あとがき愛読党ブログ

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あとがき12 卒論を断固出すための「断念」術: 小峯和明『今昔物語集の形成と構造』(笠間書院、1985年)

■あとがきより

年末ですね。卒論シーズンですね。この時期、さる本のあとがきを思い出します。

 論文は科学を装った詩であり、論文を書くとは断念することだ。

―小峯和明『今昔物語集の形成と構造』(笠間書院、1985年)

今昔物語集の形成と構造 補訂版 笠間叢書

今昔物語集の形成と構造 補訂版 笠間叢書

 

  これは、著者小峯和明(立教大学名誉教授)が、学生時代教官から言われた言葉です。彼が生涯初めて一書を成し、あとがきを書く段になって、思い浮かべたことば。それがこの「断念」だった―。これを目にしたとき、浮かんだのは、卒論のときの自分と、卒論出せなかった自分の周りの人々の顔でした。マジメに1年間勉強してたのに、なぜ彼/彼女たちは提出日に間に合わなかったんだろう。そんな彼/彼女らのために、「昔、この言葉に出会っておけば!」と思ったのです。

 今回は「論文を書くとは断念することだ」、このフレーズを卒論執筆のスローガンとして読みかえようという試みです。

■書き始める「断念」

 過去に還れたら、マジメなのに卒論が書けなかった知り合いたちに私は言いたい。

  勉強してたら、卒論は書けません、と。

 さすがに「勉強してたら」というのは過言ですが、彼/彼女らは、勉強しすぎたあまり、いや勉強だけしすぎたあまり論文が書けなかったのではないかと私は密かに思ってきました。

 つまり、勉強することと、執筆することは異なるし、時には矛盾すらすることさえあるということです。

 インプットである勉強は、地平線の先へ先へと伸びていく「膨張」ですが、アウトプットである執筆は、自身の内へ内へと引きこもっていく「収縮」です。

 学ぶと謙虚になりますから(学びて然る後に足らざるを知る!)、「まだ論文を書き出すのには早いな…」となるのが人情です。書き出すのに躊躇するのは、勉強してきた証拠だと思います。

 しかし、「もっと膨張したい!(or しなければ!)」という気持ちをおさえて、収縮へと反転しなくては、永遠に卒論を終えることはできないのです。

 このとき求められる姿勢が、まさに「断念」なのではないでしょうか。「膨張」「勉強」から「執筆」というステージに進むことを可能にするのが、書き始める「断念」なのだと思います。

※誤解のないようにいっておくが、これは、序章から結論まで構想をすべて終えてから執筆をはじめよう、というわけではない。むしろ、書ける部分から書いていくのがセオリーであって、その「部分」が全体だろうが、章、節、あるいは項だろうが、ひとつひとつの「部分」で小さな「断念」を経験しながら執筆していくことになるだろう。

■書き終える「断念」

「絵」を描くという作業は『無限』である。どこで終わっていいのか、一枚をずーっと描いてられる。

荒木飛呂彦STEEL BALL RUN 22』(ジャンプコミックス、2010)

  論文も同じだと思います。見れば見るほど自分の文章は不完全に見えます。

 しかし、論文のクオリティと提出期限、優先すべきなのはどちらでしょうか。

 私のある先輩はかつて、大略このようなことを言っていました。

およそ良い卒論とは、書かれた卒論のことだ。

 どんなによいプロットだろうと、書かれていない卒論は、書かれた卒論に劣る、というのです。卒論は書かれていないといけないのです。至言だと思いました。

 これ以上の執筆よりも、提出することを優先する。その際に要請されるのが、もうひとつの「断念」、すなわち書き終える「断念」だろうと思います。

 ちなみに、絵が『無限』に描けるという荒木飛呂彦は、10時間睡眠・週休2日・徹夜なしというおよそマンガ家としては考えられない規則正しい生活を送っていることは有名です。荒木の場合は、その生活サイクルを優先させることで『無限』の絵を切り上げることができているのでしょう。卒論生の場合は、それが提出日(正確に言うと、卒論のデータを大学の要求する書式に整え打ち出して製本するのに十分な時間を提出日から引いた日)ということになります。

■2回のジャンプ

 まとめておきます。卒論には、勉強、執筆、提出の3段階があります。書き始める「断念」で最初のジャンプをし、書き終える「断念」で次のジャンプをします。タイミングよくこの2回のジャンプをこなしていくことが、卒論提出のカギだと私は思います。

 跳ぶことは恐ろしい。しかし、それを思い切って跳ぶための構えが、冒頭に掲げたあとがきにあると思うのです。

「提出された卒論」に向かって、よき「断念」のあらんことを!

あとがき11 著者名を信じるな!? :大類伸『列強現勢史・ドイツ』(冨山房、1938年)

 大類伸(オオルイ, ノブル, 1884-1975)という、変わった名前の大物西洋史家がいた。東北大の教授だった人物だ。ルネサンス研究など文化史で一ジャンルを築き、日本の城郭史にも詳しい。国会図書館の目録で調べると、大類の著作は100以上引っかかる。本来の中世文化史のみならず、著作の範囲は西洋史全般にわたっている。

 それらの中に、1938・39年に富山房から出た『列強現勢史』という本が3冊ある。ロシア、ドイツ、東欧などの諸国の近現代史をまとめたものらしい。どれも今の新書1冊分ぐらいの分量はあるから、1年半で3冊というのはなかなか早い刊行スピードだ。

 そのドイツ篇の序を見てみよう。

本書は列強の現勢を理解せんが為め、各国民毎に約五十年来の史的発展を考察したもので、先ずドイツ篇を公にした。本編の刊行には、資料の蒐集、整理更に本文の叙述等すべての点に於て、新進のドイツ史専攻家文学士林健太郎君の力に負う所が多大であった。ここに同君の労に対し深く謝意を表する次第である。
昭和十三年三月  著者識す

大類伸『列強現勢史・ドイツ』

 いささか唐突に謝辞が送られているのは、当時25歳の林健太郎である。のちに東大教授、文学部長、東大総長、参議院議員とパワーエリートの階段を駆け登り、全共闘にカンヅメにされても音を上げなかった豪傑の彼も、この時はまだ無給の東大副手であった。

史学概論 (教養全書)

史学概論 (教養全書)

 

  そんな若手の林健太郎に対して、この謝辞はかなり過分である。感謝、感謝、マジ感謝。林健太郎は一体どんなことでこの本に貢献したのだろうか。

 結論からいうと、この本は、一冊まるごと林健太郎が書いたのである。

 この裏事情は、1959年に林健太郎が『文藝春秋』誌上に書いた自伝的エッセイ「マルクス主義との格闘」に描かれている(最近文春学藝ライブラリーで出たアンソロジー『常識の立場』に収録されたため、読みやすくなった)。

常識の立場 (文春学藝ライブラリー)

常識の立場 (文春学藝ライブラリー)

 

  当時、林健太郎はお金がなく、実家からお小遣いもらってしのいでいたらしい。その林に声をかけたのが、当時東京帝大に講師として出講していた大類伸だった。

(…)ある日、大類先生から大へんうまい仕事を頼まれた。冨山房で百科文庫というものを出すことになり、その中に大類先生の著となる世界各国の最近五十年位の歴史の叢書を入れることになっている。ついてはそのドイツの巻を書かないかというのである。三百枚で報酬は三百円、百円は前払いであとは原稿が出来てから支払うとのことであった。林健太郎マルクス主義との格闘

 当時教員の初任給は50円程度だから、300円はそれなりの大金だ。二つ返事の林ははりきって原稿を書き上げた。
 こういう経緯で林の原稿は大類伸名義で出版された。ただ、あの謝辞にはやや面食らったらしい。

弟子が先生の本を書いた時には原文で「何々君の援助を得た」と一行位書かれれば上乗だと聞いていたが、先生のはえらく具体的である。「本文の叙述」とはあまりに正直すぎるではないか。こんなことを書いたら先生が書かれたものではないことがすぐわかってしまうから本の売行に差支えはしないか。しかし私にとってはこれはたいへん光栄な話である。林健太郎マルクス主義との格闘

 さてここで注目したいのは、林は代筆のことを、まったく悪びれず公の場で書いていることである。

 当時このような大物学者の代筆はよくあったらしい。例えば津田左右吉は自伝的エッセイ「学究生活五十年」(岩波文庫津田左右吉歴史論集』にも収録)で、師匠格の白鳥庫吉の添削のもと初めての本を書いた思い出を綴っている。「著者としての先生の名を辱かしめることになりはしなかったかと気づかわれもしたが」と婉曲に書いているが、要は白鳥庫吉の名前で津田の原稿は出版されたのだった。1897年に富山房(奇しくも!)から出版された『西洋歴史』がそれにあたるようだが、序や奥付のどこを見ても、「白鳥庫吉 著」以外の情報は書かれていない。

津田左右吉歴史論集 (岩波文庫)

津田左右吉歴史論集 (岩波文庫)

 

  以下は裏をとってないため、検索対策として「つださうきち」方式で書くが、ミヤザワ トシヨシがアシベ ノブキに一冊書かせたとか、シノハラ ハジメの翻訳がオカ ヨシタケの名前で出ている、なんて話はごまんとある。

 以上、代筆自体は「ままある」ことだったのは間違いないが、可笑しいのは、林がこの代筆を美談だったと言い張っているところだ。

 林は他にも、指導教官今井登志喜の名で幾つか文章を書いていた。その原稿料は全額執筆した林がもらっていた、という。当時帝大教授だった今井の原稿料は相場よりもかなり上であり、林が本名で書くよりもずっと儲かったのだそうだ。

先生が弟子に代筆させるということは日本の学界の弊風だと云われている。しかし今井先生の場合は、全く収入のない弟子に経済的援助を与えるという慈善事業であった。林健太郎マルクス主義との格闘

 まるで従者に封土を授与するのと同じように、代筆は教官による恩恵給与だったのだという。もっとも、「弊風」にも良いところがあった、というよりも、このような利害が絡んでいたからこそ、「弊風」が絶たれなかったのだと自分はおもうが…。

 さて、林のエッセイにはこんな見逃せない記述がある。

「列強現勢史」は私の次に岩間徹君(現東京女子大教授)の「ロシア」が出、次に「東中欧諸国」というのが出たが(この筆者は東北大出の人でまもなく戦死してしまった)他の人のものは遂に出なかった。林健太郎マルクス主義との格闘

 ドイツ篇以外の2冊も代筆だとバラしているのだ。それではその序を見てみよう。

但しロシヤに関しては真相を知るに甚だ困難であり、殊に現代のソヴィエット・ロシヤに就て左様である。徒らに皮相を描いてその真髄に触れ得なかった恨は少くないのである。本書の起稿に際しては文学士岩間徹君の労に俟つ所頗る多かった。資料の蒐集、整理及び叙述等殆ど同君の手を煩わした。同君は外務省調査課嘱託として活躍されつつある新進史家である。茲に本書の成るに際し同君に厚く謝意を表する次第である。
昭和十三年八月  著者識す

大類伸『列強現勢史・ロシヤ』

 林健太郎のドイツ篇の謝辞とほとんど同じだが、ちょこちょこと文言が変えてあるあたり、かえって悪質な印象を受けるのは自分だけだろうか。
 岩間徹(1914-1984)は戦後、東京女子大の教官となるが、その退官記念の文章「岩間徹教授を送る(定年退職教授紹介)」(pdf)にはこのような記述がある。

教授の御業績としては、大学御卒業のすぐあとに大類伸先生のお名前で刊行された『列強現勢史ロシア』をはじめ、多数の著書・論文がある。今井宏「岩間徹教授を送る(定年退職教授紹介)」

 なんてことはない、これも周囲の人間には先刻ご承知だったらしい。

 さて次に、東中欧篇を見よう。

本篇の起稿に当り、資料の整頓及び叙述に甚大の努力を煩わした文学士萩中三雄君は、我等の研究室を巣立った新進の学徒であり、従来余り多く問題とされなかった東中欧の歴史に夙くも研究の手を着けた篤学の士である。しかも同君は今や中支方面の第一線に立って男児報国の誠を致しつつある。筆を投じて戎軒を事とす、筆端世界の現勢を論じたる君が、今親しく大陸の第一線に立っての感慨や如何に。茲に同君の労に対し多大の謝意を表すると共に、その健闘を祈って已まない次第である。
昭和十四年三月  著者識す

大類伸『列強現勢史・東中欧諸国』

 この萩中三雄という人物の事績はよくわからない。仙台で戦前発行されていた『西洋史研究』という雑誌に2本ほど東欧史に関する論文が載っているようだが、これ以外の著作を遺さず戦死してしまったのだろうか。

 今回は林健太郎がたまたまおしゃべりだったので、代筆であることがはっきりしたのだが、こうした埋もれてしまった事例はまだまだあるに違いない。重々気をつけなくてはと肝を冷やしたが、思えばテクストの著者名を額面通り信じず批判的に吟味するというのは、文学史、思想史では基礎中の基礎だろう。これからも序、謝辞、そしてあとがきへの注視をやめることはできない。

 

 

あとがき10 あとがきを信じるな!?: 網野善彦『無縁・公界・楽』(平凡社、1978年)

このブログのあとがき愛読もようやく10回目。それを記念し、今年没後10年の網野善彦を取り上げたいと思う*1

無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和 (平凡社ライブラリー (150))

無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和 (平凡社ライブラリー (150))

 

 「作家の言葉を信じるな」という金言を耳にした。

曰く、作品を研究するにあたり、作家自身の言葉に振り回されすぎるな、ということらしい。
その好例が近世洋画の祖、司馬江漢だろう。
彼は、長崎にてオランダ人イサーク・ティチングから画帖を送られ、それで西洋画をマスターしたと自ら称しており、一昔前の辞典類に「江漢はオランダ人から洋画を学んだ」と記載されていたのもこれが根拠だったという。
しかし研究者らがよく調べたところ、そのオランダ人が滞日時期と江漢が長崎に行った時期はまったくかぶっていないことが分かった。
要は法螺だったらしい。
また江漢の没年齢には2説あった。それも何かの誤記とは思えないほどの差があった。
それも様々な史料から検討したところ、本人がある時から(なぜか…)実年齢に9歳プラスしたものを使っていたのが原因だったことが判明した。
このように、江漢の自分語りはかなりアテにならないらしい(以上、成瀬不二雄『司馬江漢 生涯と画業』より)。

司馬江漢 生涯と画業―本文篇

司馬江漢 生涯と画業―本文篇

 

 

また横溝正史獄門島』初版には本人のあとがきが付いていたが、
そのなかで、連載中、妻のひとことで犯人を急遽変更したぜウッシッシ、というおどけたエピソードが書かれており、横溝ファンには有名な話らしい。
だがもしそうだとすると[     重大なネタバレ     ]の[     重大なネタバレ     ]のシーンは[  重大なネタバレ  ]になってしまうのだが…。
これも、作家本人の言葉を一度疑ってみたほうがいいのではないだろうか。

獄門島 (角川文庫)

獄門島 (角川文庫)

 

 

さて能書きを長く書いてきたが、今回言いたいのは、かの網野善彦の代表作『無縁・公界・楽』のあとがきについてだ。初版のあとがきにはこのような記述がある。

また、すぐれたドイツ中世史家として周知の北村忠男氏から、いつも親切に御教示いただけたことも、幸いであった。私が「公界」の問題を持ち出すと、北村氏は直ちに「フライ」「フリーデ」に言及され、ヘンスラーの著書を貸して下さった。私の語学力不足と怠慢から、これを本書に十分生かしえなかったことは申しわけない次第で、おわびしなくてはならないが、一揆に話が及んだとき、「神の平和だ!」と手を拍った、北村氏のお答えは忘れられない思い出である。―1978年1月26日付『無縁・公界・楽』あとがき

 北村忠男とは当時、網野と同じ名古屋大学に勤務していたドイツ史研究者であり、「ヘンスラーの著書」とは、これより20年以上前にドイツで出版されたOrtwin Henssler, Formen des Asylrechts und ihre Verbreitung bei den Germanen, (Klostermann, 1954)である。


ヘンスラーの著書が『アジール―その歴史と諸形態』として邦訳され出版されるのは網野没後の2010年であり、当時読むためにはドイツ語版しかなかっただろう。

アジール―その歴史と諸形態

アジール―その歴史と諸形態

 

 そしてこのあとがきから判断して、網野はドイツ語ができず、ヘンスラーを読めなかったと私は思い込んでいた。

しかし、さる研究会上でそう発言したところ、懇親会の道すがらある方から
「網野はドイツ語できたよ」
との指摘を受けた。
ビックリしたものの、結局それからアルコールに流れてしまい、その根拠を聞きそびれてしまったのだが、それに該当するのはここらへんではないだろうか。

〔1955年ごろの状況を聞かれて〕
事実上、一年間は失業状態で、ドイツ語の翻訳をしたり、出版社でアルバイトをしたり、都立北園高校の非常勤教師をごくわずかやっておりましたかね。網野善彦「インタビュー 私の生き方」(『歴史としての戦後史学』、初出1997年、著作集第18巻)

歴史としての戦後史学―ある歴史家の証言 (洋泉社MC新書)

歴史としての戦後史学―ある歴史家の証言 (洋泉社MC新書)

 

 なんと、網野は翻訳をするぐらいのドイツ語力を持っていたのだ。これは旧制高校に通っていたときに身に着けたもののようだ。

旧制高校生の一種の流行で、(…)戦争中は、ニーチェヘーゲル、あるいはランケ、マイネッケ、などの古典をドイツ語や翻訳で一生懸命読んだりしていたのです。―網野善彦「戦後歴史学の五十年」(初出1996年、著作集第18巻)

東京高等学校高等科(文科)時代にブルクハルト、ヴィンデルバントジンメルマルクスエンゲルスなどをドイツ語の授業で井上正蔵という教員から教わる。―「網野善彦年譜」(著作集別巻)

網野善彦著作集〈別巻〉論文編・資料編

網野善彦著作集〈別巻〉論文編・資料編

 

 というわけで、あとがき中の「私の語学力不足」という言葉は、嘘とはいわないでも、額面通りに受け取ってはいけないことがわかる。

そうすると、網野は「怠慢」ゆえヘンスラーを本当に読まなかったのか、それとも、ヘンスラーを読みながら、読んでいないことにしたかったのか…いろいろな可能性が考えられる。しかしそれは作品自体の精読で考察せねばならないことであり、あとがき愛読党の任務ではない。

 

*******


以下、余談。
ヘンスラーのアジール論の要点は、聖域や王など、超越的な存在と結びつく(縁を取り結ぶことKontaktgewinnung)ことで不可侵性が獲得される、という点にある。これは実態としては、網野の「縁切り」「無縁」と結局同じ事態を指している。超越的なものとの「縁結び」と、世俗との「縁切り」は、楯の両面であろう。
網野にしても、「無縁」とするよりも、超越的な存在との「縁結び」という説明の仕方のほうが適合的な事例もあるはずだ。それでもなぜ、わざわざ「縁切り」の側面を重視するのか。それは、中世後期に自覚的に主張・表現されてくる「無縁」「公界」「楽」に、神仏・天皇に依存しない契機を見出したいからではないだろうか。
これは、『無縁・公界・楽』から後『異形の王権』(1986年)で、初めて「聖なるもの」という分析放棄的な言葉を使ってしまったことに、研究史的転回を見出す細川涼一[2011]の指摘を重なるところがあると思う。

日本中世の社会と寺社

日本中世の社会と寺社

 

 このように、ヘンスラーを補助線とすることで、網野の独自性が浮き彫りになると私は考えている。

以上あとがき愛読党の党是を踏み越えてしまったが、ご容赦いただきたい。

*1:メモリアルイヤーの2014年も終わりかけだが、何か特集やシンポジウムなどはないのだろうか…

あとがき9 「つきあい」の可視化: 河野有理編『近代日本政治思想史』(ナカニシヤ出版、2014年)

 瓦経というものをご存知だろうか。
 粘土板にお経を刻んだものだ。

瓦経|奈良国立博物館

 なぜか平安時代ごろから、この瓦経を大量に作って土に埋めることが流行りだした。
 それが父母の供養や自分の極楽往生に効くと思われていたらしい。
 瓦一枚につき200字も入らないので、長いお経を瓦という媒体に収録するためには、膨大な枚数の瓦を焼かなくてはならない。そのため、多くのカネと手間がかかる。それゆえ瓦経の埋納は、たくさんの出資者を集めて遂行される地域の一大プロジェクトだった。

http://www.narahaku.go.jp/photo/exhibition/D047005.jpg

 その瓦経が土中から現代人によって掘り起こされる。新しく瓦経が発掘されたとき歴史学者がまず注目するのは、(中世人からすればはなはだ奇異だろうが)彼らが精魂込めて彫りこんだお経の文章自体ではない。瓦経のなかには、本文(お経)といっしょに、それを埋めた年月日や出資者の名前が彫りこまれたものがある。歴史学者は本文そっちのけでそれに熱中するのだ。
 なぜか。瓦経の出資者というのはその土地の名士であることが多い。要は、瓦経に連なる人名は、地域の人間関係が反映しているのだ。そのようなあいまいな「つきあい」というものは、実は他の史料では観測しづらい。瓦経はそれが可視化された稀有な素材なのである。
 例えば三重県伊勢市の小野塚から大量に出土した瓦経に刻まれた人名をていねいに分析すると、海(伊勢湾)の向こうの愛知県渥美半島の伊良湖の関係者が多いことがわかり、他の史料では見えづらかった海をこえた「つきあい」が形になっているのを観測できるのだという〔参考:苅米一志「荘園社会における寺院法会の意義―三河国伊良湖御厨における埋経供養を例に―」、同『荘園社会における宗教構造』、校倉書房、2004年〕。所領や国など制度的単位をこえた「つきあい」を図らずも記録しているところが、瓦経の大きな意義だ。

荘園社会における宗教構造 (歴史科学叢書)

荘園社会における宗教構造 (歴史科学叢書)

 

 

 さて本の「あとがき」も、瓦経の人名と同じ効果を発揮することがある。
 「あとがき」につきものなのが、関係者への謝辞だ。瓦経と同じく、この謝辞を読むことで、著者をとりまく人間関係を復元することがある程度可能だ。

 たとえば先日出版された佐藤健太郎『「平等」理念と政治』(吉田書店、2014年)のあとがきはたっぷりとスペースがとられ、読みごたえがある。このあとがきでは著者が東大在籍時代出席していたゼミの教官ひとりひとりに長めの謝辞を書いている。その謝辞は著者の所属の法学部教官以外にも向けられており、それを眺めることで、ゼロ年代の東大で日本政治外交史に近い分野の教官がどこにいたのかがおぼろげながら判明する。これもまた、制度的単位をこえた「つきあい」が可視化されたものといえる。本文を正確に読むためには、このようなネットワークで著者が自分の学問を形成していったことを念頭に置いておくことも重要だと自分は思う。

 以前あとがきとは、成分表示だとこのブログで書いた。


 「つきあい」という著者の学問的成分のひとつを、謝辞は(本来の目的とは別に)表示しているのだといえよう。

 

 さて昨日(!)発売された河野有理編『近代日本政治思想史』(ナカニシヤ出版、2014年)の巻末には「【討議】新しい思想史のあり方をめぐって」と題された、執筆者のうちの3人(河野有理、大澤聡、與那覇潤)の鼎談が収められている。これがあとがき愛読党的にはなかなかおもしろい*1

近代日本政治思想史―荻生徂徠から網野善彦まで

近代日本政治思想史―荻生徂徠から網野善彦まで

 

 

 そのテーマは。思想史研究に3人が踏み込んでいったかの経緯を語り合うもの。特に、彼らの学問的遍歴が、「出版動向」という経糸と、「つきあい」という緯糸で語られる点にこの鼎談の特長を見たい。
 私は思想史プロパーではないので、緯糸の「つきあい」―すなわち大学、学部、研究室、ゼミなどの場での交通―にとても興味をもって読んだ。3人ともほぼ同年代で、東大の教養学部(いわゆる「駒場」)になんらかのかたちで関わっていた。内容は、指導教官が誰だったかに始まり、どの教官の授業に出たか、あるゼミの雰囲気はこうだった、研究会でこんなメンツが集まっていた、院試でさる教官にボコボコにされた、などなど。

 共通の基盤をもつ人々の会話だけあって、悪く言えば内輪の話ともいえる。東大内部の思想史に近い制度的拠点だけでも、教養学部の地域文化研究と表象文化論と相関社会科学、ならびに文学部の倫理学と日本史、ならびに法学部の西洋政治思想史と日本政治思想史、ならびに社会情報研究所が互い違いに言及され、目眩せんばかりだ。しかしもっと別の人に聞けば、いや、倫理学内でも東洋と西洋の毛色はかなり違うとか、教育学部の政治思想史が抜けている、などと言われるのだろう。いくらでもアトマイズできる話題なのだ。

 この鼎談が画期的なのは、このような「内輪の話」を意図して言語化して、活字に残そうとしている点だ。編者の河野有理は鼎談の冒頭こう宣言する(太字は私によるもの。以下同)

本日はわれわれ同世代の研究者がどのような過程を経て、思想史という学問領域と関わることになったのかを振り返るとともに、今後の思想史「業界」の行く末を考えたい。その際には、高校までの読書や教育といった知的体験も重要ですが、むしろ大学、とくに大学院という「制度」の問題にフォーカスしたい
 かつての思想史家が歩んだような、戦争体験や強烈な時代感というのは、薄い世代なのではないか。だからこそ制度的な問題を語ろうという試みが、この鼎談のメインパートになるかと思いますが。

 この「制度」の問題というのは、先述した「制度的単位をこえた「つきあい」」も入っているのではないだろうか。

 大澤聡も賛意を表して、以下のように表明する。

ただ、読む人によってはいささか不遜に映るのでは、という心配もある。この種の企画はどうしても自分語りに陥るので。それが下品で滑稽だという感覚は僕の中に強烈にあります。子どもたちのおしゃべり(笑)みたいな。ただ、他方で旧来の研究者の躊躇や慎ましさの連鎖によって無数の断絶が生まれてしまっていることもまた事実。継承感覚の欠如も問題です。

 謝辞は、感謝を公言するという形式のもとで大澤のいう「不遜」さを和らげていた。しかし今回、逆機能していた「躊躇」「慎ましさ」をあえて踏み越え、意図的に学問的な「つきあい」を可視化する試みが行われたことを、外野の人間として喜びたいと思う。自分は、著者が照準を定める対象と同じ程度に、著者自身にも興味があるのだから。

 

*1:これが「あとがき」のつもりで収録されたかどうかは不明だが、それは措いておこう。

国会図書館デジコレで中世史! 叢書編

国立国会図書館デジタルコレクション(デジコレ)がWEB公開している資料は、約35万点。その膨大な書籍のうち、日本中世史の研究に役立つ文献をリストアップするのがこの記事の目的です。

 まずはその第一段として、叢書類(日記や編纂物、軍記など)、および中央の寺社の史料類に関してまとめました(文書集や地方史料はまた次回にまとめたいと思います)。

※誤りや新情報の指摘、大歓迎です!

 かしここゝにちりぼひある一巻二巻の書をとり集めて、かたぎにゑりおきなば、国学する人の能(ヨキ)たすけなるべし
(あちらこちらに分散している少数の書物を収集し、版木に起こして出版すれば、国学を学ぶ人々に大いに役立つものとなろう)
―中山信名『温故堂塙先生伝』より、群書類従刊行を目指す塙保己一の所信。

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※この画像は著作権保護期間満了によりインターネット公開されたコンテンツであり、国立国会図書館ウェブサイトから所定の手続きを経て転載しています。

 

注意点
*デジコレの性格
 デジコレで公開しているものは、書籍に限って言えばだいたいが戦前期の刊行物です。戦前期の図書が必要なときには、まずデジコレで検索してみるクセをつけるとトクする人生になるかもしれません。ただ、戦前期の出版物をすべてデジタル化しているわけでもなく、デジタル化していても公開していないものもあります。デジコレで見つからない=存在しない、ではもちろんありません。
 国会図書館の前身のひとつは旧上野図書館帝国図書館)であり、デジコレで閲覧できる資料の多くは旧上野図書館の所蔵本ということになります。そのためデジコレで閲覧できる資料の性格は、旧上野図書館の特殊な蔵書構築方法(たとえば検閲制度に伴う内務省からの交付など。参照)に大きく規定されるということは、一応念頭に置いておくほうがよさそうです。

 なお国会図書館のデータベースでは近代デジタルライブラリー(近デジ)が有名ですが、現在の近デジは、デジコレのうちWEB公開されている図書・雑誌を閲覧するためのDBという位置づけですので、今回の用途では実質デジコレ=近デジです。

*戦前期の学術水準
 デジコレを使うということは畢竟、戦前期の日本史研究の達成にアクセスするということです。デジコレをフルに活用することで、近世以来の日本史研究の伝統を直に体験できます。とくに史料については、研究書に比べて格段に寿命が長く、戦前期のものながら現在でも価値を失いません。たとえば19世紀末に編纂された『伏敵編』は、今日でも最も包括的な蒙古襲来研究の史料集です。
 もちろん、理屈でいえば、新しい史料集のほうがよりよい質を持ちます。戦前期の史料はしばしば校訂が甘く(典型は群書類従、古事類苑)、底本も最善本ではない場合があります。たとえば、鎌倉後期の公家の日記である『勘仲記』は非常に重要な古記録ですが、戦前来の『史料大成』が底本にしているのは数ある写本のひとつ(九条家本)であり、現在歴博所蔵の自筆写本(すなわち最善本)をもとにした翻刻が『史料纂集』や『歴史民俗博物館研究報告』『鎌倉遺文研究』誌上で進められています。このような事は多々あるため、デジコレで史料を参照した場合は、できる限り別の翻刻史料をあたるようにすべきかと思います。

*凡例
■編者『タイトル』
・版、出版者、刊行年など
・概要。
※戦後の復刊など。
国会図書館デジコレで閲覧可能史料。

簡単な解説や閲覧可能資料などの情報は付していますが、慌てて作文したものですので、あまりアテにしないで下さい。願わくは、自らの手でデジコレの海にダイブされんことを!

 

・経済雑誌社、1893。再版1908。ついで『新校群書類従』を内外書籍が刊行(1937)。
・江戸末期、塙保己一によって編纂された国書の叢書。叢書の範となる。内容細目としてはWikipedia が簡便。
※戦後も幾度か再刊される。
※2014.10から八木書店によりデジタル版販売開始。JapanKnowledgeでも閲覧可能に。
・経済雑誌社版、内外書籍版ともにすべて閲覧可能。
 
・写本:全号まとめ
・続群書類従完成会により刊行(1925)
塙保己一(生前には刊行できず)に手による群書類従の続編。
※昭和以降も幾度か再刊される。
※※2014.10から八木書店によりデジタル版販売開始。JapanKnowledgeでも閲覧可能に。
・続群書類従完成会刊行本の一部閲覧可能。
 
■神宮司庁遍『古事類苑』
和装本(神宮司庁、1899-1914)、洋装本(古事類苑刊行会、1930)
・日本の古事全般にわたる大類聚書。史料の抄出を多く含む。
※戦後、吉川弘文館により二度復刊(1967-1971、1995-1999)。
※有料データベースJapanKnowledgeにおいても電子化。
和装本、洋装本ともにすべて閲覧可能。
 
■今泉定介編『故実叢書』
和装本吉川弘文館、1899-1906)、増訂洋装本(同、1928-1933)
・有職故実に関する叢書。
※戦後に新訂増補版(同、1952-1957)
・「尊卑分脈」「武家名目抄」など含む和装本が閲覧可能。
 
東京大学史料編纂所編『大日本古文書』
東京大学史料編纂所編『大日本古記録』
史料編纂所ホームページ で閲覧・検索できるため、略。
 
■『史料通覧』
・日本史籍保存会、1915-1918。
・古記録などの史料叢書。のち『史料大成』に継承。内容詳細
・「小右記」「左経記」「水左記」「帥記」「兵範記」「山槐記」「勘仲記」など含むすべて閲覧可能。
 
■笹川種郎・矢野太郎編『史料大成』
・内外書籍(43巻のみ日本電報通信社出版部)、1934-1944。
・古記録などの史料叢書。『史料通覧』既刊分18巻に12巻を加え刊行。総計30巻。のち続編も加わり通巻43巻。
※戦後、臨川書店から『増補 史料大成』(1965)『続史料大成』(1967)『増補 続史料大成』(1978-)刊行。
・「中右記」「吉記」「平戸記」「伏見天皇宸記」「花園天皇宸記」「康富記」「親長郷記」「宣胤卿記」など含むすべて閲覧可能。
 
■近藤瓶城編『史籍集覧』
・近藤活版所、1881-1885。
群書類従に漏れた史籍刊行を目的とした叢書。和装本。364部467冊。総目解題1冊。
・「年中恒例記」閲覧可能。
 
■近藤瓶城編『(改定)史籍集覧』
・近藤活版所、1900-1903。
・『史籍集覧』から一部を除き、後集110部をあわせ刊行。洋装本。464部32冊、総目解題及書目索引1冊。史籍集覧. 總目解題
(デジコレより)。
※戦後『(新訂増補)史籍集覧』が刊行。
・「西宮記」「歴代皇紀」「朝野群載」「皇年代私記」「続皇年代私記」「信長公記」「川角太閤記」「本朝神仙伝」「後拾遺往生伝」「善隣国宝記」「続善隣国宝記」「続善隣国宝外記」「新編追加」「参考源平盛衰記」「鶴岡社務記録」「鶴岡事書日記」「碧山日録」「駒井日記」「嘉元記」「関原始末記」「二中歴」「足利治乱記」「政事要略」など含む一部閲覧可能。
 
■坪井九馬三・日下寛校訂『文科大学史誌叢書』
・青山堂雁金屋、ならびに冨山房吉川弘文館、1897-1913。
・中世―近世初めの日記・記録の叢書。帝国大学文科大学の編。和装本、22部57冊、木版。内容詳細 。
※戦後、『続史料大成』(臨川書店、1967)に複製収録。
・「正慶乱離志」「洞院公定日記」「愚管記」「伺事記録」「大館常興日記」「親俊日記」「親元日記「晴右記」「晴豊記」」「鶴岡社務記録」「家忠日記」「三河物語」などすべて閲覧可能。
 
■『国史大系
・経済雑誌社、1901-1918。
・史料叢書。中古の典籍が主。内容詳細 。
※のち『新訂増補国史大系』を吉川弘文館が刊行(1924-1964)。
・「六国史」「百錬抄」「愚管抄」「元亨釈書」「公卿補任」「吾妻鏡」などすべて閲覧可能。
 
国書刊行会、1905-1922。8期75部260冊。
※戦後設立された国書刊行会は同名の別会社。
・「平家物語長門本)」「玉葉」「明月記」「令集解」「参考保元物語・参考平治物語」「参考太平記」「言継卿記」「吾妻鏡(吉川本)」「本朝文粋」など閲覧可能。
 
■高頭忠造編輯『史料大観』
・哲学書院、1898-1900。
・3巻4冊。黒川真頼・小杉榲邨・栗田寛・井上頼圀らが校閲。
・「槐記」閲覧可能。
 
太洋社刊行の史料
辻善之助編『鹿苑日録』(1937)
※戦後、続群書類従完成会により復刊。
・すべて閲覧可能
太田藤四郎『園太暦』(1940)
・すべて閲覧可能。 
 
■三教書院刊行の史料
辻善之助編『大乗院寺社雑事記』(全12冊)
※戦後、『続史料大成』に所収。
 すべて閲覧可能。
辻善之助編『多聞院日記』(全5冊)
※戦後、『増補史料大成』に所収。
 すべて閲覧可能。
 
■『高野山文書』
高野山史編纂所編 (高野山文書刊行会、1936-1939)
高野山文書のうち「勧学院文書」「金剛三昧院文書」「西南院文書」「蓮華定院文書」などを翻刻。全7冊。
※戦後、歴史図書社で再刊(1973)。
・すべて閲覧可能。
 
■神宮司庁編『大神宮叢書』
・西濃印刷岐阜支店、1932-1957。
伊勢神宮に関する研究書・文献資料の叢書。全16冊附図1冊。
※戦後、臨川書店により復刻再版(1970-1971)。また『増補 大神宮叢書』が吉川弘文館から刊行中(2005~)。
・戦前刊行の15点閲覧可能。
 
■稲荷神社社務所編『稲荷神社史料』
・稲荷神社社務所、1935-1941。
稲荷大社関係史料を類従した史料集。5冊で中絶。
・すべて閲覧可能。
 
■八坂神社社務所編『八坂神社記録』
・八坂神社社務所、1923。
・社家の記録を集めたもの。上下巻。
・すべて閲覧可能。
 
■列聖全集刊行会編『列聖全集』
・列聖全集編纂会、1915-1917。
天皇・皇后などの詔勅・和歌・書翰・詩文その他を集成した叢書。全25冊。
※戦後、『皇室文学大系』と改題し、名著普及会より復刊(1979)。
天皇御記を集成した「宸記集」(和田英松編)などすべて閲覧可能。
 
■山田安栄編『伏敵編』
・吉川半七、1891。
・蒙古襲来関係史料の編年史料集。本編と附録。
・すべて閲覧可能。
■『史籍雑纂』
国書刊行会、1912。
・史料叢書。軍記物が多い。
・「関東往還記」「高山寺明恵上人行状」「竹むきか記」「天文法乱松本問答記」「大村記」「大村家秘録」「応仁私記」「日向記」など含むすべて閲覧可能。
 
■黒川真道編『日本歴史文庫』
・集文館、1989-1913。
・軍記物を主とした叢書。全20冊。
・「保元物語」「平治物語」「梅松論」「明徳記」「応永記」「信長記」などすべて閲覧可能。
 
国史研究会編『国史叢書』
国史研究会、1914-1920。
・軍記などの叢書。黒川真道、矢野太郎らが参加。全52種。
・「古事談」「江談抄」「曾我物語」「承久記」閲覧可能。その他戦国軍記多数。
 
★参考 戦前期の叢書だが、閲覧不可のもの
・『皇学叢書』
 館内限定、あるいは承認図書館への配信のみ
・『続々群書類従
 そもそもデジタル化されず。ナゾです。
 
★参考にした辞典等
・『国史大辞典』(吉川弘文館、1979-97)
 日本史学最大の辞書。史料に関する解題集としても使用できる。特に叢書類の詳細細目を明記しており、有用。なお、このような国史大辞典中の史料に関する項目を抜き出しシングルカットしたものが、加藤友康・由井正臣編『日本史文献解題辞典』(2000)。
日本史文献解題辞典

日本史文献解題辞典

 

・橋本義彦ほか著『日本歴史「古記録」総覧』(新人物往来社、1990)

 もっとも網羅的な古記録の解題集。図版も多い。
日本歴史「古記録」総覧〈古代・中世篇〉

日本歴史「古記録」総覧〈古代・中世篇〉

 

 ・竹内理三・滝沢武雄編『史籍解題辞典 上巻 古代・中世編』(東京堂出版、1985)

 巻末に「叢書一覧」を備える。
史籍解題辞典〈上巻〉古代中世編

史籍解題辞典〈上巻〉古代中世編

 

 

中世古文書の画像が見れるデータベースまとめ稿

※随時更新(2020/4/25 最新16訂: 京大の淡輪文書、佐賀県立図書館を追加)。情報募集中!

「信長の印章ってどんな感じだっけ?」

「あの武将の花押が見てみたいなあ」

「本の図版に使う古文書を探してるんだけど」

そんなお悩み、ウェブで解決しましょう。ネット上で見れる中世古文書のデータベースをまとめてみました!

※画像の転載等の利用については、各DB内の規定に従ってください。

 

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東寺百合文書WEB より、永禄11年9月日織田信長禁制。当時信長の官途は弾正忠。印銘は「天下布武」。

※東寺百合文書WEBのサイトポリシーに基づき本画像は転載されています。

公共機関

 古文書DAの王者。所蔵の「東寺百合文書」約25000通を全部公開。一部釈文あり。利用は自由(CC-BY)。

 国文学研究資料館を中心とする諸機関の古典籍画像が公開。中世史料も多い。

 所蔵の「田中本古文書」「越前島津家文書」「水木家資料」など約2000点を公開。

 デジタルアーカイブではないが、中世古文書の読み方を画像・文字・音声で体感できる唯一無二のデジタル展示。

 宮内庁書陵部図書寮文庫所蔵史料を一部公開。外部で公開している場合そのリンクも。

 所蔵古典籍資料を公開。中世史料は「葛川明王院文書」「師守記」「満済准后日記」「康富記」、および近世写本の「白河本東寺百合古文書」など。

 所蔵文書のうち「土佐家文書」、「香宗我部文書」、 「日御崎文書(写)」、 「三島神社文書(写)」、「白河結城文書」など一部(200通)を公開。釈文あり。

 所蔵史料を公開。【作品分類】で「書跡(B) 日本書跡 文書」を選択し検索すると、宸翰や消息、「古筆状手鑑」(足利尊氏・義詮文書)など約20点を閲覧できる。

 奈良博が収集した画像DB。奈良博所蔵資料の画像はWEB公開されている。詳細検索の【分類】項で「書跡: 文書・記録類」を選択し、【所蔵者】項に「奈良国立博物館」に入力して検索すると、奈良博所蔵史料が表示される。中世文書は「額安寺旧蔵文書」など約10点。

 四つの国立博物館(東京・奈良・京都・九州)の収蔵する国宝・重要文化財の画像を公開。書跡として中世文書も閲覧可能。

 中世文書では内閣文庫旧蔵の「朽木家古文書」「東大寺文書」「豊島・宮城文書」「大和国古文書」「山城国古文書」などの一部を公開。

 

 「秋田藩家蔵文書」(全61冊)の画像を公開。

 小田家遺品。中世文書数点(石田三成公等の書翰、小田成朝公文書集など)の画像を公開。

 応永6年5月の「香取検田取帳 参」「香取御神畠検注帳 四」などの画像公開。

 西光院中世文書2点、その他近世文書(徳川家康朱印状など)の画像・翻刻を閲覧可能。

 神奈川県立公文書館所蔵の中世諸家文書(「山崎文書」「芦名文書」「喜連川文書」「原文書」「小幡文書」「中世諸家文書」「豊前氏古文書」「山吉家文書」「相模国武蔵国各郡文書」「岩澤愿彦氏寄贈史料」「田中兵五郎氏旧蔵資料」「三田家文書」)を全部公開。

 館蔵の「北条家文書」「本光寺文書」「桜井家文書」「江梨鈴木家文書」「円覚寺帰源院文書」など文書約70通を公開。

 神奈川県立金沢文庫が管理する称名寺横浜市金沢区)所蔵「金沢文庫文書」の画像・翻刻を公開。

 所蔵の中世文書34点・近世文書2点を全部公開。

 所蔵の富士家文書13点の画像を公開(”富士家文書”で検索)。静岡県立図書館蔵文書の別れ。

井伊直虎とその時代」として、井伊直虎置文(龍潭寺文書)など関係史料の画像が閲覧可能。

 中津川市苗木遠山史料館所蔵の「大名遠山家資料」の画像・翻刻を公開。足利尊氏下文写、足利直義袖判下知状写など。

 戦国大名上杉氏の文書若干を公開。

 本間美術館所蔵「市河文書」146点を全部公開。釈文あり。

 県立歴史館、県立長野図書館、信濃美術館・東山魁夷館を中心とした所蔵データを公開。鳥羽院庁下文、ならびに戦国期の検地帳・文書など数点を公開。[年代別検索]から探すと便利。

 長野県生島足島神社所蔵の起請文・古文書94点を全部公開。一部解題・釈文・現代語訳あり。

 所蔵古文書の画像を公開。天正5年織田信長安土山下町中掟書(国指定文化財)など。

 福井県文書館所蔵の中世文書の一部を閲覧可能。劔神社社家上坂家旧蔵の文書を継承した「山内秋郎家文書」など。

 丹生家文書(和歌山県立文書館蔵)の中世文書数点の画像や解題・冊子目録・全件目録(Excel)を公開。

 「赤松春日部家文書」(19点)などを含む所蔵中世文書140点を公開。

 所蔵の「有光家文書」(121点)、「防長古文書誌」「大内氏実録土代」(明治期編纂の地誌)などを全部公開。

  所蔵の「龍造寺家文書」などを全部公開。

大学・附属図書館

 愛知県岡崎市妙源寺の所蔵にかかる妙源寺文書原本の忠実な写し(1冊)を公開。約70点の中世文書を収め,多くは戦国期のもの。

 所蔵の「中条家文書」233点を全部公開。

 所蔵の宮崎文庫、浜田家文書、新渡戸文書を全点公開。これらの解題はこちら

 所蔵の「朴沢家文書」中の中世文書12点を公開。

 所蔵の「北野神社関連文書」・「北野社家日記」(長禄から慶長まで)を全部公開。

 詳細検索の「コレクション名」で指定することで所蔵史料を検索し、一点ごとの画像を閲覧することが可能。「石清水八幡宮文書」「北野神社文書」「雑文書」「長福寺文書」等を公開。

 所蔵史料目録データベース(Hi-CAT)で所蔵史料・影写本を一部公開。Hi-CAT Plusで宮内庁書陵部所蔵史料(九条家本・伏見宮家本など)を公開。

 所蔵の(鹿児島県)入来院家文書を全部公開。釈文と朝河貫一による英文注釈も付与。

 所蔵の「御前落居記録」、「御前落居奉書」、「甲州法度之次第」、「周防與田保文書」、「美濃國茜部庄文書」などの画像を公開。

 所蔵の水野忠幹氏旧蔵書文書5点を公開。

 所蔵の貴重資料・特殊コレクション(「久我家文書」など)を公開。

 所蔵の宮地直一(1886-1949)旧蔵資料のうち、写真、拓本、版画を公開。「水無瀬宮」「多賀神社関係文書」「本所古文書 香取神宮関係」「肥前国川上社古文書写真」「五条文書」など。

 所蔵の古典籍を公開。荻野三七彦研究室収集文書1117点を含む。

 所蔵史料を公開。中世文書数点あり。

 相良家文書一部のデジタル画像を公開。今後順次公追加を予定とのこと。

 駒澤大学駒澤大学図書館が所蔵している貴重な禅籍・仏教書を中心に、あわせて国文学・国語学・語学・歴史学等の各分野の貴重な資料の書誌と画像 を広く公開。貴重図書として、鎌倉時代日録断簡(1冊)、家忠日記(7冊)、兵範記(1冊)、顕徳院心記(1巻1冊)、細川忠興消息(1軸)など。

 所蔵の真継家文書を釈文のみ公開。中世文書は381点。

 京都大学附属図書館所蔵の重要文化財兵範記』長承元年7月1日~承安元年12月(自筆・古写本新写本)、『知信記』(天承2年春記)、『範国記』(長元九年夏秋冬記)の画像を公開。総合博物館所蔵の『淡輪文書』も。

 所蔵の藤井孝昭旧蔵コレクション(古筆・絵画・宗教関係資料(聖教)・染織など420点)を全部公開。

 所蔵の「俣賀家文書」(22点)を全部公開。釈文、解題あり。

 所蔵の「浄土寺縁起」「広峯神社古文書」「中川家文書」を全部公開。

 伊予国愛媛県)弓削島荘関係の古文書36点を公開。 釈文・解題あり。

 阿蘇文書のうち熊本大学所蔵分約300点を公開。

 所蔵の「古文書貼交屏風」(中世文書を中心に27点)「東大寺文書」「天龍寺塔頭南芳院文書」「応永三十二年具注暦(紙背は元徳二年後宇多院七回忌曼荼羅供記)」等の画像を公開。

 黒板勝美によって仕立てられたと推定される「古文書貼交屏風」の概要については、近藤成一「イェール大学所蔵播磨国大部庄関係文書について (pdf)」(『東京大学史料編纂所研究紀要』第23号、2013年)参照。

 所蔵の中世日本文書22点をデジタル公開。1936年、蒐集家の保坂潤治が東京音楽学校の高野辰之経由で寄贈したもの。解題は以下参照。Mikael S. Adolphson "Laws of the Land in Medieval Japan: Komonjoat Harvard University"

 トーマス・コンラン氏(プリンストン大)のウェブサイト。6つのトピックで日本の古文書を学習できる。「上杉文書」の画像を使用。

その他(寺社など)

所蔵の「飯野家文書」のうち、冒頭3点を公開。釈文もあり。全体の目録も公開。CD-ROM版を購入すれば全点(中世文書216通)閲覧可能。

分類「書状」で多数の中世文書の画像を閲覧可能。

 西敬寺(別符家)に伝わる古文書20通を公開。釈文あり。

 所蔵の古写経・古写本などを公開。「舎利講式」(南北朝期写)に紙背文書あり。

 古系図(一巻、鎌倉時代書写)など公開。

 世阿弥自筆本をはじめとする所蔵の能楽関係文献資料を公開。細川持常書状など若干の中世史料も含む。

「佐々木文書」(個人蔵、鹿児島県歴史資料センター黎明館寄託)全67点(中世文書13点・近世文書54点)のうち、中世分の画像を公開。

 

★このリストを作る際役だったサイト等

 各地の公共機関所蔵史料の情報が検索できる。

 大学所蔵文書の情報が検索できる。

 日本国内のデジタルアーカイブのリスト。図書館のサイトが主。

 

※情報をご教示いただいた方々、この場でお礼申し上げます。

※※本部中での間違いや、これ以外のデータベース情報などおありでしたら、こちらのコメント欄かツイッターアカウント( )まで教えていただきたく思います。

 

あとがき8 【ゲスト投稿】長大なる自分語りの祖 : 司馬遷『史記』その②

二歩博士の論考後編、出来!前編はこちらで。

あとがき7 【ゲスト投稿】長大なる自分語りの祖 : 司馬遷『史記』その① - あとがき愛読党ブログ

史記〈8〉―列伝〈4〉 (ちくま学芸文庫)

史記〈8〉―列伝〈4〉 (ちくま学芸文庫)

 

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【提要】

  •  史記』の先秦諸子に関する列伝には、その文献・学術・学派に対する「序」の性質がある。
  • 司馬遷は、司馬氏の史官としての仕事を諸子にも劣らない、一つの学術分野と自負した。
  • そこで、司馬氏の学術の発祥と、『史記』に結実するまでの来歴を、「自序」に記した(そのために「自序」がまるで司馬談司馬遷の列伝のようになった)。

         というのが、本稿の主旨である。

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承前

 

「太史公自序」の「四」の部分は、あとがきの体例のうちの「乙」にあたり、とりわけ『淮南子』の「要略」によく似ている。思うに、『史記』は司馬談司馬遷個人の作であり、この二人以外に学派集団を形成してはいない。『史記』の学術を引き継ぐ弟子がどれだけいたのかを考えると、『淮南子』以上に散佚しやすい文献であった。そこで、「要略」同様、全篇について説明する文章を設けることにより、散佚を防ごうとしたのではなかろうか。
 司馬遷は、「自序」に『史記』全一百三十篇の解説文を置く他、

完成した『史記』を)名山に埋め、副本を都に置いておき、後世の聖人君子(によって見出され、評価されること)を待つ。

―「太史公自序」

分かってくれる人に伝授し、巷間に普及させる。

―「報任少卿書」(『漢書』巻六十二 司馬遷伝 所引)

と自ら述べるように、『史記』の伝承に力を尽くした*1。しかし、それでも百年も経たないうちに十篇ほどが失われ、現行本の日者列伝・亀策列伝などは、元帝・成帝期に褚少孫が補ったものとされている。出版技術の無い時代、著作を後世に残すのは実に難しいことだったのである。

 

 「一」「二」「三」の部分は、あとがきの体例の「甲」にあたる。とはいえ、その分量は従来のあとがきの並ぶところではない。あとがきや「序」というよりも、もはや司馬談司馬遷についての列伝、すなわち「自伝」である。班固もそのように見なしたのか、『漢書司馬遷伝を記す際に、この「太史公自序」の文言をほぼそのまま用いている。
 では、司馬遷は何故、父と自身についての列伝を著したのであろうか。一つには、孝心から父を顕彰しようとしたという動機もあったのだろう。あるいは、従来の「甲」型のあとがきを書こうとしたが、他の列伝を著す際の体例に則って執筆したら、ついつい長くなってしまったということも、考えられなくもない。しかし、おそらくはそれだけではないように思う。古代の記録を集めて史書を編纂するという自らの事業を一つの学術分野と考え、一家の学問としての由来・理念を述べようとした時に、最も適切な方法が、列伝だったのではなかろうか。

 『史記』の列伝は、基本的には傑出した人物の言行を記録したものだが、中には諸学術の淵源を求め、流伝を明らかにしようとして列伝が執筆されることもあった。例えば、司馬遷は、「管晏列伝」・「老荘申韓列伝」の末尾で「太史公曰」として、次のように述べている。

管氏の「牧民」「山高」「乗馬」「軽重」「九府」諸篇や『晏子春秋』を読んでみたところ、それらの文言は非常にきめこまやかであった。これらの著書を読んだ後、私は彼らの言行について知りたいと思い、そこでこの列伝を設けた。書物自体は世間に流通しているのでここでは論ぜず、言行のみを紹介した。

―『史記』巻六十二 管晏列伝

荘子・申不害・韓非の学術は)全て『老子』の思想に淵源を持つ。老子は深遠である。

―同書巻六十三 老荘申韓列伝

司馬遷は、『管子』『晏子春秋』を高く評価し、その学術の始祖を明らかにすべく「管晏列伝」を書いた。また、『荘子』『申子』『韓非子』の学術をいずれも『老子』に端を発するものと見なし、同系統の学術として「老荘申韓列伝」の一篇に伝記をまとめたのである。これらは、各文献・各学術を学ぶ上でのイントロダクションとしての性格も持っており、あとがきの体例の「甲」に合致する。他にも、「司馬穣苴列伝」・「孫武呉起列伝」・「伍子胥列伝」・「商君列伝」・「蘇秦列伝」・「張儀列伝」・「孟子荀卿列伝」などが、『司馬法』・『孫子』・『呉子』・『伍子胥』・『商君』・『蘇子』・『張子』・『孟子』・『鄒子』・『荀子』などの文献・学術の始祖についての記録に該当する。後の劉向・劉歆による「叙録」や分類の精度には遠く及ばないが、『史記』のいくつかの列伝には、諸学術を分類し、淵源を究明する意図が込められている。

 思うに、「太史公自序」の「一」~「三」の部分は、「管晏列伝」「老荘申韓列伝」などと同様に、学術の淵源・来歴を論じた文章なのではなかろうか。

 「太史公自序」は、司馬氏の祖先が太古には天文を司り、周王朝では代々周史を司ったと述べる。そして、周の恵王・襄王の時期(前七世紀)以降はしばらく史官の職から遠ざかるが、司馬遷の父司馬談が、再び太史となったという。つまり、(およそ500年間もの空隙はあるものの、)司馬談司馬遷の史官としての学術は、遠く周代に淵源を持っていることになる。司馬談司馬遷に述べた遺言でも、

我々の先祖は周朝の太史であった。

お前もまた太史となって、我々の先祖の職を継承せよ。

我々が太史となったのに名君・忠臣の事柄を載せず、天下の記録を廃絶してしまうようなことを、私は非常に恐れている。

と、その自意識が顕れている。周代の太史に発する学術を受け継いだ司馬氏こそが史官にふさわしく、天下の記録をまとめあげることができるというのである。
 そして「太史公自序」は、司馬談の遺志を継いで完成させた『史記』について、

記録を集めて六芸を補佐し、一家の言を成した。

と述べる。「一家」というのは、司馬氏の学術儒家・法家などにも並ぶ一つの学術分野だということである。そして、「一家の言を成した」というのは、『史記』が、儒家の『孟子』や法家の『韓非子』などのような学派固有の文献を作り上げたということであろう。
 司馬遷自身は

(『史記』は単に記録をそのまま載せただけであり、)『春秋』に並べて評価するのは誤りである。

と謙遜するものの、「太史公自序」を通読すると、『史記』が『春秋』の意義を継承するという自負が随所に散りばめられている。「礼・義の大宗」であり「乱世を正す最善の手段」である『春秋』を継承するとすれば、まさに「一家の言」であり、先秦諸子にも匹敵する一つの立派な学術分野である。
 なお、『史記』は、現在では『史記』と呼ばれているが、司馬遷自身はこれを『太史公書』と命名した。「史記」というのは、本来は歴史的記録を指す一般名詞であり、無味乾燥した名称である。一方、「太史公書」と名乗った場合、これは「太史公が著した文献」「太史公の学術を示した文献」という意味合いが強い。『漢書』巻三十 芸文志を見ると、漢代諸子の学術として『陸賈』『賈誼』『董仲舒』といった文献が著録されており、『太史公書』(『漢書』芸文志では『太史公』として著録)というのも、また一家の学術としての名称にふさわしい。

 司馬遷は、「管晏列伝」で『管子』『晏子春秋』の学術の淵源を論じ、「老荘申韓列伝」で『老子』『荘子』『申子』『韓子』の学術の推移を論じたように、「太史公自序」では司馬氏の学術の淵源と、『史記』という形で結実するまでの来歴を論じたのである。管仲・晏嬰の生平をまとめた列伝が『管子』『晏子春秋』の「序」たりえるように、司馬談司馬遷の生涯を述べる列伝は『史記』の「序」たりえるのである。

 

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 「太史公自序」は、太古から現在に到る記録を蒐集・整理する自らの事業を一家の学術とみなし、その学術の淵源・来歴、そして『史記』という形で結実するに到るまでを記述している。『史記』のスタイルから考えて、一家の学術について記述するには列伝形式がもっともふさわしく、「太史公自序」の大半が司馬談司馬遷の列伝(つまり自伝)となったのは、必然のことだったのであろう。
 ただ、司馬氏の史官としての学術は、遠く周代にまで遡るものの、漢代では所詮司馬談司馬遷親子の学であり、学派集団としての地盤は極めて弱く、『史記』が完本として伝承される望みは薄い。そこで司馬遷は、「太史公自序」を単なる列伝だけでは終えず、末尾に全一百三十篇それぞれについての解題を付したのであろう。
 このようにして編まれたのが「太史公自序」であり、冗長に過ぎるようではあるが、『史記』の学術と意義・内容を述べたあとがきなのである。

 『史記』の後には、班固による『漢書』巻一百 叙伝が「多分に私事に渉るあとがき」として挙げられるが、これは形式的に「太史公自序」を模したに過ぎない。班氏の歴史家としての学術が古代から続いているわけでもないのに、楚の令尹の子文から班氏の歴史を書き出している。要するに単なる伝記であり、学術の発祥・来歴を論じたものではない。

漢書〈8〉列伝5 (ちくま学芸文庫)

漢書〈8〉列伝5 (ちくま学芸文庫)

 

  むしろ史家ではない『孔叢子』の末尾に伏せられた「連叢子」が、孔氏の族譜と学術を述べており、「太史公自序」の意義に近いと謂えよう。(二歩/了)

 

*1:実際には親族の間で伝わったのか、『漢書』巻六十二 司馬遷伝によれば、宣帝の時に司馬遷の外孫の楊惲が『史記』を大いに顕彰し、王莽の時に司馬遷の子孫が「史通子」に封爵されたという。