あとがき愛読党ブログ

本文まで読んでいることを保証するものではありません

あとがき15 もっとも短い「はしがき」: 野中哲照『後三年記の成立』(汲古書院、2014年)

もっとも簡潔な「はしがき」に出会ってしまった。

はらりと表題紙をめくると、左右にたっぷりと余白のあるページが現れる。その中央に、ほんの少し大きいポイントの活字で以下の文言のみが記されている。

はしがき

 

従来、貞和三年(1347)とされてきた『後三年記』の成立年次を天治元年(1124)に引き上げる――これが本書の主旨である。

 

これが、野中哲照『後三年記の成立』(汲古書院、2014年)冒頭頁の全てである。

http://www.kyuko.asia//images/book/186023.jpg


一般的に、このような論文集は、長年別個に書かれてきたもの集成であるからか、「その本で何が明らかになるか」は、往々にして模糊としていることが多い。それに比べた本書の端的さ、鋭さには、思わず息を呑む。

軍記物語『後三年記』の成立年が200年引き上げられることは、些事ではない。
*『後三年記』の成立が院政期だとすれば、『平家物語』などよりも前のものとなり、『将門記』『陸奥話記』などの初期の軍記と『平家物語』など鎌倉期の軍記との数百年の空白を埋める重要なテクストとなる。また、『後三年記』の制作が後三年の役(1083~1087)の当事者である藤原清衡周辺であるという著者の主張が正しいとすれば、後世の絵空事と歴史学から見られてきたこのテクストは、一挙に政治史的な対象となる。

このシンプルな命題を証明するために、国語学歴史学にもまたがるさまざまな知見が用いられ、新しい方法論の提唱にもいたる。本書の全てがこの「はしがき」に収斂するように構成されているのである。

本書の「あとがき」にはこう記されている。

なお本書の「はしがき」がわずか一文であるのは、故藤平春男先生の、「論文でも本でも、その意義をひと言で語れるようでなければ駄目だ」との教えによる。

同じく「あとがき」によれば、驚くべきことに、本書のテーマは30年前の卒業論文で得た着想なのだという。しかし、本書まで至る道は決して平坦ではないことは容易にわかる。これを貫徹するため、どれほどの葛藤を乗り越えてきたのだろうか。
博士論文*1になりうるような一書を成すことへの気魄、緊張感、そのようなものを感じて私は居住まいを正してしまったのだった。

 

*1:著者が学位を授与された博論は本書の原型であるが、『後三年記』に加えて『保元物語』も論じたものだったようである。

https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/40240/1/Shinsa-6364.pdf

あとがき14: 『人生はニャンとかなる!』(文響社、2013年)とそれみたいなもの

■ウェブ書影展「『人生はニャンとかなる』とそれみたいなもの」によせて 

2014年の書籍年間ベストセラーが日版によって発表されました。

年間ベストセラー | ベストセラー一覧 | 日本出版販売株式会社

去年の総合1位は村上春樹色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』。そして、今年の1位は…

槙孝子・鬼木豊『長生きしたけりゃふくらはぎをもみなさい』

でした。

長生きしたけりゃふくらはぎをもみなさい (健康プレミアムシリーズ)
 

 そんな中、2位となったのが、水野敬也・長沼直樹『人生はニャンとかなる!―明日に幸福をまねく68の方法』です*1

古今東西の有名人のことばを大幅にカジュアルダウンした名言集(ルターの言葉は「第一印象が勝負」と「超訳」される!)に、それに関係してなくもないカワイイねこの写真を合体させたこの本。売れ線と売れ線をかけあわせて売れ線にする姿勢は、「カツ丼の上にビフテキとウナギを乗せたような映画を作る」といって『七人の侍』をヒットさせた黒沢明監督を彷彿とさせます。版を重ね、2014年上半期の時点で70万部を売り上げたといいますから、もう100万部ぐらい出てるかもしれません。

人生はニャンとかなる! ―明日に幸福をまねく68の方法

人生はニャンとかなる! ―明日に幸福をまねく68の方法

人生はニャンとかなる! ―明日に幸福をまねく68の方法

 

 この出版社からは、同じコンセプトのものが他にも出ています。

人生はワンチャンス! ―「仕事」も「遊び」も楽しくなる65の方法

人生はワンチャンス!   ―「仕事」も「遊び」も楽しくなる65の方法

人生はワンチャンス!   ―「仕事」も「遊び」も楽しくなる65の方法

人生はワンチャンス! ―「仕事」も「遊び」も楽しくなる65の方法

 

 ■人生はZOO(ずー)っと楽しい! ―毎日がとことん楽しくなる65の方法

人生はZOO(ずー)っと楽しい! ―毎日がとことん楽しくなる65の方法

人生はZOO(ずー)っと楽しい! ―毎日がとことん楽しくなる65の方法

人生はZOO(ずー)っと楽しい! ―毎日がとことん楽しくなる65の方法

 

 しかし、動きはこれだけに留まりません。柳の下でドジョウが捕れるらしい。同業他社からフォロワーがわずかここ1年でたくさん登場しました。「ニャンとかなる!」系の世界は急速に拡大しているのです。

今回のウェブ書影展というこころみは、Amazonのアフィ画像を使い、1年ほどの間に出た「ニャンとかなる!」系本を展示しようとするものです。おつきあいください。

平成27年1月

ブログ主 キリュー

老子と猫から学ぶ人生論 だいじょうぶ。 ニャンとか生きていけるよ

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■ 毎日ニャンともならん! 世界でいちばん不機嫌なネコ

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 ■ラク〜に生きるヒントが見つかる 般ニャ心経

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 ■ニャンか、しあわせ ―今日をごきげんに過ごす〈禅の言葉〉

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 ■わん! ステップ ー明日に向かって踏み出せる賢人の言葉ー

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 ■ニャンダフル! 100名言

ニャンダフル! 100名言

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ニャンダフル! ことわざ100選

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  ■男と女はワンダフル ~命短し恋せよエヴリワン! ~

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 ■にゃんて素敵な愛のコトバ

にゃんて素敵な愛のコトバ

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マイペースのススメェー

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  • 作者: 写真:平林美紀,文:三井明子
  • 出版社/メーカー: パイインターナショナル
  • 発売日: 2014/12/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • この商品を含むブログを見る
 

 ■むすびにかえて

いかがでしたでしょうか。

「 ニャンとかなる」「ニャンとか生きていけるよ」「ニャンともならん!」「ニャンか」「にゃんて」など、版元の苦心が察せられます。

「名言」部分に何が選択されるかも、編集者の努力が見られます。オリジナルの名言だけでなく、般若心経、禅、老子などが「超訳」風味でアレンジされ添えられています。この部分は、アドラードラッカーニーチェ、「7つの習慣」、吉田松陰などなどいろんな応用が利きそうです。

ですが、表紙が「基本的に猫1体」というように、親本の規定する力はたいへん大きいと言えましょう。

今後このフォロワーたちがどう展開していくのか?2015年も、「ニャンとかなる!」系本の世界にますます目が離せません。

*1:本書には、あとがきにあたる部分はないので、今回は自由闊達に本書について論じることにする。

あとがき13 ジョジョ4部小説、そして書き続けていた男:乙一『The Book 』(集英社、2007年)

 2015年到来!

 今年、1月からジョジョ3部アニメ「エジプト編」がいよいよ放送開始され、関係イベント、コラボ、グッズなど、今年のジョジョファンにはお楽しみがいっぱいです。


TVアニメ『ジョジョの奇妙な冒険 スターダストクルセイダース』公式サイト

 そう……『お楽しみがいっぱい』……

 

 今回はそれを記念し、ジョジョ4部の小説版、乙一『The Book 』のあとがきを取り上げたい。そう、あの、約何年にもわたる待ちぼうけの歴史を…!

******

 2002年に発行された少年ジャンプ増刊誌 『読むジャンプ』。
これに掲載されたのが、作家・乙一によるジョジョ4部のノベライズ「テュルプ博士の解剖学講義」だった。

 ジョジョ第4部の舞台であるS県杜王町で、小説オリジナルのキャラとともに、あらたな奇妙な出来事がおきるイントロ。なかなか期待できる手ごたえだった。

 といっても掲載されているのは序章だけ。同誌にはこのような告知があった。

小説の続きは来年2月発売予定の単行本で!!

 ジョジョファンたちの期待は高まった。

 しかし、その年の秋にすでに雲行きが怪しくなる。ファンが運営する老舗ジョジョニュースサイト「@JOJO【アットマーク・ジョジョ】」の過去ログを見てみよう。

@JOJO 2002/10/09
ジョジョ4部小説、乙一氏の執筆は難航中!?

http://atmarkjojo.org/archives/2003/200210.html#20021009

  そして、刊行予定の2003年2月を迎えた。しかし…。

@JOJO  2003/02/14

☆「イーエスブックス」読書のひきだし:乙一氏インタビュー
(…)乙一氏が”二月に刊行予定とされていましたが、おそらく半年ほど後ろにずれると思います。”と書かれているとか。

http://atmarkjojo.org/archives/2003/200302.html#20030214

  そして、続報。

@JOJO 2003/05/12

乙一氏のジョジョ4部小説、完成は「3年後までには」?
http://atmarkjojo.org/archives/2003/200305.html#20030512

  集英社は、2003年の秋には出すとの広告を打ったようだが、

JOJO  2003/07/10

乙一氏、ジョジョ4部小説が「今秋」との広告に対し、「保障できません」

http://atmarkjojo.org/archives/2003/200307.html#20030710

 そして、2003年末。

JOJO  2003/12/11

乙一「世界観や設定を借りて小説を書こうという試みです。」

宝島社『このミステリーがすごい!2004年版』の「私の隠し玉」に、乙一氏のコメントが掲載。『ジョジョの奇妙な冒険』のノヴェライズについて、「難航中なので発売時期が不明です。ちなみに、内容はオリジナルで、世界観や設定を借りて小説を書こうという試みです。」との事。(…)

http://atmarkjojo.org/archives/2003/200312.html#20031211

  そこからさらに飛んで、翌2004年末。

@JOJO  2004/12/09

☆「破棄した原稿は二千枚以上」 乙一ジョジョノベライズの現状を語る。

http://atmarkjojo.org/archives/598.html

  最初の刊行予定から2年弱。4部小説は出る気配すらなかった。

 出る出るといいながら出ない現状を前に、ファンたちは出会いがしらにお天気を話題にするように「あれはいつ出るんですかねえ」とあいさつし、無粋な男性を乙女が婉曲に袖にするため、「ジョジョ4部小説が出たらおつきあいしましょう」という常套句が流行したとか。

 これらは私が今拵えた話だが、ともかくこの4部小説は、年末のジョジョ界展望では必ず言及されるネタとなってしまった。

『ジョジョの奇妙な出来事2003』 | @JOJO ~ジョジョの奇妙なニュース~

「読むジャンプ」から1年以上過ぎました(遠い目)。 「妥協とかはしたくない」とはいえ、2004年中には、どうか完成させて下さい…。

『ジョジョの奇妙な出来事 2004』 | @JOJO ~ジョジョの奇妙なニュース~

2年以上経た今なお未完…(つД`) 。2005年中には、きっと…。

『ジョジョの奇妙な出来事 2005』 | @JOJO ~ジョジョの奇妙なニュース~

【終わりの無いのが終わり?】:乙一先生によるジョジョ4部小説
2004年末で、破棄した原稿は2000枚以上との事だったが…。

『ジョジョの奇妙な出来事 2006』 | @JOJO ~ジョジョの奇妙なニュース~

『読むジャンプ』から4年以上が経過。なんか毎年のマトメ記事の「オチ」みたいだ(^^;)。でも、今年は『ジョジョ20周年』ッ! 「なんとか……なんとか書き上げてくれる……はずだ、乙一先生 さもなきゃあ……」

そして…月日は流れ…「4部小説?ああ、そんなのあったね」とファンたちも忘れかけていた2007年11月。

『それ』はついに出たのだった。

The Book―jojo’s bizarre adventure 4th another day

The Book―jojo’s bizarre adventure 4th another day

 

 その名は『The Book』。「テュルプ博士の解剖学講義」の仮題は廃棄され、まったく別物として書き直されたのだという。ともあれホントに出るとは!衝撃がジョジョファンたちに走る。自分もすぐに買いにいった。当時の日記(2007年11月26日)にはこのように書いている。

「今日も授業はあったが、ひとっかけらも学校に行こうとは思わなかった。ジョジョ4部小説を買い、陽光差すリビングで一気に読んで、すごく面白くて、この上なく幸福だった。」

 そう、むちゃくちゃおもしろかったのだ。内容、文体、装丁にいたるまで、素晴らしい作品だった。なによりも、無数の引用と参照から、作者・乙一の原作愛を強く感じた。彼もわれらと同じ、ジョジョファンだったのだ。ページを繰っていくたびに、陽光が残雪を融かすように、長年のわだかまりが解きほぐされていくのがわかった。

 そんな自分がもっとも心打たれたのが、この本の「あとがき」だった。

「『ジョジョ』の第四部は小説にしないんですか? もしも書く人がいなかったら、書かせていただけませんか?」

 

それから五年間、僕は『ジョジョの奇妙な冒険・第四部』の小説を書き続けた。(…)しかしなかなかうまく書けなくて、ボツ原稿を大量生産した。原稿用紙四〇〇枚を書いては、気に入らなくてボツにする、というのを何回もくりかえした。この五年間で葬った自分の原稿は二〇〇〇枚以上になり、僕の収入は途絶えた。ボツ原稿ばかり書いて、新しい本が出ないのだから当然だった。しかたなく、別件の仕事を合間にやって生活費を稼ぎながら『ジョジョ』の小説を書いた。

五年間、この小説のことばかり考えていた。書いては消しをくりかえしているうちに、三回も家を引っ越して、結婚までしてしまった。そのうちに『デスノート』の小説や、『小説こちら葛飾区亀有公園前派出所』が刊行された。僕はあせった。あせりながらも、楽しかった。ジェイブックスで作家デビューしたのは、この仕事をするためなのだ、という充実があった。

 われわれジョジョファンたちが期待し、揶揄し、ついに忘却するにいたった長い年月、乙一はこの原稿を書き続けていたのだった。

 これ以外にも何作かジョジョのノベライズは出版されている。しかし、この乙一作『The Book』を読んだとき以上の感動は得られていない*1。表紙からあとがきまで含めて、この作品を読めたことを今でも幸せに思う。

 

なお、この「あとがき」には後日譚がある。この『The Book』は2011年に新書版が、

The Book jojo's bizarre adventure 4th another day (JUMP j BOOKS)

The Book jojo's bizarre adventure 4th another day (JUMP j BOOKS)

 

翌2012年には文庫版が出ており、手に取りやすくなっている。

The Book―jojo’s bizarre adventure 4th another day (集英社文庫)

The Book―jojo’s bizarre adventure 4th another day (集英社文庫)

 

 しかし、これら再刊版では原著の装丁(内容に密接に関わる!)や『街』が立ち上がってくるペーパークラフトなどのギミックがないので、ぜひ読むならハードカバー版の原著をおすすめしたい。

 百歩譲ってこれらに目をつぶるとしても、再刊版が一番問題なのは、なんと件の「あとがき」がキレイに削除されてしまっていることだ。読者への詫は一回でいいと思ったのかもしれない。

 ということで、本ブログでこの「あとがき」と経緯を記しておくのも、いくばくの意味があるかと思う。ささやかな使命感が私を駆り立てたのだった。

*1:でも、舞城王太郎ジョージ・ジョースター』は同率1位かも。また別のベクトルですごすぎる。

JORGE JOESTAR

JORGE JOESTAR

 

 

あとがき12 卒論を断固出すための「断念」術: 小峯和明『今昔物語集の形成と構造』(笠間書院、1985年)

■あとがきより

年末ですね。卒論シーズンですね。この時期、さる本のあとがきを思い出します。

 論文は科学を装った詩であり、論文を書くとは断念することだ。

―小峯和明『今昔物語集の形成と構造』(笠間書院、1985年)

今昔物語集の形成と構造 補訂版 笠間叢書

今昔物語集の形成と構造 補訂版 笠間叢書

 

  これは、著者小峯和明(立教大学名誉教授)が、学生時代教官から言われた言葉です。彼が生涯初めて一書を成し、あとがきを書く段になって、思い浮かべたことば。それがこの「断念」だった―。これを目にしたとき、浮かんだのは、卒論のときの自分と、卒論出せなかった自分の周りの人々の顔でした。マジメに1年間勉強してたのに、なぜ彼/彼女たちは提出日に間に合わなかったんだろう。そんな彼/彼女らのために、「昔、この言葉に出会っておけば!」と思ったのです。

 今回は「論文を書くとは断念することだ」、このフレーズを卒論執筆のスローガンとして読みかえようという試みです。

■書き始める「断念」

 過去に還れたら、マジメなのに卒論が書けなかった知り合いたちに私は言いたい。

  勉強してたら、卒論は書けません、と。

 さすがに「勉強してたら」というのは過言ですが、彼/彼女らは、勉強しすぎたあまり、いや勉強だけしすぎたあまり論文が書けなかったのではないかと私は密かに思ってきました。

 つまり、勉強することと、執筆することは異なるし、時には矛盾すらすることさえあるということです。

 インプットである勉強は、地平線の先へ先へと伸びていく「膨張」ですが、アウトプットである執筆は、自身の内へ内へと引きこもっていく「収縮」です。

 学ぶと謙虚になりますから(学びて然る後に足らざるを知る!)、「まだ論文を書き出すのには早いな…」となるのが人情です。書き出すのに躊躇するのは、勉強してきた証拠だと思います。

 しかし、「もっと膨張したい!(or しなければ!)」という気持ちをおさえて、収縮へと反転しなくては、永遠に卒論を終えることはできないのです。

 このとき求められる姿勢が、まさに「断念」なのではないでしょうか。「膨張」「勉強」から「執筆」というステージに進むことを可能にするのが、書き始める「断念」なのだと思います。

※誤解のないようにいっておくが、これは、序章から結論まで構想をすべて終えてから執筆をはじめよう、というわけではない。むしろ、書ける部分から書いていくのがセオリーであって、その「部分」が全体だろうが、章、節、あるいは項だろうが、ひとつひとつの「部分」で小さな「断念」を経験しながら執筆していくことになるだろう。

■書き終える「断念」

「絵」を描くという作業は『無限』である。どこで終わっていいのか、一枚をずーっと描いてられる。

荒木飛呂彦STEEL BALL RUN 22』(ジャンプコミックス、2010)

  論文も同じだと思います。見れば見るほど自分の文章は不完全に見えます。

 しかし、論文のクオリティと提出期限、優先すべきなのはどちらでしょうか。

 私のある先輩はかつて、大略このようなことを言っていました。

およそ良い卒論とは、書かれた卒論のことだ。

 どんなによいプロットだろうと、書かれていない卒論は、書かれた卒論に劣る、というのです。卒論は書かれていないといけないのです。至言だと思いました。

 これ以上の執筆よりも、提出することを優先する。その際に要請されるのが、もうひとつの「断念」、すなわち書き終える「断念」だろうと思います。

 ちなみに、絵が『無限』に描けるという荒木飛呂彦は、10時間睡眠・週休2日・徹夜なしというおよそマンガ家としては考えられない規則正しい生活を送っていることは有名です。荒木の場合は、その生活サイクルを優先させることで『無限』の絵を切り上げることができているのでしょう。卒論生の場合は、それが提出日(正確に言うと、卒論のデータを大学の要求する書式に整え打ち出して製本するのに十分な時間を提出日から引いた日)ということになります。

■2回のジャンプ

 まとめておきます。卒論には、勉強、執筆、提出の3段階があります。書き始める「断念」で最初のジャンプをし、書き終える「断念」で次のジャンプをします。タイミングよくこの2回のジャンプをこなしていくことが、卒論提出のカギだと私は思います。

 跳ぶことは恐ろしい。しかし、それを思い切って跳ぶための構えが、冒頭に掲げたあとがきにあると思うのです。

「提出された卒論」に向かって、よき「断念」のあらんことを!

あとがき11 著者名を信じるな!? :大類伸『列強現勢史・ドイツ』(冨山房、1938年)

 大類伸(オオルイ, ノブル, 1884-1975)という、変わった名前の大物西洋史家がいた。東北大の教授だった人物だ。ルネサンス研究など文化史で一ジャンルを築き、日本の城郭史にも詳しい。国会図書館の目録で調べると、大類の著作は100以上引っかかる。本来の中世文化史のみならず、著作の範囲は西洋史全般にわたっている。

 それらの中に、1938・39年に富山房から出た『列強現勢史』という本が3冊ある。ロシア、ドイツ、東欧などの諸国の近現代史をまとめたものらしい。どれも今の新書1冊分ぐらいの分量はあるから、1年半で3冊というのはなかなか早い刊行スピードだ。

 そのドイツ篇の序を見てみよう。

本書は列強の現勢を理解せんが為め、各国民毎に約五十年来の史的発展を考察したもので、先ずドイツ篇を公にした。本編の刊行には、資料の蒐集、整理更に本文の叙述等すべての点に於て、新進のドイツ史専攻家文学士林健太郎君の力に負う所が多大であった。ここに同君の労に対し深く謝意を表する次第である。
昭和十三年三月  著者識す

大類伸『列強現勢史・ドイツ』

 いささか唐突に謝辞が送られているのは、当時25歳の林健太郎である。のちに東大教授、文学部長、東大総長、参議院議員とパワーエリートの階段を駆け登り、全共闘にカンヅメにされても音を上げなかった豪傑の彼も、この時はまだ無給の東大副手であった。

史学概論 (教養全書)

史学概論 (教養全書)

 

  そんな若手の林健太郎に対して、この謝辞はかなり過分である。感謝、感謝、マジ感謝。林健太郎は一体どんなことでこの本に貢献したのだろうか。

 結論からいうと、この本は、一冊まるごと林健太郎が書いたのである。

 この裏事情は、1959年に林健太郎が『文藝春秋』誌上に書いた自伝的エッセイ「マルクス主義との格闘」に描かれている(最近文春学藝ライブラリーで出たアンソロジー『常識の立場』に収録されたため、読みやすくなった)。

常識の立場 (文春学藝ライブラリー)

常識の立場 (文春学藝ライブラリー)

 

  当時、林健太郎はお金がなく、実家からお小遣いもらってしのいでいたらしい。その林に声をかけたのが、当時東京帝大に講師として出講していた大類伸だった。

(…)ある日、大類先生から大へんうまい仕事を頼まれた。冨山房で百科文庫というものを出すことになり、その中に大類先生の著となる世界各国の最近五十年位の歴史の叢書を入れることになっている。ついてはそのドイツの巻を書かないかというのである。三百枚で報酬は三百円、百円は前払いであとは原稿が出来てから支払うとのことであった。林健太郎マルクス主義との格闘

 当時教員の初任給は50円程度だから、300円はそれなりの大金だ。二つ返事の林ははりきって原稿を書き上げた。
 こういう経緯で林の原稿は大類伸名義で出版された。ただ、あの謝辞にはやや面食らったらしい。

弟子が先生の本を書いた時には原文で「何々君の援助を得た」と一行位書かれれば上乗だと聞いていたが、先生のはえらく具体的である。「本文の叙述」とはあまりに正直すぎるではないか。こんなことを書いたら先生が書かれたものではないことがすぐわかってしまうから本の売行に差支えはしないか。しかし私にとってはこれはたいへん光栄な話である。林健太郎マルクス主義との格闘

 さてここで注目したいのは、林は代筆のことを、まったく悪びれず公の場で書いていることである。

 当時このような大物学者の代筆はよくあったらしい。例えば津田左右吉は自伝的エッセイ「学究生活五十年」(岩波文庫津田左右吉歴史論集』にも収録)で、師匠格の白鳥庫吉の添削のもと初めての本を書いた思い出を綴っている。「著者としての先生の名を辱かしめることになりはしなかったかと気づかわれもしたが」と婉曲に書いているが、要は白鳥庫吉の名前で津田の原稿は出版されたのだった。1897年に富山房(奇しくも!)から出版された『西洋歴史』がそれにあたるようだが、序や奥付のどこを見ても、「白鳥庫吉 著」以外の情報は書かれていない。

津田左右吉歴史論集 (岩波文庫)

津田左右吉歴史論集 (岩波文庫)

 

  以下は裏をとってないため、検索対策として「つださうきち」方式で書くが、ミヤザワ トシヨシがアシベ ノブキに一冊書かせたとか、シノハラ ハジメの翻訳がオカ ヨシタケの名前で出ている、なんて話はごまんとある。

 以上、代筆自体は「ままある」ことだったのは間違いないが、可笑しいのは、林がこの代筆を美談だったと言い張っているところだ。

 林は他にも、指導教官今井登志喜の名で幾つか文章を書いていた。その原稿料は全額執筆した林がもらっていた、という。当時帝大教授だった今井の原稿料は相場よりもかなり上であり、林が本名で書くよりもずっと儲かったのだそうだ。

先生が弟子に代筆させるということは日本の学界の弊風だと云われている。しかし今井先生の場合は、全く収入のない弟子に経済的援助を与えるという慈善事業であった。林健太郎マルクス主義との格闘

 まるで従者に封土を授与するのと同じように、代筆は教官による恩恵給与だったのだという。もっとも、「弊風」にも良いところがあった、というよりも、このような利害が絡んでいたからこそ、「弊風」が絶たれなかったのだと自分はおもうが…。

 さて、林のエッセイにはこんな見逃せない記述がある。

「列強現勢史」は私の次に岩間徹君(現東京女子大教授)の「ロシア」が出、次に「東中欧諸国」というのが出たが(この筆者は東北大出の人でまもなく戦死してしまった)他の人のものは遂に出なかった。林健太郎マルクス主義との格闘

 ドイツ篇以外の2冊も代筆だとバラしているのだ。それではその序を見てみよう。

但しロシヤに関しては真相を知るに甚だ困難であり、殊に現代のソヴィエット・ロシヤに就て左様である。徒らに皮相を描いてその真髄に触れ得なかった恨は少くないのである。本書の起稿に際しては文学士岩間徹君の労に俟つ所頗る多かった。資料の蒐集、整理及び叙述等殆ど同君の手を煩わした。同君は外務省調査課嘱託として活躍されつつある新進史家である。茲に本書の成るに際し同君に厚く謝意を表する次第である。
昭和十三年八月  著者識す

大類伸『列強現勢史・ロシヤ』

 林健太郎のドイツ篇の謝辞とほとんど同じだが、ちょこちょこと文言が変えてあるあたり、かえって悪質な印象を受けるのは自分だけだろうか。
 岩間徹(1914-1984)は戦後、東京女子大の教官となるが、その退官記念の文章「岩間徹教授を送る(定年退職教授紹介)」(pdf)にはこのような記述がある。

教授の御業績としては、大学御卒業のすぐあとに大類伸先生のお名前で刊行された『列強現勢史ロシア』をはじめ、多数の著書・論文がある。今井宏「岩間徹教授を送る(定年退職教授紹介)」

 なんてことはない、これも周囲の人間には先刻ご承知だったらしい。

 さて次に、東中欧篇を見よう。

本篇の起稿に当り、資料の整頓及び叙述に甚大の努力を煩わした文学士萩中三雄君は、我等の研究室を巣立った新進の学徒であり、従来余り多く問題とされなかった東中欧の歴史に夙くも研究の手を着けた篤学の士である。しかも同君は今や中支方面の第一線に立って男児報国の誠を致しつつある。筆を投じて戎軒を事とす、筆端世界の現勢を論じたる君が、今親しく大陸の第一線に立っての感慨や如何に。茲に同君の労に対し多大の謝意を表すると共に、その健闘を祈って已まない次第である。
昭和十四年三月  著者識す

大類伸『列強現勢史・東中欧諸国』

 この萩中三雄という人物の事績はよくわからない。仙台で戦前発行されていた『西洋史研究』という雑誌に2本ほど東欧史に関する論文が載っているようだが、これ以外の著作を遺さず戦死してしまったのだろうか。

 今回は林健太郎がたまたまおしゃべりだったので、代筆であることがはっきりしたのだが、こうした埋もれてしまった事例はまだまだあるに違いない。重々気をつけなくてはと肝を冷やしたが、思えばテクストの著者名を額面通り信じず批判的に吟味するというのは、文学史、思想史では基礎中の基礎だろう。これからも序、謝辞、そしてあとがきへの注視をやめることはできない。

 

 

あとがき10 あとがきを信じるな!?: 網野善彦『無縁・公界・楽』(平凡社、1978年)

このブログのあとがき愛読もようやく10回目。それを記念し、今年没後10年の網野善彦を取り上げたいと思う*1

無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和 (平凡社ライブラリー (150))

無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和 (平凡社ライブラリー (150))

 

 「作家の言葉を信じるな」という金言を耳にした。

曰く、作品を研究するにあたり、作家自身の言葉に振り回されすぎるな、ということらしい。
その好例が近世洋画の祖、司馬江漢だろう。
彼は、長崎にてオランダ人イサーク・ティチングから画帖を送られ、それで西洋画をマスターしたと自ら称しており、一昔前の辞典類に「江漢はオランダ人から洋画を学んだ」と記載されていたのもこれが根拠だったという。
しかし研究者らがよく調べたところ、そのオランダ人が滞日時期と江漢が長崎に行った時期はまったくかぶっていないことが分かった。
要は法螺だったらしい。
また江漢の没年齢には2説あった。それも何かの誤記とは思えないほどの差があった。
それも様々な史料から検討したところ、本人がある時から(なぜか…)実年齢に9歳プラスしたものを使っていたのが原因だったことが判明した。
このように、江漢の自分語りはかなりアテにならないらしい(以上、成瀬不二雄『司馬江漢 生涯と画業』より)。

司馬江漢 生涯と画業―本文篇

司馬江漢 生涯と画業―本文篇

 

 

また横溝正史獄門島』初版には本人のあとがきが付いていたが、
そのなかで、連載中、妻のひとことで犯人を急遽変更したぜウッシッシ、というおどけたエピソードが書かれており、横溝ファンには有名な話らしい。
だがもしそうだとすると[     重大なネタバレ     ]の[     重大なネタバレ     ]のシーンは[  重大なネタバレ  ]になってしまうのだが…。
これも、作家本人の言葉を一度疑ってみたほうがいいのではないだろうか。

獄門島 (角川文庫)

獄門島 (角川文庫)

 

 

さて能書きを長く書いてきたが、今回言いたいのは、かの網野善彦の代表作『無縁・公界・楽』のあとがきについてだ。初版のあとがきにはこのような記述がある。

また、すぐれたドイツ中世史家として周知の北村忠男氏から、いつも親切に御教示いただけたことも、幸いであった。私が「公界」の問題を持ち出すと、北村氏は直ちに「フライ」「フリーデ」に言及され、ヘンスラーの著書を貸して下さった。私の語学力不足と怠慢から、これを本書に十分生かしえなかったことは申しわけない次第で、おわびしなくてはならないが、一揆に話が及んだとき、「神の平和だ!」と手を拍った、北村氏のお答えは忘れられない思い出である。―1978年1月26日付『無縁・公界・楽』あとがき

 北村忠男とは当時、網野と同じ名古屋大学に勤務していたドイツ史研究者であり、「ヘンスラーの著書」とは、これより20年以上前にドイツで出版されたOrtwin Henssler, Formen des Asylrechts und ihre Verbreitung bei den Germanen, (Klostermann, 1954)である。


ヘンスラーの著書が『アジール―その歴史と諸形態』として邦訳され出版されるのは網野没後の2010年であり、当時読むためにはドイツ語版しかなかっただろう。

アジール―その歴史と諸形態

アジール―その歴史と諸形態

 

 そしてこのあとがきから判断して、網野はドイツ語ができず、ヘンスラーを読めなかったと私は思い込んでいた。

しかし、さる研究会上でそう発言したところ、懇親会の道すがらある方から
「網野はドイツ語できたよ」
との指摘を受けた。
ビックリしたものの、結局それからアルコールに流れてしまい、その根拠を聞きそびれてしまったのだが、それに該当するのはここらへんではないだろうか。

〔1955年ごろの状況を聞かれて〕
事実上、一年間は失業状態で、ドイツ語の翻訳をしたり、出版社でアルバイトをしたり、都立北園高校の非常勤教師をごくわずかやっておりましたかね。網野善彦「インタビュー 私の生き方」(『歴史としての戦後史学』、初出1997年、著作集第18巻)

歴史としての戦後史学―ある歴史家の証言 (洋泉社MC新書)

歴史としての戦後史学―ある歴史家の証言 (洋泉社MC新書)

 

 なんと、網野は翻訳をするぐらいのドイツ語力を持っていたのだ。これは旧制高校に通っていたときに身に着けたもののようだ。

旧制高校生の一種の流行で、(…)戦争中は、ニーチェヘーゲル、あるいはランケ、マイネッケ、などの古典をドイツ語や翻訳で一生懸命読んだりしていたのです。―網野善彦「戦後歴史学の五十年」(初出1996年、著作集第18巻)

東京高等学校高等科(文科)時代にブルクハルト、ヴィンデルバントジンメルマルクスエンゲルスなどをドイツ語の授業で井上正蔵という教員から教わる。―「網野善彦年譜」(著作集別巻)

網野善彦著作集〈別巻〉論文編・資料編

網野善彦著作集〈別巻〉論文編・資料編

 

 というわけで、あとがき中の「私の語学力不足」という言葉は、嘘とはいわないでも、額面通りに受け取ってはいけないことがわかる。

そうすると、網野は「怠慢」ゆえヘンスラーを本当に読まなかったのか、それとも、ヘンスラーを読みながら、読んでいないことにしたかったのか…いろいろな可能性が考えられる。しかしそれは作品自体の精読で考察せねばならないことであり、あとがき愛読党の任務ではない。

 

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以下、余談。
ヘンスラーのアジール論の要点は、聖域や王など、超越的な存在と結びつく(縁を取り結ぶことKontaktgewinnung)ことで不可侵性が獲得される、という点にある。これは実態としては、網野の「縁切り」「無縁」と結局同じ事態を指している。超越的なものとの「縁結び」と、世俗との「縁切り」は、楯の両面であろう。
網野にしても、「無縁」とするよりも、超越的な存在との「縁結び」という説明の仕方のほうが適合的な事例もあるはずだ。それでもなぜ、わざわざ「縁切り」の側面を重視するのか。それは、中世後期に自覚的に主張・表現されてくる「無縁」「公界」「楽」に、神仏・天皇に依存しない契機を見出したいからではないだろうか。
これは、『無縁・公界・楽』から後『異形の王権』(1986年)で、初めて「聖なるもの」という分析放棄的な言葉を使ってしまったことに、研究史的転回を見出す細川涼一[2011]の指摘を重なるところがあると思う。

日本中世の社会と寺社

日本中世の社会と寺社

 

 このように、ヘンスラーを補助線とすることで、網野の独自性が浮き彫りになると私は考えている。

以上あとがき愛読党の党是を踏み越えてしまったが、ご容赦いただきたい。

*1:メモリアルイヤーの2014年も終わりかけだが、何か特集やシンポジウムなどはないのだろうか…

あとがき9 「つきあい」の可視化: 河野有理編『近代日本政治思想史』(ナカニシヤ出版、2014年)

 瓦経というものをご存知だろうか。
 粘土板にお経を刻んだものだ。

瓦経|奈良国立博物館

 なぜか平安時代ごろから、この瓦経を大量に作って土に埋めることが流行りだした。
 それが父母の供養や自分の極楽往生に効くと思われていたらしい。
 瓦一枚につき200字も入らないので、長いお経を瓦という媒体に収録するためには、膨大な枚数の瓦を焼かなくてはならない。そのため、多くのカネと手間がかかる。それゆえ瓦経の埋納は、たくさんの出資者を集めて遂行される地域の一大プロジェクトだった。

http://www.narahaku.go.jp/photo/exhibition/D047005.jpg

 その瓦経が土中から現代人によって掘り起こされる。新しく瓦経が発掘されたとき歴史学者がまず注目するのは、(中世人からすればはなはだ奇異だろうが)彼らが精魂込めて彫りこんだお経の文章自体ではない。瓦経のなかには、本文(お経)といっしょに、それを埋めた年月日や出資者の名前が彫りこまれたものがある。歴史学者は本文そっちのけでそれに熱中するのだ。
 なぜか。瓦経の出資者というのはその土地の名士であることが多い。要は、瓦経に連なる人名は、地域の人間関係が反映しているのだ。そのようなあいまいな「つきあい」というものは、実は他の史料では観測しづらい。瓦経はそれが可視化された稀有な素材なのである。
 例えば三重県伊勢市の小野塚から大量に出土した瓦経に刻まれた人名をていねいに分析すると、海(伊勢湾)の向こうの愛知県渥美半島の伊良湖の関係者が多いことがわかり、他の史料では見えづらかった海をこえた「つきあい」が形になっているのを観測できるのだという〔参考:苅米一志「荘園社会における寺院法会の意義―三河国伊良湖御厨における埋経供養を例に―」、同『荘園社会における宗教構造』、校倉書房、2004年〕。所領や国など制度的単位をこえた「つきあい」を図らずも記録しているところが、瓦経の大きな意義だ。

荘園社会における宗教構造 (歴史科学叢書)

荘園社会における宗教構造 (歴史科学叢書)

 

 

 さて本の「あとがき」も、瓦経の人名と同じ効果を発揮することがある。
 「あとがき」につきものなのが、関係者への謝辞だ。瓦経と同じく、この謝辞を読むことで、著者をとりまく人間関係を復元することがある程度可能だ。

 たとえば先日出版された佐藤健太郎『「平等」理念と政治』(吉田書店、2014年)のあとがきはたっぷりとスペースがとられ、読みごたえがある。このあとがきでは著者が東大在籍時代出席していたゼミの教官ひとりひとりに長めの謝辞を書いている。その謝辞は著者の所属の法学部教官以外にも向けられており、それを眺めることで、ゼロ年代の東大で日本政治外交史に近い分野の教官がどこにいたのかがおぼろげながら判明する。これもまた、制度的単位をこえた「つきあい」が可視化されたものといえる。本文を正確に読むためには、このようなネットワークで著者が自分の学問を形成していったことを念頭に置いておくことも重要だと自分は思う。

 以前あとがきとは、成分表示だとこのブログで書いた。


 「つきあい」という著者の学問的成分のひとつを、謝辞は(本来の目的とは別に)表示しているのだといえよう。

 

 さて昨日(!)発売された河野有理編『近代日本政治思想史』(ナカニシヤ出版、2014年)の巻末には「【討議】新しい思想史のあり方をめぐって」と題された、執筆者のうちの3人(河野有理、大澤聡、與那覇潤)の鼎談が収められている。これがあとがき愛読党的にはなかなかおもしろい*1

近代日本政治思想史―荻生徂徠から網野善彦まで

近代日本政治思想史―荻生徂徠から網野善彦まで

 

 

 そのテーマは。思想史研究に3人が踏み込んでいったかの経緯を語り合うもの。特に、彼らの学問的遍歴が、「出版動向」という経糸と、「つきあい」という緯糸で語られる点にこの鼎談の特長を見たい。
 私は思想史プロパーではないので、緯糸の「つきあい」―すなわち大学、学部、研究室、ゼミなどの場での交通―にとても興味をもって読んだ。3人ともほぼ同年代で、東大の教養学部(いわゆる「駒場」)になんらかのかたちで関わっていた。内容は、指導教官が誰だったかに始まり、どの教官の授業に出たか、あるゼミの雰囲気はこうだった、研究会でこんなメンツが集まっていた、院試でさる教官にボコボコにされた、などなど。

 共通の基盤をもつ人々の会話だけあって、悪く言えば内輪の話ともいえる。東大内部の思想史に近い制度的拠点だけでも、教養学部の地域文化研究と表象文化論と相関社会科学、ならびに文学部の倫理学と日本史、ならびに法学部の西洋政治思想史と日本政治思想史、ならびに社会情報研究所が互い違いに言及され、目眩せんばかりだ。しかしもっと別の人に聞けば、いや、倫理学内でも東洋と西洋の毛色はかなり違うとか、教育学部の政治思想史が抜けている、などと言われるのだろう。いくらでもアトマイズできる話題なのだ。

 この鼎談が画期的なのは、このような「内輪の話」を意図して言語化して、活字に残そうとしている点だ。編者の河野有理は鼎談の冒頭こう宣言する(太字は私によるもの。以下同)

本日はわれわれ同世代の研究者がどのような過程を経て、思想史という学問領域と関わることになったのかを振り返るとともに、今後の思想史「業界」の行く末を考えたい。その際には、高校までの読書や教育といった知的体験も重要ですが、むしろ大学、とくに大学院という「制度」の問題にフォーカスしたい
 かつての思想史家が歩んだような、戦争体験や強烈な時代感というのは、薄い世代なのではないか。だからこそ制度的な問題を語ろうという試みが、この鼎談のメインパートになるかと思いますが。

 この「制度」の問題というのは、先述した「制度的単位をこえた「つきあい」」も入っているのではないだろうか。

 大澤聡も賛意を表して、以下のように表明する。

ただ、読む人によってはいささか不遜に映るのでは、という心配もある。この種の企画はどうしても自分語りに陥るので。それが下品で滑稽だという感覚は僕の中に強烈にあります。子どもたちのおしゃべり(笑)みたいな。ただ、他方で旧来の研究者の躊躇や慎ましさの連鎖によって無数の断絶が生まれてしまっていることもまた事実。継承感覚の欠如も問題です。

 謝辞は、感謝を公言するという形式のもとで大澤のいう「不遜」さを和らげていた。しかし今回、逆機能していた「躊躇」「慎ましさ」をあえて踏み越え、意図的に学問的な「つきあい」を可視化する試みが行われたことを、外野の人間として喜びたいと思う。自分は、著者が照準を定める対象と同じ程度に、著者自身にも興味があるのだから。

 

*1:これが「あとがき」のつもりで収録されたかどうかは不明だが、それは措いておこう。