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あとがき8 【ゲスト投稿】長大なる自分語りの祖 : 司馬遷『史記』その②

二歩博士の論考後編、出来!前編はこちらで。

あとがき7 【ゲスト投稿】長大なる自分語りの祖 : 司馬遷『史記』その① - あとがき愛読党ブログ

史記〈8〉―列伝〈4〉 (ちくま学芸文庫)

史記〈8〉―列伝〈4〉 (ちくま学芸文庫)

 

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【提要】

  •  史記』の先秦諸子に関する列伝には、その文献・学術・学派に対する「序」の性質がある。
  • 司馬遷は、司馬氏の史官としての仕事を諸子にも劣らない、一つの学術分野と自負した。
  • そこで、司馬氏の学術の発祥と、『史記』に結実するまでの来歴を、「自序」に記した(そのために「自序」がまるで司馬談司馬遷の列伝のようになった)。

         というのが、本稿の主旨である。

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承前

 

「太史公自序」の「四」の部分は、あとがきの体例のうちの「乙」にあたり、とりわけ『淮南子』の「要略」によく似ている。思うに、『史記』は司馬談司馬遷個人の作であり、この二人以外に学派集団を形成してはいない。『史記』の学術を引き継ぐ弟子がどれだけいたのかを考えると、『淮南子』以上に散佚しやすい文献であった。そこで、「要略」同様、全篇について説明する文章を設けることにより、散佚を防ごうとしたのではなかろうか。
 司馬遷は、「自序」に『史記』全一百三十篇の解説文を置く他、

完成した『史記』を)名山に埋め、副本を都に置いておき、後世の聖人君子(によって見出され、評価されること)を待つ。

―「太史公自序」

分かってくれる人に伝授し、巷間に普及させる。

―「報任少卿書」(『漢書』巻六十二 司馬遷伝 所引)

と自ら述べるように、『史記』の伝承に力を尽くした*1。しかし、それでも百年も経たないうちに十篇ほどが失われ、現行本の日者列伝・亀策列伝などは、元帝・成帝期に褚少孫が補ったものとされている。出版技術の無い時代、著作を後世に残すのは実に難しいことだったのである。

 

 「一」「二」「三」の部分は、あとがきの体例の「甲」にあたる。とはいえ、その分量は従来のあとがきの並ぶところではない。あとがきや「序」というよりも、もはや司馬談司馬遷についての列伝、すなわち「自伝」である。班固もそのように見なしたのか、『漢書司馬遷伝を記す際に、この「太史公自序」の文言をほぼそのまま用いている。
 では、司馬遷は何故、父と自身についての列伝を著したのであろうか。一つには、孝心から父を顕彰しようとしたという動機もあったのだろう。あるいは、従来の「甲」型のあとがきを書こうとしたが、他の列伝を著す際の体例に則って執筆したら、ついつい長くなってしまったということも、考えられなくもない。しかし、おそらくはそれだけではないように思う。古代の記録を集めて史書を編纂するという自らの事業を一つの学術分野と考え、一家の学問としての由来・理念を述べようとした時に、最も適切な方法が、列伝だったのではなかろうか。

 『史記』の列伝は、基本的には傑出した人物の言行を記録したものだが、中には諸学術の淵源を求め、流伝を明らかにしようとして列伝が執筆されることもあった。例えば、司馬遷は、「管晏列伝」・「老荘申韓列伝」の末尾で「太史公曰」として、次のように述べている。

管氏の「牧民」「山高」「乗馬」「軽重」「九府」諸篇や『晏子春秋』を読んでみたところ、それらの文言は非常にきめこまやかであった。これらの著書を読んだ後、私は彼らの言行について知りたいと思い、そこでこの列伝を設けた。書物自体は世間に流通しているのでここでは論ぜず、言行のみを紹介した。

―『史記』巻六十二 管晏列伝

荘子・申不害・韓非の学術は)全て『老子』の思想に淵源を持つ。老子は深遠である。

―同書巻六十三 老荘申韓列伝

司馬遷は、『管子』『晏子春秋』を高く評価し、その学術の始祖を明らかにすべく「管晏列伝」を書いた。また、『荘子』『申子』『韓非子』の学術をいずれも『老子』に端を発するものと見なし、同系統の学術として「老荘申韓列伝」の一篇に伝記をまとめたのである。これらは、各文献・各学術を学ぶ上でのイントロダクションとしての性格も持っており、あとがきの体例の「甲」に合致する。他にも、「司馬穣苴列伝」・「孫武呉起列伝」・「伍子胥列伝」・「商君列伝」・「蘇秦列伝」・「張儀列伝」・「孟子荀卿列伝」などが、『司馬法』・『孫子』・『呉子』・『伍子胥』・『商君』・『蘇子』・『張子』・『孟子』・『鄒子』・『荀子』などの文献・学術の始祖についての記録に該当する。後の劉向・劉歆による「叙録」や分類の精度には遠く及ばないが、『史記』のいくつかの列伝には、諸学術を分類し、淵源を究明する意図が込められている。

 思うに、「太史公自序」の「一」~「三」の部分は、「管晏列伝」「老荘申韓列伝」などと同様に、学術の淵源・来歴を論じた文章なのではなかろうか。

 「太史公自序」は、司馬氏の祖先が太古には天文を司り、周王朝では代々周史を司ったと述べる。そして、周の恵王・襄王の時期(前七世紀)以降はしばらく史官の職から遠ざかるが、司馬遷の父司馬談が、再び太史となったという。つまり、(およそ500年間もの空隙はあるものの、)司馬談司馬遷の史官としての学術は、遠く周代に淵源を持っていることになる。司馬談司馬遷に述べた遺言でも、

我々の先祖は周朝の太史であった。

お前もまた太史となって、我々の先祖の職を継承せよ。

我々が太史となったのに名君・忠臣の事柄を載せず、天下の記録を廃絶してしまうようなことを、私は非常に恐れている。

と、その自意識が顕れている。周代の太史に発する学術を受け継いだ司馬氏こそが史官にふさわしく、天下の記録をまとめあげることができるというのである。
 そして「太史公自序」は、司馬談の遺志を継いで完成させた『史記』について、

記録を集めて六芸を補佐し、一家の言を成した。

と述べる。「一家」というのは、司馬氏の学術儒家・法家などにも並ぶ一つの学術分野だということである。そして、「一家の言を成した」というのは、『史記』が、儒家の『孟子』や法家の『韓非子』などのような学派固有の文献を作り上げたということであろう。
 司馬遷自身は

(『史記』は単に記録をそのまま載せただけであり、)『春秋』に並べて評価するのは誤りである。

と謙遜するものの、「太史公自序」を通読すると、『史記』が『春秋』の意義を継承するという自負が随所に散りばめられている。「礼・義の大宗」であり「乱世を正す最善の手段」である『春秋』を継承するとすれば、まさに「一家の言」であり、先秦諸子にも匹敵する一つの立派な学術分野である。
 なお、『史記』は、現在では『史記』と呼ばれているが、司馬遷自身はこれを『太史公書』と命名した。「史記」というのは、本来は歴史的記録を指す一般名詞であり、無味乾燥した名称である。一方、「太史公書」と名乗った場合、これは「太史公が著した文献」「太史公の学術を示した文献」という意味合いが強い。『漢書』巻三十 芸文志を見ると、漢代諸子の学術として『陸賈』『賈誼』『董仲舒』といった文献が著録されており、『太史公書』(『漢書』芸文志では『太史公』として著録)というのも、また一家の学術としての名称にふさわしい。

 司馬遷は、「管晏列伝」で『管子』『晏子春秋』の学術の淵源を論じ、「老荘申韓列伝」で『老子』『荘子』『申子』『韓子』の学術の推移を論じたように、「太史公自序」では司馬氏の学術の淵源と、『史記』という形で結実するまでの来歴を論じたのである。管仲・晏嬰の生平をまとめた列伝が『管子』『晏子春秋』の「序」たりえるように、司馬談司馬遷の生涯を述べる列伝は『史記』の「序」たりえるのである。

 

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 「太史公自序」は、太古から現在に到る記録を蒐集・整理する自らの事業を一家の学術とみなし、その学術の淵源・来歴、そして『史記』という形で結実するに到るまでを記述している。『史記』のスタイルから考えて、一家の学術について記述するには列伝形式がもっともふさわしく、「太史公自序」の大半が司馬談司馬遷の列伝(つまり自伝)となったのは、必然のことだったのであろう。
 ただ、司馬氏の史官としての学術は、遠く周代にまで遡るものの、漢代では所詮司馬談司馬遷親子の学であり、学派集団としての地盤は極めて弱く、『史記』が完本として伝承される望みは薄い。そこで司馬遷は、「太史公自序」を単なる列伝だけでは終えず、末尾に全一百三十篇それぞれについての解題を付したのであろう。
 このようにして編まれたのが「太史公自序」であり、冗長に過ぎるようではあるが、『史記』の学術と意義・内容を述べたあとがきなのである。

 『史記』の後には、班固による『漢書』巻一百 叙伝が「多分に私事に渉るあとがき」として挙げられるが、これは形式的に「太史公自序」を模したに過ぎない。班氏の歴史家としての学術が古代から続いているわけでもないのに、楚の令尹の子文から班氏の歴史を書き出している。要するに単なる伝記であり、学術の発祥・来歴を論じたものではない。

漢書〈8〉列伝5 (ちくま学芸文庫)

漢書〈8〉列伝5 (ちくま学芸文庫)

 

  むしろ史家ではない『孔叢子』の末尾に伏せられた「連叢子」が、孔氏の族譜と学術を述べており、「太史公自序」の意義に近いと謂えよう。(二歩/了)

 

*1:実際には親族の間で伝わったのか、『漢書』巻六十二 司馬遷伝によれば、宣帝の時に司馬遷の外孫の楊惲が『史記』を大いに顕彰し、王莽の時に司馬遷の子孫が「史通子」に封爵されたという。

あとがき7 【ゲスト投稿】長大なる自分語りの祖 : 司馬遷『史記』その①

 以前執筆していただいた二歩博士から、再び玉稿を頂いた。長編のため、前後遍として掲載することにする。ご味読いただきたい。

 

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【提要】

  •  史記』の先秦諸子に関する列伝には、その文献・学術・学派に対する「序」の性質がある。
  • 司馬遷は、司馬氏の史官としての仕事を諸子にも劣らない、一つの学術分野と自負した。
  • そこで、司馬氏の学術の発祥と、『史記』に結実するまでの来歴を、「自序」に記した(そのために「自序」がまるで司馬談司馬遷の列伝のようになった)。

         というのが、本稿の主旨である。

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先日の記事

あとがき6 あとがきはなぜ必要なのか: 小熊英二『単一民族神話の起源』(新曜社、1995年) - あとがき愛読党ブログ

で、

人文系学術書の、長くて、情緒纏綿で、多分に私事に渉るあとがき

という言葉が登場した。この言葉を見ると、『史記』のあとがき、「太史公自序」が思い浮かぶ。この自序では、実に多大な紙幅(当時は「竹幅」「帛幅」と言うべきか)を割いて、司馬遷自身の私事を述べ立てている。ここでは、司馬遷が何故このようなあとがきを書いたのかについて、試みに考えてみたい。

史記〈8〉―列伝〈4〉 (ちくま学芸文庫)

史記〈8〉―列伝〈4〉 (ちくま学芸文庫)

 

 

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 『史記』巻一百三十「太史公自序」は、「序」という名を冠するが、実際には『史記』の最末尾に置かれている。つまり、あとがきである。漢代では、「序」を書末に配することが多く、『淮南子』『漢書』『説文解字』等でも、自序を末尾に置いている。
 この「太史公自序」は、大まかに、四つの部分に分けられる。

  • 一、太古の重黎氏から司馬談司馬遷の父)に到るまでの、司馬氏の系譜
  • 二、司馬談の学問・官職についての記述。
  • 三、司馬遷学術と、『史記』執筆の経緯。
  • 四、『史記』一百三十篇についての説明。各篇の意義・編纂動機について一篇ずつ簡潔に述べる。

 現代の我々から見ると、「一」「二」は全くの蛇足である。「三」も冗長である。当時としても、これほど長々と自分語りを行なった「序」は、珍しい。

 

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 ややまわりくどくなるが、「太史公自序」について考える前に、先秦・前漢期の「序」の体例について、少し説明したい*1

 古代の文献で「序」(叙)と言うと、まずは「詩序」・「書序」が挙げられる。これらは『詩経』に含まれる各詩、『書経』に含まれる各演説について、それぞれどのような人物がどのような経緯で作った(と伝えられている)のかについて、述べた文章である。『孟子』万章下にも「詩・書を読む際には、それぞれの作者を知らなければならない」と言う。詩・書を教授・伝承する過程で徐々に形成されたのが、これら「詩序」「書序」だったのだろう。

詩経 (講談社学術文庫)

詩経 (講談社学術文庫)

 

  

中国古典文学大系 (1)

中国古典文学大系 (1)

 

   諸子の学術でも、「序」とは銘打たないものの、「詩序」・「書序」と同じように、文献の作者や学派の開祖とされる人物について解説する文章が作成された。例えば、『管子』戒篇で管仲の死後に斉が乱れた話が掲載され、『韓非子』初見秦・存韓の両篇では韓非が秦王に説いた言葉が掲載されている。これらの文言は、管仲・韓非がどの時代のどのような人物であったかを示して読者の利便を図るために、後人が執筆・収録したのであろう。司馬遷よりも後になるが、前漢末の劉向が宮中の書物を校定した際に、各書に「叙録」を付した。これも、それぞれの文献の作者・学術の始祖について紹介した文で、基本的には『管子』・『韓非子』に管仲・韓非を紹介する篇が付加されたのと意味は同じである。

管子 中 新釈漢文大系 (43)

管子 中 新釈漢文大系 (43)

 

 

韓非子〈第4冊〉 (岩波文庫)

韓非子〈第4冊〉 (岩波文庫)

 

  以上は、いずれも著者自身の手になるものではない。詩・書の実際の作者を考えるというのはナンセンスであるが、文体からも、本文と「序」の作者が異なることは明らかである。『管子』戒篇の管仲臨終譚が管仲の作でないことは、誰にでも分かるだろう(そもそも『管子』自体が管仲の作とは考え難いが、戒篇に到っては、管仲に仮託する意図すらないのである)。

 

 一方、人物についての説明ではなく、その文献・学術を概観する「序」も、しばしば制作された。例えば、『易経』の「序卦」は、易の六十四卦全てについて、一つ一つ順序づけて解説している。また、『荘子』天下篇は、『荘子』の学術が他の諸子よりも優れていることを述べている。

 

易―中国古典選〈10〉 (朝日選書)

易―中国古典選〈10〉 (朝日選書)

 

 

荘子 第4冊 雑篇 (岩波文庫 青 206-4)

荘子 第4冊 雑篇 (岩波文庫 青 206-4)

 

  文献の内容を解説する「序」の中には、著者自身の手になるものもある。まず挙げるべきは、『呂氏春秋』の「序意」である。この「序意」は、『呂氏春秋』の中の「十二紀」のみに対する「序」ではあるが、呂不韋たちが壮大な意図によって「十二紀」を執筆したことを述べる。従来の「序」はいずれも後人の手になるものであるし、そもそもこれらの文献自体が、長い年月をかけて徐々に形成されたものであった。個々の学派の中で形成された言説が少しずつ書き留められ、多くの人々による改変・増補を経て徐々に成長していったものである。こういった経緯で成立した文献であるから、原著者による序文などあろうはずもない。一方、『呂氏春秋』八覧・六論・十二紀の二十万字余りは、呂不韋の元に集った食客たちによって一気呵成に編纂され、最初から全篇が定まった文献として問世した。咸陽の市中に掲げて、「一字でも改めることができれば千金を下賜する」と述べた話すらあるように、学派内で徐々に言説を形成するという従来の学術とは異なり、いきなり膨大な分量の定本を作り上げたのが、『呂氏春秋』の特色である。そして、著作の完成と同様に、序の作成もまた、呂不韋たちの手によって行なわれたのであった。

呂氏春秋〈下〉 (新編漢文選―思想・歴史シリーズ)

呂氏春秋〈下〉 (新編漢文選―思想・歴史シリーズ)

 

  『淮南子』の「要略」も、その名に「序」字を冠していないが、『呂氏春秋』の「序意」と同様の性格を持つ自序である。『淮南子』は『呂氏春秋』同様、大勢の人数を以って一気呵成に編まれた文献であり、『管子』や『荘子』などがそれぞれの学派内で伝承されながら徐々に形成された文献群であるのとは、異なる。思うに、『呂氏春秋』や『淮南子』の母体となったのは、一時期に一人の権力者の下に参集した学者たちであり、その権力者が世を去った後にも脈々と学派集団が継続するということは考え難い。従って、後世にその編纂の意図が語り継がれる可能性は低く、呂不韋や劉安といった権力者本人が存命の内に序を書いておく必要があったのではなかろうか。

訳注「淮南子」 (講談社学術文庫)

訳注「淮南子」 (講談社学術文庫)

 

  「要略」の特色は、『淮南子』全篇それぞれについて順序立てて解説している点である。これには、編纂の意図を示すということ以外に、各篇の散佚を防ぐ目的もあったように考えられる。当時は文章を竹や帛に記しており、書物が非常にかさばるため、各文献は基本的に一篇ごとに流通していた。このようにばらばらに流通していた上に、古代の書物には書名・篇名・著者名を記す習慣も無かった。それでも学派内で伝承されているうちは把握のしようがあるが、学派集団が衰えてしまえば、ばらばらの篇について「これとこれは同じ文献の一部分ずつで、これは違う」といった選別をすることは、非常に難しくなる。そこで「要略」のように、全篇について解説する篇を残しておけば、『淮南子』にどのような篇があり、それらがどのように並んでいたかが分かる。

 

 以上のことから、『史記』以前のあとがきは、以下の二種類にまとめられる。

  • 甲、作者もしくは学派の始祖について、その時代・人物・言行について紹介し、読者の利便を図ったもの。後人による執筆。
  • 乙、その文献の内容・章立てを概説したり、その学術の意義を主張したりしたもの。作者自身によって執筆されることもあった。

 「甲」は学術の流別を把握する助けとなり、「乙」は文献の内容を把握する助けとなる。『史記』の「太史公自序」は両種を兼ね備えている点、そして何より著者自らが「甲」の内容を記した点で、従来に無いあとがきと謂える。(二歩/以下続)

 

続きはコチラ

あとがき8 【ゲスト投稿】長大なる自分語りの祖 : 司馬遷『史記』その② - あとがき愛読党ブログ

 

*1:なお、「序」には「端緒」という意味の他、「順序づける」「述べる」という意味がある。例えば、『易経』の「序卦」と『呂氏春秋』の「序意」とで「序」のニュアンスは異なるが、ここではそれらの違いについての議論はスキップして、単に司馬遷以前の「序」として論じた。

あとがき6 あとがきはなぜ必要なのか: 小熊英二『単一民族神話の起源』(新曜社、1995年)

 あとがきは、本当に必要なのだろうか?
 (特に)人文系学術書の、長くて、情緒纏綿で、多分に私事に渉るあとがきは、たとえば理系の人士の目にはいかに映るのだろうか。

 小熊英二が最初の単著に書いたあとがきは、それへのアンチテーゼであったのだろう。

(…)紙面は著者だけのものではなく、編集・校正・装幀・営業・印刷製本など多くの人びとの労力と資源をついやすことで読者に提供される公共の場である。それゆえ、読者に関係のない、私の個人的謝意に使用することは控えさせていただいた。ただ、そうした方がたのご厚意がなければ本書がありえなかったことだけは、とくに記しておきたい。

小熊英二単一民族神話の起源』(新曜社、1995年)

単一民族神話の起源―「日本人」の自画像の系譜

単一民族神話の起源―「日本人」の自画像の系譜

 

  かつて出版社に勤務していた小熊の言はなかなか重い。その次の著書でも

公共の紙面に私事を書くことは好まないが、完成にいたるまで、また出版にいたるまでにご教示をいただいた方がた、お世話になった方がたに感謝を申しあげたい。
小熊英二『〈日本人〉の境界』(新曜社、1998年)

「日本人」の境界―沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮 植民地支配から復帰運動まで
 

 と、さらに簡潔にその理念が述べられている。

 確かに筋の通った指摘である。謝辞と称していきつけの飲み屋について延々と書かれているあとがきを見て閉口するような経験が私にもある。
 学術書ではないが、ライトノベルのあとがきはひどい。ラノベは一冊も読んだことがないが、故あって国内刊行のラノベのあとがきを延々と読むことがあった。まさにあれは「私事」のダダ漏れの感がある。
 ラノベはまあ措いておくとして、学術書、否学問というものは反証可能性(誰がやっても同じ結論に至れる)が肝なのだから、「私事」を持ち込むべきでないという主張は十分理がある。

 色川大吉が自著のあとがきに書いた一節は、そのような葛藤を素直に表したものではないか。

「まえがき」も「あとがき」もない本にしたかった
色川大吉『明治の文化』(岩波書店、1970年)

明治の文化 (岩波現代文庫)

明治の文化 (岩波現代文庫)

 

  このようなストイックな姿勢には自分としても心動かされる。しかし、私はあえてあとがきの必要性を説きたい。

 あとがきはなぜ必要なのか?それは、「経験」(「私事」)と「学問」との関係にわたる問題なのだ。
 マックス・ウェーバーの議論を引くまでもなく、いかに「客観的」な学問上の考証も、「主観的」な関心や観点なくしては出発できない。関心や観点は畢竟、生い立ち、家庭の状況、住んだ土地、時代との出会いなど、学者の個人的な経験に根差す。

※ただそれが、学問は所詮主観的であって客観性は担保できない、とはならない。このような「柔らかな客観性」については、遅塚忠躬『史学概論』(東京大学出版会、2010年)参照。

史学概論

史学概論

 

 そのような書き手の経験を盛り込めるのは、あとがきが最も適している。

 関心、観点の背景が明らかになっていない学術書は、私にとっては、のっぺらぼうのようでどこか落ち着かない。経験が学問にまったく反映しないということはありえない。あとがきは、著者の成分表示なのだと思う。あとがきのない本は、それが隠蔽されているように私は感じる。
 無論、経験が学問の領域へとズルズルベッタリに入りこんでいるものは良くない。私の考える優れたあとがきとは、経験と学問とが緊張感をもって切り結んでいる様子を見せてくれるものだ。

 冒頭で紹介した小熊英二は、その次の著書ではやや姿勢を改める。2002年に出た『〈民主〉と〈愛国〉』のあとがきで小熊は、自分の父が関わった裁判について記述するのだ。戦後シベリアに抑留された小熊の父・小熊謙二氏は、同じく元日本兵としてシベリアに抑留された呉雄根*1氏(在満洲の朝鮮系)に対する戦後補償を求め、共同原告として日本政府を訴えたのだという*2。それを間近に見た体験(私事!)について小熊はこう書く。

とはいうものの、こうした事件が本書や前著を書く動機になったのかといえば、意識的にはそういうつもりはなかった。上記の事件の経緯に、自分の研究と重ねる部分があることについても、「偶然の一致」という感じしかしない。人間は「パブロフの犬」ではないから、ある事件があれば直接にその反応が現れるほど単純ではない。また裁判や捕虜体験は、あくまで基本的には父の問題であって、私はそれに関係したにすぎない。この訴訟が私の研究の背景であるなどと単純化して語られれば、私は違和感を禁じえないし、父も意外に思うだけであろう。
 しかし一方で、私は本書で数多くの戦後知識人たちの思想を読んだあげく、人間は結局のところ、自分の動機を自分で理解するなど不可能なのだという結論に達した。私は今もって、研究の動機については、「自分でもよくわからない」と答えるしかない。しかし上述のような父との関係のなかで生きてきたということが、何らかの形で自分の研究に影響しているということも、自分ではわからないが、まったく考えられないことでもあるまい。あとは読者の方々が、ご自由に判断していただければよいと思う。
小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉』(新曜社、2002年)

〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性

〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性

 

 学問が経験にすべて還元されるわけではないが、経験抜きの学問はありえない―小熊のようなどっちつかずの態度は、知的誠実性のひとつの表れであるように思える。

 このような経験と学問とが葛藤する汽水域として、あとがきは必要なものだと私は考える。


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以下、余談。

 かの丸山眞男が、れっきとした原爆の被害者(1945.8.6、広島市宇品での軍務中被爆)であることは、意外にそこまで知られていない。その理由のひとつは、丸山自身がその体験をあまり書いておらず、被爆者手帳も申請しない構えをとっていたことにあるだろう。
 丸山自身も1967年の対談中で

いま顧みて、一番足りなかったと思うのは、原爆体験の思想化ですね。(…)そういう意味での原爆体験ってものを、私が自分の思想を練り上げる材料にしてきたかっていうと、していないですよ。その点がね、自分はいちばん足りなかったと思いますね

と回顧している。
 先日「総特集 丸山眞男」として公刊された現代思想 8月臨時増刊号』(青土社)での川本隆史苅部直との対談で、この丸山の“原爆体験の不徹底化”問題が長い尺をとって討議されている(以下、これにかかるものはすべてこの対談から引用、重引)。

  丸山自身は、その体験を学問化できなかったと告白しているが、「三たび平和について」(1950年)など戦後の論文のいくつかには原爆体験の影響を見て取れるということは、川本・苅部両氏の一致する見解だ。

 ではなぜ丸山は原爆体験を語りたがらなかったのか。

私は原爆体験をすでに思想化していると思うほど不遜ではありません。小生は「体験」をストレートに出したり、ふりまわすような日本的風土(→ナルシシズム!)が大きらいです。原爆体験が重ければ重いほどそうです。もし私の文章からその意識的抑制を感じとっていただけなければ、あなたにとって縁なき衆生とおぼしめし下さい。

―1983年7月の私信

 このようなスタンスは、「実感信仰」と「理論信仰」双方への安易な寄りかかりを拒否し、その架橋を模索する論文「日本の思想」(初出1957年)に通じるものがある。

日本の思想 (岩波新書)

日本の思想 (岩波新書)

 

 これらを総括するものとして最後に、この対談中の発言(苅部)を引用し、結びにかえたい。

理論と実感との関係も、むずかしいところですね。実感のなかにとどまっているだけでは普遍的な議論はできませんし、逆に実感ぬきの抽象的思考の産物は、どこかで現実から遊離して説得力を失ってしまう。そのバランスをとりながら実感をすくいあげ、それを外から眺め直すという作業をくりかえすことが大事なんでしょう。

 

以下、私事。
 ここ数年で日本社会ではエラいことが続けて起こって、いくつものクリーヴィッジが生じた。自分はそれを体験しながら、思考の次元できちんとこれらに向き合ってこなかったことに、少しくひっかかりがあった。
 しかし、オンタイムでなくとも、丸山のように、遅刻しながら自分のペースでやっていけばよいのだと、今回この記事を書きながら思った次第だ。

 あとがきについて書きながら、あとがきのような文章になってしまい、大変恥ずかしい。
 自戒として最後に、M. ウェーバーの名言を引いておこう *3

何をも為さずしてあとがきを書きたがる者こそ、真の》Dilettant《「ディレッタント」である。

 

(了) 

 

*1:氏の証言は、NHKの戦争証言アーカイブスで視聴できる。http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001100678_00000

*2:その判決は、「日本の国際法判例」研究会のウェブサイトで閲覧できる。http://www.eonet.ne.jp/~ntanaka/2000-18.html

*3:これは当然嘘である。

あとがき5 見ること知ること生きること: 小林正人「研究者になるまで」

東大文学部のHPで見つけた文章がすごくよかったので、紹介したい。

小林正人言語学)「研究者になるまで」

http://www.l.u-tokyo.ac.jp/teacher/essay/2013/3.html

私は気が弱い。およそプレッシャーというものが苦手で、受験競争がいやで高校を辞めたほどである。

自分の人生の難問に取り組むことなくしては、実用的な学問を修めて世の中を渡っていくのは無意味だと思ったので、大学に行きたいと思い直したときから、人文的なことが学べる学部に行こうと心が決まっていた。計画どおりにならない人生だから、天の導きにまかせて学びたいと思うことを学ぶのがよいと思う。

いわゆるフィールドワークだが、自分にとってはつまるところ「なぜ生きるのか」という高校時代からの問いへの答えを求める旅である。少数民族の人々のおかげで、硬い土地から硬い人間が生まれることを知り、貧しくともおよそ人の生きるところにはユーモアやペーソスや誇りや愛情があり、苦しい人生にも生きる喜びがあるのかも知れないと思えるようになった。

 

気の弱い高校生が、文学部に入って、無自覚的に、あるいは自覚的に、学究の道を歩んでいくさまは、『蘭学事始』を思わせるし、決して器用ではなかったこの著者が、心惹かれるまま出会ったひとびとによって人生の喜びをなんとなく見出していく過程のドラマティックさは、『あまちゃん』に匹敵する。この方の場合、学問することは、人間としての生き方と不可分の関係にある。

この方の単著は英文だけなのでおそらくこれに相当するあとがきは期待できないが、これを「あとがき」と呼ばずしてなんと言おう。

 

 また私はこの文章から、「文学部」賛歌をくみ取った。

せめて辞書くらい引けるまで、と思って始めたものの、引きたい単語の語根が分からないと辞書を引けず、語根が分かるためには活用を覚えねばならず、それ以前にどこからどこまでが単語なのか分からず、瞬く間に一年が経ってしまった。(…)引けない辞書と夜がな格闘していてそれ以外の勉強をしなかったので、ほかに選択肢があるわけでもなく、梵語学梵文学という研究室に入った。

研究職が狭き門だということもすぐに気がついていたが、知りたいという気持ちのほうが強かった

ずっと後になって気づいたことだが、本をちゃんと読めるようになるには本の読み方を学ぶ必要があり、それを体にしみこむほど教えてくれた文学部の学問は、意外にも実用的であった。

 まったく押しつけがましくないけれども、何気なく書かれた一節一節の中に、なにか促されるものがある。この著者のような“グローバル人材”を擁する「文学部」が失われないようにしたい。若人よ、「文学部」に入って、ややはずれた人生を歩みませんか。

あとがき4 「造反教官」の1970年 : 佐藤進一『日本の中世国家』(岩波現代文庫、2007年)

佐藤進一(1916~)。日本中世史の研究者である。饒舌ではないが、その篤実な仕事ぶりは良く知られる(その一例は、http://newclassic.jp/2072 )。書いた論文や著書は決して多くはない。「確実なことをできるかぎり少なく書く、という実証史家の道徳律*1」を体現している研究者である。

そのエッセンスがつまった『日本の中世国家』(岩波現代文庫、2007年、原本1983年)の「はしがき」に不穏な一節がある。

 ところで、本書を成すに意外の年月を要した原因と責任の大半はもとより著者の浅識と疎懶に帰せられるけれども、ひとつには一九六八年以来の東大文学部闘争との関わりが、数年に及ぶ課題の放擲を余儀なくさせたからである。(…)そしてまた、あの年の春ゆくりなく出逢い、やがてわが心への重い問いかけとなってしまったあの闘争への、ささやかな関わりがなければ、本書はこのようなものにならなかったであろうことも、ここに書きとめておきたい。

 

日本の中世国家 (岩波現代文庫)

日本の中世国家 (岩波現代文庫)

 

  

1968年当時、佐藤進一は東大文学部の教授であった。その彼と東大闘争とでなにがあったのだろうか。

文庫版になったとき「解説」を付した五味文彦も、この部分について注意を促しながらも、明言を避けている。

 

佐藤進一が1970年に東大文学部の教授を辞したことはそれなりに知られている。それとこの「はしがき」が関係あることまでは見当がつくのだが、なにがあったのかは詳しく知らなかった。

当事者たちにはおそらく自明だったのだが、みなそれを活字の形で書いていないのだろう。国文学でいう朧化である。

学者の経歴とその業績は別物という見方もある。手堅い実証を売りとし、特定のイデオロギーを標榜しなかった佐藤進一の場合はとくにそうかもしれない。しかし、ここで佐藤進一を敬愛する網野善彦の言を引いておこう。網野は佐藤進一を「現在の中世史家のなかで最も卓越した実証史家であることを誰しも認めるであろう」としてから以下のように述べる(網野『中世東寺東寺領荘園』)。

「実証」は決して「無思想」ではなく、史家の思想―人間としての生き方と不可分の関係にある。

(…)ここに一端を見せている佐藤の人柄と、その学問とは決して切り離して考えることはできない。

 

中世東寺と東寺領荘園

中世東寺と東寺領荘園

 

 

佐藤進一の学問を知るうえで、1970年に起きたことを確かめたいのは以上の理由による。

今回は、おぼろげにされてきた佐藤進一東大辞職の経緯を、当時の新聞記事で確かめてみたいと思う。

朧化されたものを暴露するとはいかにも無粋だが、考えてみれば佐藤進一の拠って立つ実証的歴史学はかかる無粋の極みとも言えるので、思い切ってやってみようと思う。

 

*********** 

 

東大紛争(闘争)は、1968年に端を発する。学生ストライキは医学部からひろまり、7月には安田講堂バリケード封鎖。10月には全学部ストにいたった。

その中でも文学部の紛争は激しかった。学部長・林健太郎が学生により監禁される事件も起こり、授業の再開も全学中最後までずれこんだ。

 

それを報じた新聞記事を以下に引用しよう。

 東大文学部の授業 再開つまずく(読売新聞1969年7月14日朝刊)

(…)一方、教授会の内部にも、この時期に授業を再開することに反対する教官がかなりある。

 この中には藤堂明保教授(中文)小林正教授(仏文)佐藤進一(国史)などの主任教授クラスも含まれている

ここで佐藤進一は、授業再開に反対する勢力として名前を見せる。ついで、翌日の記事。

 講義をボイコットへ 東大の“造反教官”二十人(読売新聞1969年7月15日朝刊)

 東大文学部の授業は、十四日午後、一年ぶりに一応再開されたが、再開に反対する教官約二十人は同日午後学内で集まり、来月二日まで講義を行わないとの申し合わせをした。東大でこれだけの教官がまとまって講義ボイコットを決めたのは初めてで、学生側の妨害活動と合わせて再開授業に大きな問題を投げかけることになりそう。

この“造反グループ”は、藤堂明保(中国文学)佐藤進一(国史)小林正(仏文)ら各教授をはじめ、かなりの学科の教授、助教授、講師クラスが加わっている。(…)

佐藤進一は「造反教官」と名指されるにいたった。

そしてそれから一年以上たったころ、藤堂明保と佐藤進一は文学部を辞任する。

 

藤堂明保の辞任に関しては、司馬遼太郎のエッセイでユーモラスな描写がある。司馬遼太郎『この国のかたち 一』(文春文庫、1993年、原本1990年)より引用しよう。

 藤堂さんは学園紛争のとき、東大教授の職を捨てた。そのことについては私にも意見があるが、ここでは措く。

 その後のことである。真顔で、アメ屋をやりたい、といわれた。それも、小売屋である。浦和の自宅をすこし改造して店にするという。

 この人のいうアメとは、中国のキャラメルのことである。あれはうまいものではない。

 しかし腐らなくて日保ちがするということではシューマイよりはいい、と藤堂さんはいう。落語に出てくるような武士の商法である。

「店番はどなたがされます」

「私がします。家内がいやがるんです。しかし私が東京に出る日は店を閉めざるをえません」

 

この国のかたち〈1〉 (文春文庫)

この国のかたち〈1〉 (文春文庫)

 

 

新聞は両名の顔写真入りでこの「事件」を報じた。まず読売。

東大“造反教授”が辞任 文学部の藤堂、佐藤氏 “古い体質改めよ”(読売新聞1970年10月10日朝刊)

表面的には全く平穏になった東大(加藤一郎学長)で、文学部の藤堂明保(五五)佐藤進一(五三)の両教授が「大学自身の紛争責任を明らかにしないで、学生だけを処分したのは不当だ」として、さる七日辞任した。両教授は「紛争後も教授会の古い体質は全く変わっていない」と強く批判している。

ついで朝日新聞。こちらでは二人の顔写真とともに、詳しい談話が載せられている。

 東大二教授が退官 学園紛争「責任回避の教授会(文学部)」(朝日新聞1970年10月10日朝刊)

“造反教官”で知られた東大文学部の藤堂明保(五五)(中国文学)佐藤進一(五三)(国史)両教授がこのほど相次いで大学をやめた。「文学部教授会は、紛争の導火線となった哲学科学生の処分がそもそも間違いだったにもかかわらず、責任を回避し、居直った。このような教授会に今度、同席する気になれない」というのが、ほぼ共通した辞職理由。昨年十月、一番遅れていた同学部の授業が再開されてからまる一年後の両教授の辞職だけに、紛争の根の深さをあらためて示したようだ。

(…)

佐藤教授は九月八日に辞表を提出し、十月七日の文学部教授会で受理された。辞表提出にさいし同教授は「退官の趣意に関する覚書」を全文学部教授に配った。要旨は「哲学科学生の処分はすべきでなかったと考えるし、従ってこの処分を行なった教授会の構成員である私は、当然その責任を明らかにしなければならない」というもの。九日夜、東京・練馬区関町の自宅で同氏は退陣の弁を語った。

「一ついえるのは、処分についてもっと本筋にかえって考えるべきで、処分の理由となった事実をもう一度はっきりさせるべきですよ。これが何よりの前提で、教授会の議論には欠けていた……」

 同氏は「精神的にもすっかり疲れました。これからはしばらく本でも読んで静養します」と静かな口ぶりだった。

 正直なところ、ここまではっきりした言葉がかの佐藤進一から語られているとは思わなかった。学会にもあまり顔を出さなかったという控えめな学者と、覚書を全学部に配るという姿とのあいだに戸惑いを覚えてしまう。

 

 今まで挙げてきた新聞記事からもほの見えるように、「造反教官」へ向けられるまなざしは決して温かいものではない。これは当の大学内部からもそうだった。この紛争の直接的被害者である丸山眞男の手記から引いておこう。

大学紛争における「造反」教官に気の弱い人が多い、という話に関連して藤田省三君が言った。「気が弱いということは悪徳ではないでしょうか。」よき言や。しかし現代のもっとも厄介な問題は、「良心的であること」が紙一重の距離で、気の弱さに接続しているという点にある。

中年男が、―もっとひどい場合には白髪男が―助平面で「反抗する若者たち」にすりよって、彼等の感覚をくすぐろうとこれつとめることによって、かろうじて自分の存在理由を世の中に顕示している光景ほど、日本のインテリの「知性」なるものの底の浅さをあらためて証明したものはなかろう。これにくらべれば、当の「反抗する若者たち」の方が、無邪気なだけにはるかに醜悪でない。

自己内対話―3冊のノートから

自己内対話―3冊のノートから

 

 

佐藤進一は丸山のような“強い人間”ではなかったかもしれない。彼の「良心的であること」とはなんだったのか、彼の内にどのような葛藤や覚悟があったのか―彼自身の言葉と仕事からそれをもっと跡づけたく思う。

*1:松沢裕作『明治地方自治体制の起源』427頁

あとがき3 【ゲスト投稿】お星様の話:喬秀岩『義疏学衰亡史論 東京大学東洋文化研究所研究報告』(白峰社、2001年)

 今回はなんと、いきなりゲスト投稿である。わが大先輩、二歩氏からの玉稿を賜った。「第三回目にして!?」と思われるかもしれないが、このまま本ブログをあとがき公共圏として育てていきたいので、どしどし投稿してほしい。それではご賞味あれ!

 

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義疏學衰亡史論 (東京大學東洋文化研究所研究報告)

義疏學衰亡史論 (東京大學東洋文化研究所研究報告)

 

 

 

  

  或る人の説に曰く:「學問的真理の無力さは,北極星の『無力』さと似ている。北極星は個別的に道に迷った旅人に手をさしのべて,導いてはくれない。それを北極星に期待するのは,期待過剰というものである。しかし北極星はいかなる旅人にも,つねに基本的方角を示すしるしとなる。旅人は,自らの智惠と勇氣をもって,自らの決斷によって,したがって自らの責任において,自己の途をえらびとるのである。北極星はそのときはじめて『指針』として彼を助けるだろう。『無力』のゆえに學問を捨て,輕蔑するものは,一日も早く盲目的な行動の世界に,感覺だけにたよる旅程に投びこむがよい。」 
  學問が,時とともに遷り,人とともに變わるものであることを思えば,學問的真理などというものは本來有り得ないものであり,有るとすればそれは,その人にとっての學問的真理とでも言うしかないものである。この人は,この人にとっての學問的真理を尊重し,指針として仰ぐことを我々に勸めているのだが,それは譬えて言えば,この人の門をくぐらなければ見えないこの人にとっての北極星のことであり,何のことはない,この人の私塾の天井に幻燈で映し出された北極星ということになる。進歩的な奴隷主は,奴隷たちに,主體的に生き生きと生きよ,と敎え諭す。この人の私塾の建物の中で,天井の北極星を指針と仰ぎながら,自らの智惠と勇氣をもって,自由にしかも安全に自己の途を歩むがよい,とこの人は我々に勸める。ある種の人々にとって,こういう開明的な奴隷主の下で「自由な」奴隷として生きることは非常に快適であり得ることを私は知っているが,私自身はまっぴらご免蒙る。しかし,この惡賢い奴隷主は,私のような人間ははなから相手とせず,おまえはとっととこの「樂園」から出て行け,そして野垂れ死ぬがよい,と捨て鉢な呪詛の言葉を浴びせかけるのだ。勿論,それは奴隷たちに聞かせる爲の言葉でもある。 
  私には,私だけのお星様が有る。「北極星」のような物物しい名前は無いかわりに,遙かな空の上に清らかに,美しく,だが少し寂しそうに輝くお星様。決して私を見捨てることなく,いつも私に光を與えてくれるお星様。私はいつも大地に泥だらけのあしを踏ん張りながら,そのお星様を見上げて,生きる力と希望を與えられているのだ。奴隷たちに圍まれて安穩な「樂園」で欺瞞の人生を送るよりも,私は私のお星様を見つめながら,お星様に見守られながら,誰もいない荒野に静かに息を引き取りたい。 
  曾て友人が閑章を一枚彫ってくれた。「自用自專反古之道」という。その言葉,私にとっては少しも不吉ではない。 
                        公暦二千年五月三十一日自識 

 


 以上は、喬秀岩『義疏学衰亡史論』の序文である。あとがきブログに序文を掲載するのは邪道かもしれないが、この名文を、「本文の前に書かれているから」というだけの理由で排除するのは、あまりに惜しい。そこで、ここで敢えて紹介させて頂きたい。

 喬秀岩氏は、1994年に東京大学大学院博士課程を単位不取得退学し、1999年に北京大学で博士号を取得。2000年から東京大学に呼び戻されて東洋文化研究所助教授に着任したが、2004年に再び北京大学に戻って副教授となり、現在に至る。一時期は東京大学准教授と北京大学副教授を兼任し、両国を半年ごとに行き来して教鞭を執っていたこともあった。
 本書は、喬氏が北京大学に提出した博士論文『南北朝至初唐義疏学研究』の日本語訳版である。訳者は喬氏本人。そもそも、喬氏は日本人であり、「喬秀岩」というのはペンネームである。日本人なのに中国名で学術活動を行い、そして中国語での執筆を好む、変人である。日本の学術誌に中国語で投稿し、それを別の日本人が翻訳して掲載するということもあった。そうとは知らない日本人研究者が、学会後の懇親会で本人を前にして、「中国人でも最近は喬秀岩という学者がいて、なかなか優れた論文を出している」と話していたこともある。それを聞きながら、本人はにやにや薄ら笑いを浮かべていた。
 『南北朝至初唐義疏学研究』は、北京大学で学位を取得するために提出したのだから、中国語で執筆したのは当然である。しかし、現代中国語ではなく古代中国語、要するに漢文を使用している。戦前の漢学者は確かに漢文で論文を執筆していたが、今どきは中国人でも珍しい。日本人である喬氏が古代中国語によって論文を作成し、それを本家中国の最高学府に提出して学位を認められたというのであるから、どれほど凄まじいかは想像できるだろう。なお、昨年、古代中国語のまま台湾で出版されたので(『義疏学衰亡史論』、万巻楼図書、2013年)、もし機会があったら、手に取って眺めてみていただきたい。
 日本語版『義疏学衰亡史論』は極めて平易な日本語で書かれている。しかし、内容は難解である。南北朝隋唐期に編まれた義疏・正義(要するに儒教経典の解釈についての仔細な議論)の性質について、大胆な仮説と緻密な解読によって論じている。一般の日本人にとって、およそ縁遠い分野の話ではあるのだが、この著作に感動した女性(名古屋在住・縦ロール、いわゆる「名古屋嬢」)が新幹線に乗って東京まで会いに来たこともあった。名著である。

 さて、前置きが長くなったが、肝心の序文についての説明に移りたい。

 冒頭で「或る人の説に曰く」として引用される「學問的真理の無力さは……」というのは、丸山真男『自己内対話』の一節である。そして、丸山氏が「北極星」と形容する「學問的真理」を、喬氏は「本來有り得ないもの」と一刀両断に切り捨てる。更には「この人にとっての學問的真理」、「人の門をくぐらなければ見えないこの人にとっての北極星」、「この人の私塾の建物の中」の「天井の北極星」と追い討ち。そして、返す刀で、丸山氏本人に対しても「進歩的な奴隷主」「開明的な奴隷主」という批判を浴びせている。
 この序文は、原作の博士論文『南北朝至初唐義疏学研究』には見えない。つまり、日本語版出版にあたって敢えて付されたもので、日本人に向けて書かれたものである。また、喬氏がかつて「単位不取得退学」した東京大学中国哲学研究室の某教授は丸山真男の愛弟子であり、この『義疏学衰亡史論』が東大の助教授に着任する際の「研究報告」として出版されたという背景も、スリリング。要するに、「オレは色々な人に頼まれたから東大などというところに戻って来たが、お前らの学問を認めたわけじゃないんだぜ」というメッセージが垣間見える。
 一応、本文との関連もある。本書で分析されている南北朝時代の皇侃や唐代の賈公彦といった人物の学術は、経書の文言を解読するという点では清朝考証学に遠く及ばないし、そもそも経書聖典と認識しない現代人にとっては滑稽な営みにすら見える。しかし、当時においては、皇侃や賈公彦の注釈学こそが一流の学問であり、その仕事をないがしろにして良いものではない。たとえ、『礼記』や『周礼』といった儒教経典の原初の形が発掘されて、皇侃や賈公彦の解釈が全く的外れなものであったことが分かったとしても、その学術の価値は全く減らないのである(このことについては、喬氏が数年前に上梓した『論語――心の鏡』(岩波書店、2009年)で論じられている)。ここで、丸山氏の謂う「学問的真理」「北極星」を批判して、「學問が,時とともに遷り,人とともに變わるものである」と述べるのは、皇侃や賈公彦への援護射撃とも謂えるだろう。皇侃にしても、賈公彦にしても、丸山氏にしても、いずれの学術も絶対的なものではないのである。

 

 

論語―心の鏡 (書物誕生-あたらしい古典入門)

論語―心の鏡 (書物誕生-あたらしい古典入門)

 

 

 


 そして、「學問が,時とともに遷り,人とともに變わるものである」という言葉は、喬氏自身にももちろん当てはまる。喬氏はそれを自覚した上で、「私には,私だけのお星様が有る」「私は私のお星様を見つめながら,お星様に見守られながら,誰もいない荒野に静かに息を引き取りたい」と、ややメルヘンチックな口調で、自らの学術の相対性と、それを良しとする信念をつづっている。およそ学術著作の序文とは思えない文体である。

 なお、最後の段落の「自用自專反古之道」というのは、『礼記』中庸の言葉である(「愚而好自用、賤而好自專、生乎今之世反古之道、如此者、烖及其身者也(暗愚なのに活躍しようとする者、卑賤なのに好き勝手にしようとする者、今の時代に生まれながら古代の道に立ち返ろうとする者。これらの者たちには、災禍が及ぶのだ)」)。「私にとっては少しも不吉ではない」というのは、まさに喬氏の反骨を端的に示している。「楽園」を追い出されようとも、災禍を身に受けようともかまわないから、とにかく今の時代でもてはやされる「奴隷主」の定めた「北極星」には従わないということである。
 また、識語に「公暦二千年」として、元号を用いないのにも、喬氏の本領が発揮されていると言えるだろう。喬氏が師と仰ぐ数少ない日本人の一人である戸川芳郎氏も、学生時代に「学部事務の窓口へ、公暦一九五二年と届出て、何度かつき返された」らしい(戸川芳郎「元号平成考」、『二松』第十一号、1996年)。

 以上の如く、この序文には、喬秀岩氏の信念が高らかと表明されている。名文である。(二歩)

あとがき2 刊行遅延20年:塩尻公明・木村健康訳『ミル 自由論』(岩波文庫、1971年)

世に出でて花を咲かせた一冊の本の根本には、関わった多くの人間の苦悩と葛藤が埋まっている。それをうかがい知る窓が、あとがきである。

それゆえ、苦悩が大きければ大きいほど、葛藤が深ければ深いほど、あとがきは渋く味わい深いものとなる。

ということで、今回は吉野源三郎の話だ。

 

自由論 (岩波文庫)

自由論 (岩波文庫)

 

 

 

塩尻公明・木村健康訳『ミル 自由論』(岩波文庫1971年)は珍しく、「訳者あとがき」のあとに、別個に共訳者の「解説」と、さらに別の「あとがき」がついている。さらに珍しいことに、その「あとがき」を書いているのは、担当編集者だった吉野源三郎なのだ。『君たちはどう生きるか』で有名な岩波書店の社員だ。

 

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

 

 

吉野によるこの「あとがき」が、絶品なのだ。あとがき界ではかなり有名な部類に入ると思うが、このブログも始めたばかりだから、こういう古典名作あとがきも紹介していきたいと思う。

 

吉野が『ミル 自由論』の翻訳を計画したのは1938年のことだ。当初訳者を引き受けたのは自由主義者として名高い河合栄次郎だった。しかし、河合事件により東大教授の職を河合が逐われ、戦況も悪化していくなか、1944年に当の河合は死去。計画は頓挫した。

 

ところが戦後、吉野の前に、『自由論』の訳稿を持ってある男が現れた。その名は塩尻公明(当時神戸大学)。河合栄次郎の薫陶を受けた塩尻は、河合と相談した上『自由論』の翻訳を完成させていたのだ。

 

渡りに船。鴨にネギ。この原稿を使って、岩波文庫で『ミル 自由論』が出版される運びとなった。まさにこのとき、1950年。

 

しかし、そこで技術的なアクシデントが起きる。戦後になり新字・新カナ遣いとなったため、戦中に書かれた訳稿を改訂する必要が出てきたのだ。編集部と著者塩尻とのあいだで相談した結果、その作業は編集者の吉野に一任されることになった。

 

吉野は自分の仕事のかたわら、その改訂作業に取り組みこととなる。しかしそれは、恐るべき悲劇の序章だった…。

 仕事は遅々として進まず、私は常に、塩尻君に対して弁解のことばに苦しむ思いを重ねていた。

 

『自由論』に関する仕事は、中絶、中絶の連続であった。そして歳月が飛ぶように過ぎていった。

 吉野がなんとか作業の4分の1を終えたとき、なんとすでに1969となっていた*1。「19年かけてこの進捗状況!?」と、この「あとがき」をはじめて読んだ私は仰天した。人間仕事の遅早はしょうがないけど、限度ってもんがあるでしょう。

 

しかしその年(19696月)にとんでもないニュースが吉野を襲う。訳者・塩尻公明が、急逝したのである。

 私は、「悔を千載に残す」とはこのことかと思った。焼鏝のような熱い悔であった。そして、心の中で灰をかぶって奈良の葬儀にかけつけた。塩尻君は、私に託すといった以上、最後まで督促じみたことは一言も洩らされなかったのである。

読んでいるこちらが心苦しくなる状況だ。つらい、つらすぎる。

 

しかし、その次の段落で私はまた腰を抜かす。

 私の訳文整理は1970の夏に、やっと完了した

 ればできるじゃん。やればできるじゃねーか!!

 

「目的が定まったときに 出る人の力、それがいったいどれ程のものか。ひとは時に、トイレに行くことさえ 面倒だと思う。しかし同じ人間がバケーションの為なら何万キロも離れた海外へ旅行する…」という(バキより)。19年かかって4分の1の仕事も、本気で1年やれば4分の3できるということか。

 

結局塩尻の校閲は不可能なので、別人がその任にあたり、共訳者として名を連ねるかたちで、岩波文庫『ミル 自由論』は1971年に出版された。河合栄次郎にこれを依頼したときからあしかけ33年間。その過程を、すべて見てきたのは編集者である吉野だけであり、この「あとがき」はあらゆる意味で書かれねばならなかった*2

 

 

 

*1:ただこの時期は、吉野が戦後知識人としてもっとも多忙でもっとも輝いていた時代のため、やむをえない面もある。ただそれにしても「抱え込むなよ」とは思うが…。

*2:私はこれ以外の資料にあたっていないため、実際のところ、本当に吉野一人の怠惰だけで刊行が20年遅れてしまったのかはわからない。ただ、吉野一人の怠惰だけが理由だと本人が率直に書いているのは、潔いものを感じる。