あとがき12 卒論を断固出すための「断念」術: 小峯和明『今昔物語集の形成と構造』(笠間書院、1985年)
■あとがきより
年末ですね。卒論シーズンですね。この時期、さる本のあとがきを思い出します。
論文は科学を装った詩であり、論文を書くとは断念することだ。
これは、著者小峯和明(立教大学名誉教授)が、学生時代教官から言われた言葉です。彼が生涯初めて一書を成し、あとがきを書く段になって、思い浮かべたことば。それがこの「断念」だった―。これを目にしたとき、浮かんだのは、卒論のときの自分と、卒論出せなかった自分の周りの人々の顔でした。マジメに1年間勉強してたのに、なぜ彼/彼女たちは提出日に間に合わなかったんだろう。そんな彼/彼女らのために、「昔、この言葉に出会っておけば!」と思ったのです。
今回は「論文を書くとは断念することだ」、このフレーズを卒論執筆のスローガンとして読みかえようという試みです。
■書き始める「断念」
過去に還れたら、マジメなのに卒論が書けなかった知り合いたちに私は言いたい。
勉強してたら、卒論は書けません、と。
さすがに「勉強してたら」というのは過言ですが、彼/彼女らは、勉強しすぎたあまり、いや勉強だけしすぎたあまり論文が書けなかったのではないかと私は密かに思ってきました。
つまり、勉強することと、執筆することは異なるし、時には矛盾すらすることさえあるということです。
インプットである勉強は、地平線の先へ先へと伸びていく「膨張」ですが、アウトプットである執筆は、自身の内へ内へと引きこもっていく「収縮」です。
学ぶと謙虚になりますから(学びて然る後に足らざるを知る!)、「まだ論文を書き出すのには早いな…」となるのが人情です。書き出すのに躊躇するのは、勉強してきた証拠だと思います。
しかし、「もっと膨張したい!(or しなければ!)」という気持ちをおさえて、収縮へと反転しなくては、永遠に卒論を終えることはできないのです。
このとき求められる姿勢が、まさに「断念」なのではないでしょうか。「膨張」「勉強」から「執筆」というステージに進むことを可能にするのが、書き始める「断念」なのだと思います。
※誤解のないようにいっておくが、これは、序章から結論まで構想をすべて終えてから執筆をはじめよう、というわけではない。むしろ、書ける部分から書いていくのがセオリーであって、その「部分」が全体だろうが、章、節、あるいは項だろうが、ひとつひとつの「部分」で小さな「断念」を経験しながら執筆していくことになるだろう。
■書き終える「断念」
「絵」を描くという作業は『無限』である。どこで終わっていいのか、一枚をずーっと描いてられる。
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論文も同じだと思います。見れば見るほど自分の文章は不完全に見えます。
しかし、論文のクオリティと提出期限、優先すべきなのはどちらでしょうか。
私のある先輩はかつて、大略このようなことを言っていました。
およそ良い卒論とは、書かれた卒論のことだ。
どんなによいプロットだろうと、書かれていない卒論は、書かれた卒論に劣る、というのです。卒論は書かれていないといけないのです。至言だと思いました。
これ以上の執筆よりも、提出することを優先する。その際に要請されるのが、もうひとつの「断念」、すなわち書き終える「断念」だろうと思います。
ちなみに、絵が『無限』に描けるという荒木飛呂彦は、10時間睡眠・週休2日・徹夜なしというおよそマンガ家としては考えられない規則正しい生活を送っていることは有名です。荒木の場合は、その生活サイクルを優先させることで『無限』の絵を切り上げることができているのでしょう。卒論生の場合は、それが提出日(正確に言うと、卒論のデータを大学の要求する書式に整え打ち出して製本するのに十分な時間を提出日から引いた日)ということになります。
■2回のジャンプ
まとめておきます。卒論には、勉強、執筆、提出の3段階があります。書き始める「断念」で最初のジャンプをし、書き終える「断念」で次のジャンプをします。タイミングよくこの2回のジャンプをこなしていくことが、卒論提出のカギだと私は思います。
跳ぶことは恐ろしい。しかし、それを思い切って跳ぶための構えが、冒頭に掲げたあとがきにあると思うのです。
「提出された卒論」に向かって、よき「断念」のあらんことを!