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あとがき8 【ゲスト投稿】長大なる自分語りの祖 : 司馬遷『史記』その②

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あとがき7 【ゲスト投稿】長大なる自分語りの祖 : 司馬遷『史記』その① - あとがき愛読党ブログ

史記〈8〉―列伝〈4〉 (ちくま学芸文庫)

史記〈8〉―列伝〈4〉 (ちくま学芸文庫)

 

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【提要】

  •  史記』の先秦諸子に関する列伝には、その文献・学術・学派に対する「序」の性質がある。
  • 司馬遷は、司馬氏の史官としての仕事を諸子にも劣らない、一つの学術分野と自負した。
  • そこで、司馬氏の学術の発祥と、『史記』に結実するまでの来歴を、「自序」に記した(そのために「自序」がまるで司馬談司馬遷の列伝のようになった)。

         というのが、本稿の主旨である。

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承前

 

「太史公自序」の「四」の部分は、あとがきの体例のうちの「乙」にあたり、とりわけ『淮南子』の「要略」によく似ている。思うに、『史記』は司馬談司馬遷個人の作であり、この二人以外に学派集団を形成してはいない。『史記』の学術を引き継ぐ弟子がどれだけいたのかを考えると、『淮南子』以上に散佚しやすい文献であった。そこで、「要略」同様、全篇について説明する文章を設けることにより、散佚を防ごうとしたのではなかろうか。
 司馬遷は、「自序」に『史記』全一百三十篇の解説文を置く他、

完成した『史記』を)名山に埋め、副本を都に置いておき、後世の聖人君子(によって見出され、評価されること)を待つ。

―「太史公自序」

分かってくれる人に伝授し、巷間に普及させる。

―「報任少卿書」(『漢書』巻六十二 司馬遷伝 所引)

と自ら述べるように、『史記』の伝承に力を尽くした*1。しかし、それでも百年も経たないうちに十篇ほどが失われ、現行本の日者列伝・亀策列伝などは、元帝・成帝期に褚少孫が補ったものとされている。出版技術の無い時代、著作を後世に残すのは実に難しいことだったのである。

 

 「一」「二」「三」の部分は、あとがきの体例の「甲」にあたる。とはいえ、その分量は従来のあとがきの並ぶところではない。あとがきや「序」というよりも、もはや司馬談司馬遷についての列伝、すなわち「自伝」である。班固もそのように見なしたのか、『漢書司馬遷伝を記す際に、この「太史公自序」の文言をほぼそのまま用いている。
 では、司馬遷は何故、父と自身についての列伝を著したのであろうか。一つには、孝心から父を顕彰しようとしたという動機もあったのだろう。あるいは、従来の「甲」型のあとがきを書こうとしたが、他の列伝を著す際の体例に則って執筆したら、ついつい長くなってしまったということも、考えられなくもない。しかし、おそらくはそれだけではないように思う。古代の記録を集めて史書を編纂するという自らの事業を一つの学術分野と考え、一家の学問としての由来・理念を述べようとした時に、最も適切な方法が、列伝だったのではなかろうか。

 『史記』の列伝は、基本的には傑出した人物の言行を記録したものだが、中には諸学術の淵源を求め、流伝を明らかにしようとして列伝が執筆されることもあった。例えば、司馬遷は、「管晏列伝」・「老荘申韓列伝」の末尾で「太史公曰」として、次のように述べている。

管氏の「牧民」「山高」「乗馬」「軽重」「九府」諸篇や『晏子春秋』を読んでみたところ、それらの文言は非常にきめこまやかであった。これらの著書を読んだ後、私は彼らの言行について知りたいと思い、そこでこの列伝を設けた。書物自体は世間に流通しているのでここでは論ぜず、言行のみを紹介した。

―『史記』巻六十二 管晏列伝

荘子・申不害・韓非の学術は)全て『老子』の思想に淵源を持つ。老子は深遠である。

―同書巻六十三 老荘申韓列伝

司馬遷は、『管子』『晏子春秋』を高く評価し、その学術の始祖を明らかにすべく「管晏列伝」を書いた。また、『荘子』『申子』『韓非子』の学術をいずれも『老子』に端を発するものと見なし、同系統の学術として「老荘申韓列伝」の一篇に伝記をまとめたのである。これらは、各文献・各学術を学ぶ上でのイントロダクションとしての性格も持っており、あとがきの体例の「甲」に合致する。他にも、「司馬穣苴列伝」・「孫武呉起列伝」・「伍子胥列伝」・「商君列伝」・「蘇秦列伝」・「張儀列伝」・「孟子荀卿列伝」などが、『司馬法』・『孫子』・『呉子』・『伍子胥』・『商君』・『蘇子』・『張子』・『孟子』・『鄒子』・『荀子』などの文献・学術の始祖についての記録に該当する。後の劉向・劉歆による「叙録」や分類の精度には遠く及ばないが、『史記』のいくつかの列伝には、諸学術を分類し、淵源を究明する意図が込められている。

 思うに、「太史公自序」の「一」~「三」の部分は、「管晏列伝」「老荘申韓列伝」などと同様に、学術の淵源・来歴を論じた文章なのではなかろうか。

 「太史公自序」は、司馬氏の祖先が太古には天文を司り、周王朝では代々周史を司ったと述べる。そして、周の恵王・襄王の時期(前七世紀)以降はしばらく史官の職から遠ざかるが、司馬遷の父司馬談が、再び太史となったという。つまり、(およそ500年間もの空隙はあるものの、)司馬談司馬遷の史官としての学術は、遠く周代に淵源を持っていることになる。司馬談司馬遷に述べた遺言でも、

我々の先祖は周朝の太史であった。

お前もまた太史となって、我々の先祖の職を継承せよ。

我々が太史となったのに名君・忠臣の事柄を載せず、天下の記録を廃絶してしまうようなことを、私は非常に恐れている。

と、その自意識が顕れている。周代の太史に発する学術を受け継いだ司馬氏こそが史官にふさわしく、天下の記録をまとめあげることができるというのである。
 そして「太史公自序」は、司馬談の遺志を継いで完成させた『史記』について、

記録を集めて六芸を補佐し、一家の言を成した。

と述べる。「一家」というのは、司馬氏の学術儒家・法家などにも並ぶ一つの学術分野だということである。そして、「一家の言を成した」というのは、『史記』が、儒家の『孟子』や法家の『韓非子』などのような学派固有の文献を作り上げたということであろう。
 司馬遷自身は

(『史記』は単に記録をそのまま載せただけであり、)『春秋』に並べて評価するのは誤りである。

と謙遜するものの、「太史公自序」を通読すると、『史記』が『春秋』の意義を継承するという自負が随所に散りばめられている。「礼・義の大宗」であり「乱世を正す最善の手段」である『春秋』を継承するとすれば、まさに「一家の言」であり、先秦諸子にも匹敵する一つの立派な学術分野である。
 なお、『史記』は、現在では『史記』と呼ばれているが、司馬遷自身はこれを『太史公書』と命名した。「史記」というのは、本来は歴史的記録を指す一般名詞であり、無味乾燥した名称である。一方、「太史公書」と名乗った場合、これは「太史公が著した文献」「太史公の学術を示した文献」という意味合いが強い。『漢書』巻三十 芸文志を見ると、漢代諸子の学術として『陸賈』『賈誼』『董仲舒』といった文献が著録されており、『太史公書』(『漢書』芸文志では『太史公』として著録)というのも、また一家の学術としての名称にふさわしい。

 司馬遷は、「管晏列伝」で『管子』『晏子春秋』の学術の淵源を論じ、「老荘申韓列伝」で『老子』『荘子』『申子』『韓子』の学術の推移を論じたように、「太史公自序」では司馬氏の学術の淵源と、『史記』という形で結実するまでの来歴を論じたのである。管仲・晏嬰の生平をまとめた列伝が『管子』『晏子春秋』の「序」たりえるように、司馬談司馬遷の生涯を述べる列伝は『史記』の「序」たりえるのである。

 

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 「太史公自序」は、太古から現在に到る記録を蒐集・整理する自らの事業を一家の学術とみなし、その学術の淵源・来歴、そして『史記』という形で結実するに到るまでを記述している。『史記』のスタイルから考えて、一家の学術について記述するには列伝形式がもっともふさわしく、「太史公自序」の大半が司馬談司馬遷の列伝(つまり自伝)となったのは、必然のことだったのであろう。
 ただ、司馬氏の史官としての学術は、遠く周代にまで遡るものの、漢代では所詮司馬談司馬遷親子の学であり、学派集団としての地盤は極めて弱く、『史記』が完本として伝承される望みは薄い。そこで司馬遷は、「太史公自序」を単なる列伝だけでは終えず、末尾に全一百三十篇それぞれについての解題を付したのであろう。
 このようにして編まれたのが「太史公自序」であり、冗長に過ぎるようではあるが、『史記』の学術と意義・内容を述べたあとがきなのである。

 『史記』の後には、班固による『漢書』巻一百 叙伝が「多分に私事に渉るあとがき」として挙げられるが、これは形式的に「太史公自序」を模したに過ぎない。班氏の歴史家としての学術が古代から続いているわけでもないのに、楚の令尹の子文から班氏の歴史を書き出している。要するに単なる伝記であり、学術の発祥・来歴を論じたものではない。

漢書〈8〉列伝5 (ちくま学芸文庫)

漢書〈8〉列伝5 (ちくま学芸文庫)

 

  むしろ史家ではない『孔叢子』の末尾に伏せられた「連叢子」が、孔氏の族譜と学術を述べており、「太史公自序」の意義に近いと謂えよう。(二歩/了)

 

*1:実際には親族の間で伝わったのか、『漢書』巻六十二 司馬遷伝によれば、宣帝の時に司馬遷の外孫の楊惲が『史記』を大いに顕彰し、王莽の時に司馬遷の子孫が「史通子」に封爵されたという。