、各国民毎に約五十年来の史的発展を考察したもので、先ずドイツ篇を公にした。本編の刊行には、資料の蒐集、整理更に本文の叙述等すべての点に於て、新進のドイツ史専攻家文学士林健太郎君の力に負う所が多大であった。ここに同君の労に対し深く謝意を表する次第である。
昭和十三年三月 著者識す―大類伸『列強現勢史・ドイツ』
いささか唐突に謝辞が送られているのは、当時25歳の林健太郎である。のちに東大教授、文学部長、東大総長、参議院議員とパワーエリートの階段を駆け登り、全共闘にカンヅメにされても音を上げなかった豪傑の彼も、この時はまだ無給の東大副手であった。
そんな若手の林健太郎に対して、この謝辞はかなり過分である。感謝、感謝、マジ感謝。林健太郎は一体どんなことでこの本に貢献したのだろうか。
結論からいうと、この本は、一冊まるごと林健太郎が書いたのである。
この裏事情は、1959年に林健太郎が『文藝春秋』誌上に書いた自伝的エッセイ「マルクス主義との格闘」に描かれている(最近文春学藝ライブラリーで出たアンソロジー『常識の立場』に収録されたため、読みやすくなった)。
当時、林健太郎はお金がなく、実家からお小遣いもらってしのいでいたらしい。その林に声をかけたのが、当時東京帝大に講師として出講していた大類伸だった。
(…)ある日、大類先生から大へんうまい仕事を頼まれた。冨山房で百科文庫というものを出すことになり、その中に大類先生の著となる世界各国の最近五十年位の歴史の叢書を入れることになっている。ついてはそのドイツの巻を書かないかというのである。三百枚で報酬は三百円、百円は前払いであとは原稿が出来てから支払うとのことであった。―林健太郎「マルクス主義との格闘」
当時教員の初任給は50円程度だから、300円はそれなりの大金だ。二つ返事の林ははりきって原稿を書き上げた。
こういう経緯で林の原稿は大類伸名義で出版された。ただ、あの謝辞にはやや面食らったらしい。
弟子が先生の本を書いた時には原文で「何々君の援助を得た」と一行位書かれれば上乗だと聞いていたが、先生のはえらく具体的である。「本文の叙述」とはあまりに正直すぎるではないか。こんなことを書いたら先生が書かれたものではないことがすぐわかってしまうから本の売行に差支えはしないか。しかし私にとってはこれはたいへん光栄な話である。―林健太郎「マルクス主義との格闘」
さてここで注目したいのは、林は代筆のことを、まったく悪びれず公の場で書いていることである。
当時このような大物学者の代筆はよくあったらしい。例えば津田左右吉は自伝的エッセイ「学究生活五十年」(岩波文庫『津田左右吉歴史論集』にも収録)で、師匠格の白鳥庫吉の添削のもと初めての本を書いた思い出を綴っている。「著者としての先生の名を辱かしめることになりはしなかったかと気づかわれもしたが」と婉曲に書いているが、要は白鳥庫吉の名前で津田の原稿は出版されたのだった。1897年に富山房(奇しくも!)から出版された『西洋歴史』がそれにあたるようだが、序や奥付のどこを見ても、「白鳥庫吉 著」以外の情報は書かれていない。
以下は裏をとってないため、検索対策として「つださうきち」方式で書くが、ミヤザワ トシヨシがアシベ ノブキに一冊書かせたとか、シノハラ ハジメの翻訳がオカ ヨシタケの名前で出ている、なんて話はごまんとある。
以上、代筆自体は「ままある」ことだったのは間違いないが、可笑しいのは、林がこの代筆を美談だったと言い張っているところだ。
林は他にも、指導教官今井登志喜の名で幾つか文章を書いていた。その原稿料は全額執筆した林がもらっていた、という。当時帝大教授だった今井の原稿料は相場よりもかなり上であり、林が本名で書くよりもずっと儲かったのだそうだ。
先生が弟子に代筆させるということは日本の学界の弊風だと云われている。しかし今井先生の場合は、全く収入のない弟子に経済的援助を与えるという慈善事業であった。―林健太郎「マルクス主義との格闘」
まるで従者に封土を授与するのと同じように、代筆は教官による恩恵給与だったのだという。もっとも、「弊風」にも良いところがあった、というよりも、このような利害が絡んでいたからこそ、「弊風」が絶たれなかったのだと自分はおもうが…。
さて、林のエッセイにはこんな見逃せない記述がある。
「列強現勢史」は私の次に岩間徹君(現東京女子大教授)の「ロシア」が出、次に「東中欧諸国」というのが出たが(この筆者は東北大出の人でまもなく戦死してしまった)他の人のものは遂に出なかった。―林健太郎「マルクス主義との格闘」
ドイツ篇以外の2冊も代筆だとバラしているのだ。それではその序を見てみよう。
但しロシヤに関しては真相を知るに甚だ困難であり、殊に現代のソヴィエット・ロシヤに就て左様である。徒らに皮相を描いてその真髄に触れ得なかった恨は少くないのである。本書の起稿に際しては文学士岩間徹君の労に俟つ所頗る多かった。資料の蒐集、整理及び叙述等殆ど同君の手を煩わした。同君は外務省調査課嘱託として活躍されつつある新進史家である。茲に本書の成るに際し同君に厚く謝意を表する次第である。
昭和十三年八月 著者識す―大類伸『列強現勢史・ロシヤ』
林健太郎のドイツ篇の謝辞とほとんど同じだが、ちょこちょこと文言が変えてあるあたり、かえって悪質な印象を受けるのは自分だけだろうか。
岩間徹(1914-1984)は戦後、東京女子大の教官となるが、その退官記念の文章「岩間徹教授を送る(定年退職教授紹介)」(pdf)にはこのような記述がある。
教授の御業績としては、大学御卒業のすぐあとに大類伸先生のお名前で刊行された『列強現勢史ロシア』をはじめ、多数の著書・論文がある。―今井宏「岩間徹教授を送る(定年退職教授紹介)」
なんてことはない、これも周囲の人間には先刻ご承知だったらしい。
さて次に、東中欧篇を見よう。
本篇の起稿に当り、資料の整頓及び叙述に甚大の努力を煩わした文学士萩中三雄君は、我等の研究室を巣立った新進の学徒であり、従来余り多く問題とされなかった東中欧の歴史に夙くも研究の手を着けた篤学の士である。しかも同君は今や中支方面の第一線に立って男児報国の誠を致しつつある。筆を投じて戎軒を事とす、筆端世界の現勢を論じたる君が、今親しく大陸の第一線に立っての感慨や如何に。茲に同君の労に対し多大の謝意を表すると共に、その健闘を祈って已まない次第である。
昭和十四年三月 著者識す―大類伸『列強現勢史・東中欧諸国』
この萩中三雄という人物の事績はよくわからない。仙台で戦前発行されていた『西洋史研究』という雑誌に2本ほど東欧史に関する論文が載っているようだが、これ以外の著作を遺さず戦死してしまったのだろうか。
今回は林健太郎がたまたまおしゃべりだったので、代筆であることがはっきりしたのだが、こうした埋もれてしまった事例はまだまだあるに違いない。重々気をつけなくてはと肝を冷やしたが、思えばテクストの著者名を額面通り信じず批判的に吟味するというのは、文学史、思想史では基礎中の基礎だろう。これからも序、謝辞、そしてあとがきへの注視をやめることはできない。